ハッシャバイ、ベイビー
成程、ひらがなの「あ」という文字はどの子供にとっても鬼門であるらしい。
鉛筆とぎゅうと握り締めて書かれた言葉たちは、お世辞にも上手いとは言えなかった。力の入れ具合に反してへろへろと頼りない線は、机の上に散らばる消しカスとよく似ている。手本となる文章が傍に置いてあるため辛うじて日本語として認識出来るが、初見ならまず読めないのではないだろうか。
だから代筆しようか、と何度も言われていたのに。
自分のことを伝えるのだから自分で書くと、一丁前に分かったような顔して言い張った彼女を止める者はいない。この位の年頃になると何でも自分でやりたがるのだ。それを分かっていない職員たちではなかった。
書き物に取り掛かり始めてからしばらく時間が過ぎているが、便箋は未だ空白が多い。一文字一文字、手本を見ながら書いているから仕方のないことだった。瞬きの回数を最小限に抑えて、呼吸を止めて、真剣な眼差しで。文字という概念すらよく理解していないのに、よくやるもんだと思う。しかし、一見すると外国の文字ではないかと思ってしまうほどに拙いそれらを、黒鉛で汚した頬を上気させながら自信満々に見せてくるのだから「じょうずだね」と褒めてやるしかなかった。
このやりとりも、もはやこの時期の恒例となっている。
冷えた手先を擦り合わせながら、机に向かう横顔から目を逸らしふと視線を上げる。周りには自分と似たような光景が広がっていた。机に向かって書き物をする就学前の子供たちと、その隣に座る中学生や高校生。小学生たちは色紙やモールを使って壁の飾り付けをする職員の手伝いをしている。クリスマスツリーの準備をしている子たちもいた。どうやら天辺の星を誰がつけるのかで言い争いをしているらしい。
――「ユウくんは前やったでしょ!」「いーじゃん別に! 早いもん勝ちだし!」「みっちゃんがやるの!」「ずるいずるいわたしもやりたい!」「僕も僕も!」
喧嘩をしているのは小さな子たちばかりで、周りの職員や年長者らは喧嘩がオーバーヒートしないように見守りながらも、どこか微笑ましげだ。
一年間いい子にしていた子のところには、クリスマスの日にサンタクロースが来て欲しいものをくれる。
誰かが語ったのをどこかで聞きつけたのか、はたまた絵本か何かで読んだのか。皆そういうものだと当たり前の顔をしているから、流されるままその日を迎えるようになってしばらくが経っていた。自分としては催物に関心は薄いのだけれど、施設だからこそ季節の行事は積極的に設られるのだ。
クリスマスの決まり事はいくつかある。
サンタクロースからの贈り物を貰えるのは十歳までであること。クリスマス前日までにサンタクロースへの手紙を書くこと。手紙には、この一年頑張ったことを書くこと。サンタクロースは一人しかいないから忙しいということ。みんながみんな、欲しいものを貰えるわけではないということ。
勿論、本当に子供たちが欲しいものを貰えることはない。例年、施設への寄付の一部に子供達へのおもちゃがあり、プレゼントを貰える年齢の子たちにはそこから贈り物がされるのだ。また、十歳を超えた子らも文房具が貰えた。平等性、というやつである。
今日はクリスマス前日。決まり通りサンタクロースへの手紙を書く、まだ字を習っていない小さな子供達に付き合うのは、施設内の年長者の役割であった。
どうやら星を掲げる権利はじゃんけんで決めることになったらしい。まだ声変わりのしていない声が合わさる。
賑やかで活気に満ちた光景に目を細める。クリスマスの前は、いつもこうだった。
しかしなんだか、妙に落ち着かない心地がする。
「おにいちゃん、わたしのみて! かけたよ!」
突然声をかけられて驚きながらも振り返ると、薄いブルーの便箋を掲げて見せる女の子がいた。
ずい、と差し出された便箋を勢いのまま受け取って、文章に目を通す。礼儀正しい時勢の挨拶に始まり(おそらく誰かが面白半分に教えたのだろう)、今年は自分より小さな子が入ってきたのでそのお世話を頑張ったこと、運動会の徒競走で一等だったこと、我儘を言わなかったこと等、今年頑張ったことが書き連ねられると、最後は「おともだちがいっぱいほしいです」で締め括られていた。
つい先日六歳になったばかりの彼女は本を読むことが好きで、勉強が好きだった。早く小学校に入学したいと何度も口にしていたのを知っている。
「……そうだね、よく出来てるよ」
去年のこの日、彼女の隣に座って文字を教えたのは自分だった。あの頃よりずっと読みやすくなった文字を褒めてやると、頬をほんのりと赤く染めて嬉しそうに笑う。そして前髪を揺らしながら照れを誤魔化すかのように、今も必死に書き物へ食らい付いている背中へと目線を逸らした。
「リンちゃんはなに書いてるの?」
パッと、大きな目がこちらを向く。声をかけられたことが嬉しかったのか、大きな瞳を細め、無邪気な笑顔が浮かんだ。
「おかあさんがほしいですってかくの」
一瞬の間。
そして、貰えるといいね、と賢く優しい彼女は笑った。引き攣った口角に幼いリンは気付かない。しかし、自分は見逃すことが出来なかった。
「サンタさん読んでくれるかな」
「……そう、だね。うん、きっと読んでくれるよ」
彼女も、去年はリンと同じものを手紙に書いていたのだ。
フォローをすべきかと思って、不自然に宙に浮いた手が寂しい。喉の奥が渇いていて、結局のところ言葉は浮かばなかった。
すると突然、大きな泣き声が空間を切り裂いた。
声のする方向に目を向けると、大粒の涙をこぼす女の子と、その傍に茫然として立つ男の子がいる。どちらも、五歳の子だ。部屋にいる人全員の視線の的になったことに驚いた男の子が顔を歪めて一歩後ずさった。一方で女の子は周りなんてどうでもいいと言わんばかりの大きな声量で尚も泣き叫び続ける。慌てた職員が駆け寄り、女の子の頭を撫で背中を摩り、宥めようとする。しかし女の子は嫌々するように首を振って、しゃくりあげながらも訴えた。
「さ、さんたさんはっ、いないって、まーくんがっ、おお、おかあさんも、こないって、いないって、いないってぇ」
とうとう堪えきれなくなって、うわああん、と口を開けて泣く子を一人の職員が外へ出るよう促す。残された男の子は、真っ赤な顔をしてその目に涙を溜めていた。夢を夢のままに見ていた子供に現実を突き付けて泣かせた筈の彼もまた、酷く傷付いた顔をしている。高校生の先輩が彼の手を引いて部屋の隅へと連れて行った。
くん、と袖が弱い力で引っ張られた。リンだ。
「……おにいちゃん」
じ、と幼い真っ直ぐな瞳は女の子と職員が出て行った扉に見ている。
頭を撫でてみる。
リンは何も言わなかった。
嫌な季節だ。
それでも、苦々しい後味の残る空気に安心感を覚えた。
*
頬を軽く叩かれる感覚を拾って、ヒースの意識はゆっくりと浮上した。薄らと開けた目に、いの一番に飛び込んできたのは寝起きには眩しすぎる鮮やかなマゼンタである。
「お、起きた。こんなとこで寝てたら風邪ひくぞ」
叩かれた箇所を今度は容赦なく摘まれ、鋭い痛みが走る。顔を顰めたヒースは犯人を睨み付けた。
クリスマス当日は客の入りが普段より活発になるため、ホールシフトの入っていないキャストたちもヘルプとして呼ばれていた。給料を貰えるに越したことはないので、今日ミーティングとレッスンの予定を入れていたチームBの面々も臨時スタッフとして働いていた。勿論ヒースも例外ではない。しかし、前半は問題なくホール仕事に専念していたのだが、レッスンで消耗した体力がとうとう限界に近くなりチームのトップ直々に休憩を言い渡される結果になってしまった。
誰もいないレッスン室の床に寝転がり、コートに身を包んで目を閉じるとすんなり眠りに落ちることが出来た。自覚はなかったけれど疲労は充分に溜まっていたらしい。今日のクリスマス公演の千秋楽を終えると殆ど日を置くことなく歳末公演が始まる。その最終調整にヒースは追われていたのだ。自分たちから公演開催を提案したのだから、それ相応の結果を残さなければならない。完成まで程近いけれど、まだ追い込める箇所はある。今日も、閉店作業後にチームで集まる予定だったのだが、自分がこの調子ではどうだろうかと考える。最悪、自分だけ見学の可能性もある。それは嫌だと思った。遅れを取るのは、置いていかれるのは。
「ほらほら起きろ〜。もうすぐ店閉めるってさ」
睨むなよ、と藍は呆れた顔をして立ち上がり、ヒースもゆっくりと横たわっていた上半身を起こした。
しかし、さあ、と頭から血が下がっていく感覚がして目を瞑る。瞼の裏が白み、キィン、と耳鳴りがした。床についた腕が震える。指先が冷たい。遠くの方に意識が持って行かれるようで、上手く立ち上がることが出来なかった。
「閉店作業終わったら賄いでプチパーティーだってさ」
――早く……とミズキとモク……食い……ぞ。
――余った……ケー……やって。
ヒースは立ち上がることを諦めて再び地面に頭をくっつけた。藍が何かを言っているようだが、耳の奥に水が溜まった時のようぼやけて断片的にしか聞こえない。ぐるぐると世界が回っているような感覚。脳を揺らされるような不快感を覚えた。
ヒース、と緊迫感を持った声で名を呼ばれた。藍が目の前にしゃがむ。指先が前髪をめくり、冷えた手のひらが額に当てられた。
「なに、体調悪いの?」
熱はなさそうだけど、と顔を覗き込んでくる藍の肩をヒースは押し返した。その力はひどく弱々しく、藍はびくともしない。しかし、僅かに開いたヒースの口元を認めて訝しげな表情を浮かべつつもヒースの言葉を待ってくれた。
開いた口を一旦閉じ、唾液を飲み込んで乾いた舌の根を潤す。
「……夢を、見たんだ」
あまり、気分の良い夢ではなかったと思う。心の奥に冷たいものが広がって、胸がざわめくような。内容は忘れてしまったけど、後味の悪い感覚が残っていた。思い出そうとしてもその思惑とは逆に力が働き曖昧であった夢の輪郭がさらにぼやけていく。指先を僅かに掠めて去って行く。いやな心地だ。
ヒースの言葉はそれきり途絶えてしまい、藍はヒースを一瞥するとスマートフォンを取り出した。
「……ミズキに連絡するから」
「藍は、いつまでサンタがいた?」
帰った方がいい、と言う藍を遮るようにヒースは口を開く。
突拍子のない質問に、一瞬呆けた顔をした藍は画面を操作していた手を止め、ヒースに向き合った。
「まだいるけど」
当然だろう、と言いたげなその表情に今度はヒースが困惑する番であった。
「いるんだ」
「いるいる。めっちゃいる」
「……めっちゃいるんだ」
そっけない棒読みであるが、顔は真剣そのものだった。予想外の回答に気が抜けてしまう。それがなんだかとても面白くて、ヒースは床に倒れたまま笑い声をこぼした。
そうか、サンタクロースはいるのか。存在して良いのか。
それを見た藍がむ、と唇を尖らせた。
「笑うなよヒース。馬鹿にすんなや。信じた方が面白いやろ」
元気じゃん、と藍はスマートフォンをポケットにしまった。そして、しゃがんでいた姿勢から腰を床に落として座る。ちょうど、ヒースの頭のすぐ隣だ。
「馬鹿にしてないよ。ただ……」
「ただ?」
胸の内側の不快感はいつの間にか消えていて、回っていた世界がしゃんと元通りになっていた。
「やっぱなんでもない」
「なんだよ〜」
濁された言葉に藍は追及はせずに肩を竦めるに留めた。そして頭下げてると起き上がれなくなるぞ、とヒースの首を持ち上げてあぐらをかいた膝の上に乗せる。
下から見上げると藍の顔はよく見えなかった。
「かたい」
「文句言うな落とすぞ」
ヒースは笑って、目を閉じる。
どうやらもうしばらくここにいていいらしい。藍は閉店作業をサボったことになるが、きっと此奴なら上手く怒られてくれるのだと思う。
ふと、言葉が口からこぼれる。
「……オレ、サンタだったんだよね」
施設時代の話だ。クリスマス当日は職員と年長者がサンタクロースやトナカイの格好をして、パーティーをした。本当はやりたくはなかったのだけれど、決まりだったのでヒースも参加していた。数種類のお菓子が入った袋を一人一人の子供に手渡し、メリークリスマス、と挨拶をする。全員にお菓子とプレゼントが行き渡ると、職員が購入してきたホールケーキを人数分切って食べるのだ。そして最後に、クリスマスツリーの前でみんなで写真を撮る。ほんの細やかな、安っぽいパーティーだ。
それでも、紙コップに入った薄いオレンジジュースの味はよく覚えていた。
「赤い服着た?」
「うん。帽子も被った」
「似合わんな」
即答だった。
「……ヒースはどっちかって言うと黒サンタやな。悪い子にお仕置きする方」
「それ悪口?」
うそうそ、と藍の指がヒースの髪を混ぜる。乱雑な手付きだが、不思議と嫌だとは思わなかった。
「ヒースは今年サンタになに頼んだ?」
まるでこれから何を食べようか、とでも言っているような口調だった。当たり前のことを聞いているようだった。
ヒースは少し考える。そういえば、あの日あの場所でヒースが何かを強く望んだことはなかった。サンタクロースへの手紙にも、当たり障りのないことしか書かなかった気がする。
なにか、今の自分に欲しいものはあるだろうか。
例えば、ステージで満足に歌えるくらいに丈夫な喉とか。例えば、何かと腕っぷしで解決出来るような体格とか。
―――例えば、あの日浮かばせた手の行先とか。
そのどれもがサンタクロースただ一人の老人に願うには荷が重過ぎる願いであった。それに、たぶんあったところで嬉しくはないのだろうと思う。
だから、笑って誤魔化すことにした。あまり子供じみたことを言うと藍に揶揄われてしまうので。
「ないしょだよ」
つまんな、と冷ややかな声で吐き捨てられてしまったがそれで良かった。
髪を混ぜ続ける指先を甘受したままでいると、忙しない足音が聞こえてきた。言わずもがな我等がトップだろう。藍の怠慢がバレたのだそして、もうそろそろ起き上がらねばならないことを悟る。
それでも、たった数秒の間もヒースは目を瞑っていたし、藍も座り込んだまま動かなかった。