遥かの夜空を、六等星まで
   

水平線に死に行く

 特別に酒が好きな訳ではないが、煙草と同じで一度始めてしまうと止める事は中々に困難である。飲めるならば飲める方が得だと、ティーンを半分過ぎた辺りで始めた酒盛り。遺伝的な体質が要因か、アルコールに対してそれなりに耐性があった十五の藍を、両親や祖父母、親戚だけでなく幹部の野郎共までが囃し立て調子に乗らせた挙句、畳床に向かって無様に吐き散らした過去が懐かしい。しかし、それ以降酒で失敗する事はなく、今になっては藍にとって酒も水も変わらぬものになっていた。
 
「そっか。ハタチ、超えてるのか」
 
 テーブルに向き合って食事をするヒースが心底驚いた表情で言った。キャベツの和え物が箸からぽとりと落ちる。藍は迷う事なく腕を伸ばして摘んで食べた。程よい塩気と旨みが丁度良くマッチしている。ヒースには塩辛いと文句を言われたが、酒のつまみには最適であった。
 
「店が潰れてから何年経ったと思ってんの」
「二年、だっけ? だから藍ももう二十一……あの時のオレと同い歳か」
「時の流れは早いなァ」
「オッサンみたい」
 
 失礼な事を言う奴の脛は蹴り飛ばしてナンボだ。大袈裟に顔を顰めるヒースを鼻で笑って、藍はそういえば、とかつての日々を思い出す。
 
「店にいた時はチームの奴等で誕生日祝ったな」
「そうだったね」
「金剛が好きなモン作ってくれてさ、ミズキの時は凄かった」
「ああ、肉責め」
 
 我等がチームのトップは、犬っころらしく誕生日のリクエストは肉肉肉の肉三昧であった。ステーキハンバーグ唐揚げに、エトセトラエトセトラ。トップの誕生日だから張り切ってしまった、と照れ臭そうにしていた金剛に、ヒースとリコが全力で抗議していたのを思い出す。藍も正直な所張り切り過ぎにも程があると思った。目を輝かせて料理に手を出していたミズキでさえ、後半になると顔が死んでいた位である。早々にリタイアしたヒースとリコは戦力にならず、残された三人でどうにか完食してやろうと胃に肉を詰め込んでいたが惜しくも断念。結局、その日シフトの入っていた連中にも声をかけてやっと皿が綺麗になったのであった。あの時は、モクレンの背に尊い光を見た。
 
「誕生日を祝われたのも久しぶりだったな」
 
 そういえば、ヒースは幼少期を児童養護施設で生活をしていたのだった。詳しくは知らないが、良い生活を送る事が出来るイメージは無い。そしてヒースが誕生日の時は、別に好きな食べ物なんてない、の一点張りで結局ミズキリクエストのバーベキューになった事も思い出した。
 
「ヒースの誕生日っていつだった?」
「……二月だけど」
「じゃあオレのが先やな、七月十三日」
「それが?」
 
 何かを察して隠す事なく顔を顰めるヒースに、藍は無邪気に笑ってみせた。
 
「オレの誕生日には歌ってよ、バースデーソング」
「何、それ」
 
 番号知ってるからいいだろう、と藍は言う。
 
「オレ、シンガーじゃないし」
「カンケーないカンケーない。ヒースの誕生日にはオレが歌ってやるからさ」
「いらない」
 
 まあまあ、と藍はヒースの事を無視して期待しているから、と食事に戻る。ため息をついてヒースは、反論するのを諦めた様であった。別に嘘でも返事をしておいて当日無視しとけばいいのに、と思った。それでもヒースはきっと藍の誕生日に電話をかけてくる。そんな気がした。
 
「あ、バースデーラップでも大歓迎やから」
「馬鹿だろ」


*  


「サブ〜」
 
 玄関先から名を呼ぶと、優秀な弟分は尻尾を振りながら此方に寄って来た。艶の良い黒毛を撫で、首輪にリードを繋げて外に出る。深夜三時を過ぎているが、都会らしく車の通りはそれなりにあった。マンションの駐車場に向かい、サブは後ろに乗せる。いつもは助手席がサブの指定席なのだが、今日は先客がいるので仕方が無い。
 荷物を運ぶ大型トラックと幾度となくすれ違い、車を走らせる事小一時間。辿り着いた人気のない港には小型の船が準備されていた。
 車を停めて、サブと共に船に乗り込む。海面を掻き分けて進むのはいつぶりだろうか。そう頻繁に船を動かす事はないので酷く懐かしく感じる。流石のサブも、この時間帯だと眠いのだろう、藍の足元で蹲っていた。呼吸によって上下する温かな体温を感じた。
 直前まで祝いの席――それも主役は自分の――にいて、ほんの少し酔っ払った勢いである。口々に祝福を述べられ、種々折々の祝いの品、ドンチャン騒ぎの宴は勿論楽しいのだが、何か物足りなさを感じていた。頻りに着信を気にしてしまうその理由に気が付いた時にはもう行動を起こしていて、酒の匂いが充満する空間を後にしていた。
 目当ての場所につき、藍はサブの腹を小突いて起こす。船のエンジンを切り、静寂が運転席を包み込んだ。外からは波の音が聞こえる。助手席に置いた、コンビニのレジ袋。購入当時は謎に意気込んでいたのだが、酔いの醒めた今、ここまで来て何を言うのかと思わないでもないが、それを手にする事を躊躇する自分がいた。
 くん、とサブが鳴いて、鼻先を藍の掌に押し付けた。黒々とした真ん丸の瞳が、藍の情けない表情を写していた。
 ふう、と息を吐いて強張っていた身体の力を抜く。もうここまで来てしまったのだ。何もせずに尻尾を巻いて帰るなんて所行を彼に知られたらきっと笑われてしまう。
 運転席を出て、デッキに立つ。縁に腰を下ろすと、すかさずサブが隣にくっついて座った。レジ袋から小さなショートケーキを取り出す。税抜き価格で350円。割引シールが付いていたので本当はもう少し安い。味はお値段相応、といった所か。申し訳程度に乗せられた苺と甘味の随分抑えられたクリームを口に突っ込んだ。
 
「サブにはあげられんから、ごめんな」
 
 潮の香りを纏った風が、藍とサブの間を吹き抜ける。
 海面を見つめる藍は、そっと口を開いた。 

「ハッピバースデイ、トゥーユー」
 
 あの時、ヒースは何を思ったのだろうか。
 叶う事のない自分の幼稚なお願いを、どう胸に仕舞い込んだのだろうか。重荷になってはいなかっただろうか。
 あのヒースの事だから、どうせ話半分も聞いていないのだろうと思う反面、変に真面目なヒースが気を遣っていたのではとも思ってしまう。
 
「ハッピバースデイトゥーユー」
 
 ヒースの死は藍しか知らないと思う。多分。もしこの自分の立場がリコや金剛、ミズキだったならと考えた。周りはチームBを仲の良いチームだと評していたが、実際の所チームを構成する人間は冷め切った奴等ばかりであった。それでも、リコは死に際に涙をこぼしただろうか。金剛は手抜きのお粥ではなくて、もっと栄養のある食事を作っただろうか。ミズキは死ぬ気で生きろを怒りを露わにしただろうか。
 ヒースが最期の場所に自分を選んだのは、ただの嫌がらせなのかもしれない。下手くそなお粥しか作れなくて、病人の前で思い切り煙草を吸うような甲斐性のない藍に対する、読んだ字のままに命懸けの嫌がらせ。所詮、底辺を巣食う事しか残されなかった人間の成り損ない集団なのだから。  
「ハッピバースデイディア……」
 
 藍は藍だ、とヒースは言った。二人きりのベランダで、煙草の煙に纏われながら。
 ヒースの本名を藍は知らない。藍にとってヒースは、ただの元同僚である。ヒースにとって藍も、同じく元同僚でしかなかったのだろう。
 けれど、ヒースの内側に、たとえ元同僚だとかと言う微妙な立ち位置であっても藍の存在が残っていて、そして最後まで存在していた事実に藍がどれだけ救われたか。
 
「ハッピバースデイディアらーんー」
 
 自身より幾分と歳上の男共を従えるのは生まれた時から決まっていた将来であったと共に、自分で選んだ選択でもある。後悔は欠片もしていない。それでも、それでも、だ。大きな会場を貸し切って、高級な食事と酒、見栄えの良い女を両隣に置く派手な席よりも、茶色っぽい肉料理を胃もたれさせながら食べた狭い席を未だに忘れられず、挙句の果てに望んでしまう自分もいた。
 そう、だから、ただの藍という、底辺のショーレストランで踊るバイトパフォーマーに成り下がれた事が、どれだけ藍の安寧になったか。
 
「ハッピバースデイトゥーユー」
 
 ヒース、お前は一生知らなくていいよ。
 ぽちゃん、と音を立ててショートケーキが海に沈む。このくらいの大きさであればヒースもきっと完食出来るだろう。味は微妙だが、まあ気にしない。
 水平線の向こうが白んでいる。もうすぐ夜が明けるのだ。
 このまま、追いやられていく星々と共に消えてしまおうか。そうしたら、きっとヒースはぶん殴って怒るだろうな、と思う。案外血の気が多くて肉体派なのだ、虚弱なくせして。
 サブが藍の膝の上に頭部を乗せた。物言わぬ相棒の首に縋り付くと、湿った舌が頬を撫でた。唾液が乾くと皮膚が引き攣ってしまうのだが、今はどうだって良かった。
 太陽が空に顔を出す前に帰らなければならない。それでも、もう少しだけ此処にいたかった。
 一等の相棒と体温を分け合いながら、藍は海の上に蹲る。
 遠くで鳥の鳴く声が聞こえた。
 朝焼けがうまれる。
  


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