自覚するまであと97日
目の前に立ちはだかる大きな人影。まずい、どうしよう、逃げなきゃ。恐怖で震える足にもたつきながらでもいいから動けと指示を出して、一歩、また一歩と後ずさる。
「なあ」
「……っ、す、すみませ……っ」
「言ったよな?もうオレに近付くなと」
「す、すみませんっすみません……っ」
何度も何度も頭を下げる。私は何もしてないのに。でもそんな事は関係ない。目の前の人物をこれ以上怒らせてはいけない。明日にでもこの地を踏めなくなってしまう。
頭を下げる視界に、イライラと細かくリズムを刻む足先が映る。もう嫌だ、なんでこんな事に。私は平凡な日常を送っていただけなのに。
「はあ。忠告したにも関わらず繰り返すとはな。もういい、連絡先を教えてもらおうか」
「っ!ま、待ってください!」
「何を待つんだ。これ以上オレの時間を無駄にする気か?」
「そ、そういう訳では……」
じゃあさっさと連絡先を教えろと凄まれる。一度くらい私の言い分を聞いて欲しいなんて事は口に出来ず、震える手で仕事で使っている名刺を取り出す。
「あ、あの……こちらで、ひっ」
両手でおずおずと差し出した名刺をひったくる様に奪い取られる。こ、怖い。
見ている事がバレないように視線だけを上にあげ、様子を伺う。ひ、すごい名刺を凝視されている。何も考えずに渡してしまったけど仕事に支障が出たらどうしよう。
……ああでも、もう関係なくなるのか。だって私はガラルに居られなくなるのだから。
「これに載ってるのは社用の番号とアドレスか?」
「ひ、は、はい……」
「そうか、キミは自分のしでかした事を会社に尻拭いさせるのか」
「そんなつもりは!」
「なら分かるよな」
名刺を突き返され、慌ててその裏に自分の電話番号とメールアドレスを書く。それを見ていた目の前の人物にトークアプリをやっていないのかと言われ、IDも付け足す。
字が汚くて読めないとか言われたらどうしよう。言ってきそうだ。そう思うと余計に手が震えてしまう。きっとこの人が読めなくても他の誰かは読みとってくれるはず。
「こ、こちらが私用のものです」
「……最初からこうしていれば良かったのにな」
「っ」
首を洗って待っていろと言い放たれ、去っていく後ろ姿を見届ける。
退職届と部屋の退去の手続きと、いつでも出て行ける様に荷造りをして。ああ、今すぐやらなければいけない事が多すぎて嫌になる。
いっそ、と思って想像したワイルドエリアの上に架かる橋を頭から掻き消す。ダメだ、そんな事絶対してはいけない。……それは本当に行き詰まった時の最後の最期の手段。
でもせめて、両親にだけは私は何もしていない事を主張する手紙だけは先に認めておこう。この先どうなるのか、どんな連絡が来るのか。
敬愛すべきチャンピオン様を、どうして私だけがこんなにも畏怖しなければならないのか。全部全部、変な言い掛かりを付けてくるあの人自身のせいだ。
2021/09/04