馬と鹿と、それに代わる何かについて
「夏の反対は冬なのに春の反対は秋じゃねーの、なんかキモくね?」
ミズキはそう言って、割れた唇に舌を這わした。小さな傷は、ほんの些細な刺激でも触れたということで赤い血が出てきた。じわり、と滲むそれを眺めながら乾燥した唇を舐めるのはかえって逆効果だとリコが言っていたことを思い出した。水分によって一時的に潤うものの、所詮水分なのですぐ蒸発してしまい乾燥はひどくなるらしい。
トップであるミズキを筆頭に見た目に頓着しない連中ばかりが募ったチームBで、美容意識の改革を行おうと意気込んだリコがまず取り掛かったのは唇のケアであった。安物で構わないからリップクリームを持ち歩くこと。食事の後や風呂の後に塗る習慣をつけること。横方向ではなく皺に沿って縦に塗ること。
ターンオーバーが早く結果が目で見て分かりやすい唇に始まり、今後肌荒れや髪のケアも口を出していく、と意気込んでいたよくやるなぁ、と藍は内心呆れていた。曰く、せっかく女の子たちの前に出るというのにだらしない姿を見せられないのだと。不潔な印象を持たれるとチームとしての沽券に関わる、と彼はチームの皆の手にリップクリームを押し付けたのであった。勿論、代金は払わされた。
藍は歩いていた足を一度止め、ジャケットのポケットに手を突っ込み細長いリップクリームを取り出す。初めにリコに貰った、ミズキたちと揃いの品だ。薬局やコンビニなど、どこにでも売っている独特の鼻を突く匂いがするスタンダードな品。別に、もっと良い香りのものや質の良い高級品を自分で買うこともできるのだが、なんとなく藍はこれを買い続けている。
続かないだろうと思っていたリコによる改革は、藍の予想に反して成功の形をもったようで、特に金剛は成果に感動をしていた。これなら若い藍たちといてもマシに見えるかな、と嬉々とした表情を浮かべる金剛をリコが諌めていたのは記憶に新しい。ヒースは無関心なようでいてリコの言うことをきちんと聞いていたし――毎回リコの叱りを受ける面倒とスキンケアの面倒を天秤にかけ前者を避けた結果と思われる――藍も「肌ボロボロのアイドルなんていないだろ」との言葉を貰いそれもそうかと納得した結果なんだかんだで従っている。
では問題のトップはどうかというと、勿論彼がそう簡単にリコの言うことを聞く筈がなかった。顔や身体が保湿クリームによってベタつくことが許せないらしく――その気持ちは藍にも充分分かるのだが――どれだけリコが喝を飛ばしても頑なに肌の手入れに取り掛からない。しかし、強硬手段として金剛に羽交い締めされたところをクリーム責めした結果、服を着た犬の如くすっかり大人しくなったのでこれ幸いにとミズキのスキンケアは主に藍が担うことになったのだった。どうせ意地を張って後に引けなくなっただけだと思うのだが、時間が経ってもミズキは藍に任せ切りで、藍も飽きることなく世話を焼いている。気付けばドライヤーやら爪のやすりがけやらも藍がミズキに施してやってる。どこぞの姫かよ、と思わないことはないが、サブの面倒を見る時と同じだと気付いてからは気にしなくなった。
ミズキ、と名だけ呼ぶとミズキは黙って顔を藍に向け、顎を突き出す。その動作には一切の躊躇いがなく、すっかり慣れてしまったなと思いながらも藍はミズキの下顎に手を添えた。縦に縦に、と教えを反芻しながら唾液に濡れた唇にリップクリームを滑らせると、白いバームが唇の体温で溶け、薄い膜が出来上がる。
そこで藍は、ミズキと過ごす冬は二度目なのだと悟ったのだった。
唇を三往復ほどしたところで藍は手を離し、ミズキと藍は再び歩き出した。
まだ雪が降るには遠いが、随分と寒さを感じる季節になった。吹き付ける木枯らしに晒されたミズキの耳の端が赤く染まっている。
店に続く薄暗い路地に入ったところで、藍は先の言葉を聞き返した。
「で、何がキモいって?」
「だから、春と秋が反対じゃねーってことだよ」
かつて教わった通り、唇同士をすり合わせながらミズキは言った。
「夏は暑いで冬は寒いじゃん」
「うん」
「春と秋は寒いと暑いじゃねぇだろ?」
「まあ、そうやな」
「キメーじゃん」
「……ごめんなミズキ、オレにはさっぱりや」
いまいちピンときていない藍を見て、ミズキはむず痒そうに眉を顰めた。不快なのだろう。言葉を上手く伝えられないこと、理解を得られないこと。それらが彼の淀の原因とよく知っている藍は、歪んだ金の瞳が諦めの空気を灯さないよう声をかけた。
「夏は暑くて冬は寒くて、じゃあ春と秋はなんだよ」
「……ちょっとあったかいと肌寒い、とか」
「もっとガツンって言えねーの?」
「あー……? あ、あー……」
「んだよ」
不満を隠さぬミズキが足元の小石を蹴飛ばした。
もう少し教えてくれ、と藍はそっぽを向いてしまった頭を鷲掴んで戻す。強引であろうと、ここで会話を止めてはいけなかった。
ミズキはそんな藍を一瞥し、目を伏せた。瞼に金の瞳が隠され感情が読めなくなる代わりに、細かく震える睫毛が何かを思案していることを示した。唇が何かを言いかけて開き、そして音もなく閉じる。足を止めることなく歩く二人の間に訪れたその沈黙は、窮屈さを感じさせた。しかし、藍は黙ってその口から成される言葉を待つ。
ふと見上げた先にある電線で、烏が二羽、寄り添うようにして翼を休めているの見つけた。番だろうか。烏の番は共に子育てをすると聞いたことがある。表の道のように清掃の行き届かないこの辺りには餌となるものが多くあるから子育ての場としてちょうど良いのかもしれなかった。
店の外観が見えてきたところで、ミズキは足を止めた。藍もそれにならい、ミズキを見る。
ミズキは、そっと言葉を真綿で包むようにして紡いだ。それは、おさない子どもが秘密基地を教えるような、ささやかで小さな声だった。
「……北の反対は南で、西の反対は東だろ?……冬の反対には夏がいるのに、春と秋はちげぇから、だから……」
嫌な気がする、とミズキは首を振った。
なるほど、ここまで引き出してようやくミズキの言いたいことが藍にも理解が出来た。一気に繋がった回路に、藍は思わず口元に笑みを浮かべる。
「季節が夏と冬だけになればいいってこと?」
「そうとは言ってねぇけど」
夏には冬がいて、冬には夏がいるけれど、春と秋にはなにもない。
それが嫌だとミズキは言った。
なんとなく見えてきたミズキの、彼らしい甘やかな心持ちに藍は思わず吹き出した。それを見たミズキが藍の後頭部を叩く。
「笑うなよ」
「いや、ごめんごめん。面白いなぁ思って」
「あ? バカにしてんのか」
「してないしてない」
ミズキの言う"嫌だ"の感覚は、全くもって理解が出来なかった。そもそも四季の捉え方が違うのだから当然である。しかし、しかしだ。拙く朧気な彼の、ミズキの世界を垣間見れたことは事実だった。普段あれだけ騒いでいても、実際のところミズキが教えてくれる彼自身に関することはごく少ない。ミズキの世界は決して単純ではない。誰もが思っているよりずっと複雑である。そのことを知るのは、自分と、まあ許してチームのメンバーだけで良いと藍は思う。それがミズキの大切であるなるば。
――教えてくれて良かった。
パチクリ、と銀の睫毛が瞬いた。唇の端が引き攣って、絶妙に顔が歪む。
ミズキは何か言おうと口を開いて、そうして閉じた。
「んー?」
「……んでもねーよ」
顔を背けたミズキは、大きく地面を蹴り上げると藍を置いて先に店へと向かってしまう。
耳の端が赤い。
藍はそれを、木枯らしのせいだけじゃないな、と都合よく解釈することに決めた。
強く冷たい風が吹き、電線にいた二羽の烏が同時に翼を広げる。灰色の空を黒い影が並んで横切るのを見て、藍はミズキの背を追いかけた。