夜鷹純から逃げられない!


 このままではいけないのだと、ようやく気づいた。決心ができた。
 忘れることは出来ないし、それはきっと今までの私の人生を否定するものになる。でもこの先の人生のことも考えるのであれば、変わらなければならない。
 だからちゃんと行動に移して、動き出そうとした。……のにこれだ。

「俺こう見えてちょっと滑れるんだよね!」

 こちらの返事も聞かず、「見ててよ!」とその人は氷の地面に足をつける。多少よろけているものの、そのまま中央まで進む彼はたしかに『ちょっと』滑れているのだろう。
 そうは言っても、今まで散々本物の滑りを目の前で、最近はまさにこの距離感で見てきたのだ。感心するには不十分。頑張ってるなとは思えるが、実際は私の方がもっと滑れる。
 どうしたものかと考えながら、未だリンクサイドに佇む私を振り返り手を振る男に笑みを返す。ああ、引き攣った不自然な笑いになっていないだろうか。

 彼と顔を合わせるのはこれで三度目のこと。よく広告を目にするマッチングアプリとやらに登録し、お互いがいいねを送り合いマッチングした。何度かメッセージのやり取りを行い、二回の食事を経て、今。
 そろそろ食事以外も楽しまないかと提案され、それもそうだと賛成したものの、まさか私にとってのド地雷を踏まれるとは。
 メッセージを頻繁に見れていなかった私にも非はあるのだが、拒否する間もなく事前に決めていた日程で予約した文面を見た時、この人とはこれが最後だなと悟った。もっと私の意見も聞いて欲しい。とても重要なことだろう。今後お付き合いしていくかを決める期間なのに。
 と一人で文句を垂れながら、あの人もそこまで私の、というか周りの意見を聞き入れる人ではなかったな、と思考が周りだし、止める。
 変わるために動こうとしているのに考えてどうするのだ。

 あの人――純くん。夜鷹純。
 私にとって、大きな存在。私の人生の主人公とも言える。私の人生なのに。
 関係としては幼馴染なのだろう。数個離れているとはいえ家が近所で顔を合わせれば会話をしてくれたし、同じスケートクラブに入ってからは一緒に送迎されることもあり、ともに過ごす時間は多かった。
 あまり友達と話している姿を学校でもクラブでも見かけなかった彼が、私とだけ会話をして、時には面倒も見てくれる。そんなことで私は幼いながらも優越感を覚えた。そしてそれが、執着や恋慕に変わっていくのにそう時間はかからなかった。
 ただその環境は長くは続かなかった。
 どんどんスケートが上手になる純くんには、私たちが在籍していたクラブは、何もかもが足りなかったのだ。

 毎シーズンクラブやコーチを変え、拠点を変え、早々に世界で戦うようになる純くんを、私はテレビ越しでしか見ることができなくなった。
 対する私はスケートで純くんを追いかける!……なんてことは出来ず、純くんの居ないスケートはつまらないと、言うなればスケートから逃げたのだ。純くんが居なくなってから私の成績は伸び悩み、周りの子と差がつき始めた。
 行きたくないと駄々をこねる私に、元々長く続けさせるつもりも無かった両親は「楽しくないなら辞める?」と、私を甘やかした。

 辞めてから気付いたのは、もう二度と純くんと会うことは無いのだなということ。しがみついていたら選手以外としてでも、関係者か何かとして会うことは出来たのかもしれない。
 数々の金メダルを経て、ついにはオリンピックの表彰台で金メダルを首にかける純くんを見て、画面越しだとこんなにも近いのになと私は部屋でひっそり涙した。
 彼は本当に遠くへといってしまった。そして私は、近づく可能性を自分自身で早々に断ち切ってしまった。もう彼は私のことも覚えていないだろう。昔小さな女の子の面倒を見ていた期間があることくらいは覚えていて欲しいな。
 極めて可能性の低い希望を携え、こうして私の初恋は幕を閉じた。

 ――はずだった。

 夜鷹純の電撃現役引退が報じられ、嵐のような会見からしばらくして。私たちはなんと運命の再会を果たす。それも夜、家の前で。
 話題のオリンピック金メダリストだと言うのになんの変装もせず、たった一人で大荷物を持った純くんは、彼の実家の前に佇んでいた。そして、家から出ようと門を開けかけていた私に気付いたのかどうなのか、こちらへ向かってスタスタと歩いてきたのだ。
 こっちは駅方面だからきっとそのまま通り過ぎるだろうと思っていた。私を覚えている筈がないから。ただ、純くんの視線は不思議なくらいこちらを向いている。
 これは、話しかけられるのかも。口止めするために。近所の噂ってやつは、週刊誌の大好物だし。

 だから私は彼をジッと見つめていたし、彼も私をジッと見つめながら距離だけが縮んでいく。そして、私の正面で彼の歩みは止まる。
 彼は道路に立っていて、私は玄関前のわずかな階段の上に立っている。というのに、目線のほぼ一緒の目線の高さ。私は身長が人並みには伸びていたと思っていたが、それは目の前の人も同じようだ。
 画面越しではない純くんが新鮮で、もしかしたらこれは夢なのかもと考え出してしまった。夢であれば、何を言っても許される?何をしても許される?
 そんな私の内情など露知らず、純くんは口を開く。

「久しぶり」

 あ、と声が出る。覚えていてくれた。私のことを分かってくれた。彼の中で、『ナナシ』はまだ生きていた。
 モノクロだった世界が、途端に色を認識し始める。お月様みたいな、二つの金色。それを見ながら、私の口から出た言葉は。

「どちらさまですか」


****


 あのあと私の返答が気に入らなかった純くんは、非難するように鋭い視線で私を睨んでから何かを紙に書き殴り、無言でそれを私に押し付けると何処かへといってしまった。
 手元に残った紙を見ると、どこかの住所と時間が書かれていて、調べるとそれは隣の市のアイスリンクのものだった。季節限定ではなく、通期でスケート場になっている場所だ。彼はこの時間、ここに居るということなのだろう。
 純くんはここに帰ってきたんだ。しかも、私のことを覚えていてくれた。嬉しい。嬉しい!
 ただ、そこへ足を運ぶ決心をするには、気がつけばひと月の時間を要していた。

 様々な葛藤を抱え、それでも純くんに会いたいという欲が勝った私がアイスリンクへ向かってからは、私はずっと純くんの側にいることになる。
 最初こそ純くんのことを忘れたと勘違いされた私は目の前で『夜鷹純』の完璧な滑りを見せられることから始まり、演技後に「覚えてるよね」と問われ、肯うとする以外に選択肢は無かったりしたのだが、それはまた別の話。

 意外にも毎晩熱心に少女をコーチする純くんを手助けしつつ、練習の様子をリンクサイドで眺めたり、数年ぶりに滑ったり。
 食事の世話をするようになるのはすぐだったし、鴗鳥さんのお宅に伺うこともあった。
 とにかく私は平日も休日も、時間の許す限りは純くんの側に居たのだ。それはとてもとても、楽しい毎日だった。
 初恋がまた顔を出すのなんか、すぐだった。

 こんな日常がずっと続けばいいと思いながらも、そう続く訳がないことを私は知っていた。
 純くんは昔以上に何を考えているかが分からなくなったし、きっと何かを決めても私に相談ひとつしてくれない。報告さえも怪しい。
 もう、純くんを失うのなんて耐えられない。そして、冒頭の決心へとつながるのだ。

 ヨロつきながらも周りの人を避け、近づいてきた人を見て、ああそうだったと思い出す。
 まずは今日を卒なく終えることが大事だ。普通の人間として、悪いイメージは持たせないように。そしてそのままこの人とはフェードアウトする。
  また次を見つけなければなと考えながら、「本当に滑れるんだね」とお気持ち程度おだてながら差し出された手を取った。
 
 私は滑れないと思われているんだった。下手な滑りを演じないと。重心をブレさせて。何分最近まで滑る機会が多少あったものだからこれが中々難しい。
 周りの辿々しい人の足の使い方を真似して、彼と手を繋ぎながらリンクを何周かした頃。真ん中にも行ってみようと言い出したのは彼の方で、私はそれに頷いた。
 
 緊張で手に力が入ってしまっているようでぎゅうと握られる。それでも顔には出さないように頑張ってエスコートをしてくれる姿に、微笑ましい感情が湧き出る。
 心の中で応援していると、ブレードへの力の掛け方を間違えたのか、勢いよく足だけが前に進む。身体はもちろん追いついていないのだから、この先は『天才』でもない限り転ぶしかない。
 そして手を離してくれそうもないので私もつられて、だ。流石に男性一人の転倒を支えられるほどの力量が私にはない。最近の私の周りには、その『天才』しかいなかったせいだ。

 血は見ませんようにと願いながら痛みを覚悟したところで、背後から誰かに腰をグッと掴まれた。
 え、と思った時にはするりと手は離され、尻餅をついて痛がっている彼が遠ざかっていく。

 すぐにリンクサイドに辿り着き、安定した地面に立つことで安心感を覚える。ただ、腰には誰かの腕が周り、背後にはその人ぴったりとくっついたまま。
 いや、くっついているからこそ、の安心感なのかもしれない。
 
 私はこの暖かさも、匂いも、腕の太さも、何もかもを、誰のものか知っていた。

 後ろを見上げるように顔を動かすと、いつも以上に怖い顔をした、純くん。
 たしかにここは、彼が拠点としているアイスリンクだ。でも今は一般開放の時間だし、少女との練習時間でもない。
  どうして、と私が口を開く前に、純くんが口を開く。

「……僕の方が、滑れるけど」

 ムスッと拗ねた子供のように搾り出されたその言葉が面白くて、日本を代表するオリンピックの金メダリストがそれを言うのかとおかしくて。
 気まずさを通り越して笑いが堪えられない私に、「あんな風に情け無く転ばない」「ジャンプも飛べる」「スピンだって」と純くんはどんどん追い打ちをかけていって、ついに私はあははと大きな声が出てしまう。

「オリンピックにまで出てる人が、一般人に対抗するの?得意分野で?」
「うん」
「あはは!それは酷いんじゃない?」
「……酷いのは、ナナシだよ」

 うしろからぎゅうと抱きしめられ、首元に純くんが顔を埋める。
 珍しく弱っていそうな姿に母性がくすぐられ、艶のある髪をそっと撫でてしまう。思う壺だ。

「どうして私が酷いの?」
「僕を置いて、逃げようとする」
「……、それは」

 逃げるつもりじゃなくて、と言いたいのに声が出ない。私はまた、理由をつけて逃げようとしていたのだろうか。昔と同じように。スケートから逃げたように。

「僕の方が、幸せにできる」
「っ」
「ナナシは、僕だけを見てたらいいよ」
「……でも」
 
 身体をひっくり返されると、思ったより顔が近くて驚く。猛禽類みたいな瞳は獲物を捉えて離さない。逃げることはできない。

「分かった?」
「……うん」
「なら良いよ」

 私の手首を掴み、満足気に離れていく純くんを見ながら、してやられたなと思う。純くんは最初から、私の考えることなんてお見通しだったのか。
 結局私は小さい頃から、この全身真っ黒な鷹の鋭い爪に捕まったままなのだ。
 
 純くんからは、逃げられない!





 (可哀想なマチアプの男……。頑張って起き上がってナナシさん探して見つけたと思ったら夜鷹に睨まれてクソ〜!て帰ってったよ)




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