ストックホルムシンドローム

 深夜。部屋を暗くし布団に入り、少しだけスマホを触る。あとは徐々に眠くなるのを待つだけ、という時に外でバサバサと大きな羽音を立てヨルノズクたちが騒ぎだした。何かあったのだろうか。まあ時々ある事だしほっといて大丈夫だろう。

「あ」

 そうだ、窓の鍵は閉めたっけ。ベッドの側の窓だけは布団に入る時に閉めようと開けておいたんだった。ヨルノズクの声は大きく聞こえた様に思うし、一応確認しよう。
 よいしょと起き上がりベッドに座ったままカーテンを開ける。

「ひっ」

 ここは五階だというのに窓の向こうに人がいる。想像もしていなかった事に叫ぼうにも喉が詰まって声を出すことが出来ない。
 カーテンを開けてからずっと目が合っていたその人物はニッコリと笑みを浮かべる。
 シャッとカーテンを勢いよく閉め布団に潜り込む。どうして、どうして彼が此処に居るのだろうか。私はもう彼とは何の関係も無いのに。此処に居ることも伝えていないのに。

──コンコン

「っ!」

 窓をゆっくりノックされる。嫌だ、絶対に応じるものか。私はもう寝たのだ。何も聞こえない。きっと悪戯好きなホーホーが窓をつついただけだ。
 身体を丸め、耳を塞ぎ目を閉じる。自分の血の流れる音と、早い鼓動の音。その音の中に小さく窓が開く音。
 しまった、と思った時にはもう遅かった。

 布団越しに上から押さえ付けられる感覚。私がどういう体勢で居たのかも全て把握されている。分厚い布団など関係無しに私は身動きが取れなくなっていた。

「ナナシ」
「……っ」

 小さく、掠れた声で名前を呼ばれる。何も反応してはいけない。私は寝ているのだ。早く脈打つ鼓動とは裏腹に、すーすーと落ち着いた寝息を演じる。
 だがそんな無駄な努力は意味もなく、くつくつと喉を震わせる音が響いて来る。分かっている、誰が見たって三文芝居だと笑うだろう。それでも私は彼と関わりたくない。

「ナナシ、寝たふりしても無駄だぜ」

 知らない。寝たふりではない、私は寝ているのだ。最早暗示の様に自分に言い聞かせる。このまま寝れば問題ない。そうだ。私は寝ている。

「っ」

 布団の端から潜り込んで来た手が、変わらず耳を塞いでいる私の手首を掴む。嫌だ、触らないで。振り解きたいが動いてはいけない。そもそも振り解けるほど動くことはできない。
 するりと親指で手首の腹を撫でられる。ぞわりと鳥肌が身体中に立つ。数回往復したそれはやがてしっかりと手首を握る。

「ふふ、そうだな。ナナシは寝ているんだもんな」

 随分興奮する夢を見ている様だが、と楽しそうな声で一人呟く。心臓が痛いほどに脈を打つ。この男は寝ていないのが分かっているのに態々手首を取り脈を確認したのだ。
 どんどん早くなる鼓動につれ、男の笑いも大きくなる。嫌だ、嫌だ。離して、退いて、出て行って。
 そんな願いは虚しく、手首を掴まれたまま指の背で頬を撫でられたかと思うと無理矢理手を繋がれ外に引っ張り出される。

「いっ」
「もういいだろう。楽しめたか?」
「……っ、」

 オレはつまらなかったぜ、と笑いながら指にキスをされる。手を引こうとしても意味は無く、強い力で握られる。彼にとっては全然力は入っていないんだろうけど。
 背後に落ちてしまった布団を隠れるために取ろうと手を伸ばしたが、その手もまた彼の手に絡め取られてしまう。

「オレから逃げたいのか」
「……、そう、ですね……」
「へえ」

 望まない返答だったのだろう。常時よりも数段低い声。口元は緩く弧を描いているが目は鋭く此方を射抜いている。目を逸らせない。恐怖によって視界が滲み出す。

「オレたちには話す時間が必要だと思うんだが」
「っ、いらないと、思います」
「いや、必要だ」

 一人でうんうんと頷き私にも同意させようとするのに何度も首を振る。今更話すことは何も無い。これ以上私は私を殺したくない。
 いっそこのまま意識が無くなれば、そんな思考まで浮かんでくる。でももしそうなってしまえば、次に目覚めた時私はまた彼の元に戻らされているのだろう。それだけは絶対に嫌だ。
 ぎゅうとなんとか目を閉じて男が諦めてくれるのを待つ。本当は、こんな事も無駄だと分かっている。

「ナナシ」

 何度も名前を呼ばれるが応じない。少しでも彼の思い通りに動いた途端、全てが彼のペースに持っていかれる。それは私だけではない。このガラルの、世界中の人間がそうだ。
 何度目かの呼びかけにも応じずにいると聞こえるあからさまに息を吐く音。諦めて、くれたのだろうか。
 ほんの少しだけ期待をしていると首に違和感。まるで、目の前の男の大きな手が回されている様な。

「ナナシ」
「っ!」
「やっと目が合ったな」

 そろりと目を開くと、どろどろと蜜の様に甘く蕩けた目が視界に広がる。ひゅ、と息を呑んでしまったのは恐怖からか、それとも気管が塞がれているからか。
 少しずつ圧迫されていく喉。苦しくなって来たら緩められて呼吸をさせられる。今私は、目の前の男によって生かされている。

「いっそこのまま、」

──キミの息を止めてやろうか

 耳元で囁かれた言葉にぼんやりとした頭を支配される。そうだ、このまま死ねば、全てが上手くいく。怯えることもなく、悲しむこともなく。
 くるしい。でもこれを乗り越えれば、わたしは、このひとから。

 もう、と思った瞬間に手を離され激しく咳き込む。だくだくと頭に流れていく血液の感覚と、足りない酸素を補う肺の動きに目の前がチカチカと点滅する。
 あと少しで私は救われたのに、とぼんやりと目の前の黄色を眺めているとそれが細まり近づいて来る。ちゅ、と音を立て目元に柔い感触。口元には指で何かを拭う様な動き。ああ、涙と涎が流れていたのか。

「ナナシ」

 呼びかけにぼうと目の前の黄色を見つめ続け応じる。

「オレが逃すわけないだろう」

 そうだ、彼は何でも手に入れてきたんだから。欲しいものは何でも。例えば、地位と肩書きを引き換えに、自分の願望を果たす為の施設を作ったり。
 私が逃げるのなんて彼は最初から分かっていて、私は態と逃げさせられたんだ。二度と逃げようなんて思わせない為に。

「ふふ、ナナシ。オレたちの家に帰ろうか」
「……うん」
「いい子だな」

 背中とお尻に腕を回され子供の様に抱き上げられる。そして彼の相棒を呼ぶ声と、髪に落とされる唇の感触。
 私は、本当はこれを望んでいたのかもしれない。どうしても逃げ切りたいんだったらガラルを出て行けばよかった。でも私はそこまではしなかった。
 私は彼が迎えに来てくれるのを待っていたのか。

 詫びる様に目の前の首筋に顔を埋め擦り付ける。くつくつと笑う音と優しく頭を撫でられる感触にホッとする。

 そうだ。私は彼の元に居るのが一番幸せなのだ。




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