遥かの夜空を、六等星まで
   

ロマンスサマーナイト

 燦々と降り注ぐ太陽光をアスファルトが丁寧に反射するので、もしや自分はケバブの肉にでもなってしまったのではないかと思った。かつて連れて行ってもらった料理屋の奥で見た、銀の棒に刺されてくるくる回転しながら焼かれていた肉塊を思い出す。残念ながら食べる事は叶わなかったので、また連れて行って貰おうと考えたが、果たして誰に連れられたのだったっけ。黒曜ではない。彼は焼肉にしか行かないから。そうしたら、考えられる人物はあと三人しかいないが、その三人も今は何処にいるのか分からなかった。まあ、長い間留守にしていた罰として、三人それぞれに連れて行って貰うのも有りかもしれない。そういえば確か、スターレスにも似た様なメニューがあった。そう、シュラスコとかいうやつ。あれもあれで美味いが、あれでは駄目なのだ。あの、両腕に抱えるくらいに大きな肉の塊を独り占めにしたいのだから。
 一歩一歩踏み出す度に、球になった汗が皮膚を伝う。首元まで垂れた雫はTシャツに濃い染みを作った。
 スターレスまではまだ距離がある。その事実に心底うんざりした。何処かで観た、青いロボットがポケットから出してくれるピンク色の扉が欲しい。あれならば、いつでも何処でも好きな所に行けるのだ。ここからスターレスに限らず、遠いどこかの、誰も知らない国でさえも。
 公園の近くまで来ると、遊ぶ子供らの声が耳に突き刺さって聞こえてきた。甲高い悲鳴を上げながら、噴水の水を掛け合っている子供を見てミズキはきゅ、と目を細める。
 ミズキにとって夏とは、公園の水飲み場と噴水で構成されていた。
 ミズキの過ごした人間の成り下がり共が巣食う掃き溜めに、クーラーの様なハイテクなものはない。あるのは拾い物のボロボロの扇風機と、団扇。扇風機は中々手に入らないけれど、ごちゃごちゃとした広告が一面に載った、街中で配られる団扇はそこら中に落ちていた。しかし、どちらも大して使い物にならないので夏場の暑さ対策と言えば服を脱ぐか窓を開けるかの二択。防犯などあってもない様な環境なので、ミズキはいつも窓を全開にして夜を過ごした。風がなくとも、空間が開けているだけで涼しい気がしてくるのだ。
 しかし、多少の慣れはあるとはいえ、それでも暑さに耐えられない夜はある。そういう時は、夜の公園に行って思い切り水を被って汗を流すのだ。水の温度は少し温いが、無いよりはずっと良い。人のいない静まりかえった公園で、噴水を独り占めして浸かる事が出来る優越感よ。白い目で見られる事も、注意してくる警官もいない。夏の夜のほんのひととき、限られた時間だけ、公園はミズキの王国だった。
 そんな事を全く知らぬ子供たちを横目に公園を通り過ぎたところで、尻ポケットに突っ込んだスマートフォンが震える。歩きながら画面を開いたミズキは、案の定、なメッセージに顔を顰めた。犬の写真アイコンが告げる、早く来いとの催促と、ふざけた顔をした虎のスタンプ。差出人は言わずもがな藍である。ついでと言わんばかりに、上目遣いがあざとい自撮りまで送りつけられてミズキはスマートフォンを地面に叩きつけてしまおうかと思った。
 普段は滅多にないが、今日はたまたま時間を忘れていて家を出る時間が遅れてしてしまったのだ。遅刻する旨は既に伝えており、自分に非があるのは重々承知だ。しかし、この様に煽られると元から気の長くないミズキである、暑さによる苛立ちも相まって途端に機嫌を悪くした。ぶっきらぼうに、もうすぐ着くとだけ返信すると既読マークは直ぐに表示され、今度はスタンプ連打攻撃が始まった。どうせ藍の事だから、わざとやっているのは考えずとも分かる。ここで下手に反応しては相手の思う壺であった。なのでミズキは通知をオフにして画面を落とし、再び尻ポケットの中に戻した。
 藍の事は嫌いでないが、誰に対しても容易に神経を逆撫でする愉快犯的一面にはうんざりだ。とはいえ、相手がケイであったり羽瀬山であったりすると彼に同調して煽るのはミズキなので人の事は言えなかった。
 目の前の信号がちょうど良く青になった。ミズキは大きく一歩を踏み出して白線を超えた。

 開店前の時間は、誰もが慌ただしく動いている。やれ掃除が足りないだの、やれフラスタの数が可笑しいだの、今日もあちらこちらで色んな声が上がっている。行き交う怒声の隙間を縫い、ロッカールームへ向かうミズキの背にも例には漏れず尖った声が飛ぶ。

「おっせーぞクソガキ!」
「うっせーぞクソジジイ!」

 デッキブラシを肩に担ぐ黒曜に怒鳴られる。同様に中指を立てて怒鳴り返すと、今度はフラスタを抱えた真珠がミズキを急かした。

「早く着替えてきてミズキ!」
「知ってるわ!」 

 大股で歩くと、今度は埃が立つとマイカが文句を言うが知った事ではない。何人かと肩をぶつけながら道を行き、ようやくロッカールームに着いた時はもうヘトヘトであった。これから着替えて、ホールシフトなのだと思えば気が重くて堪らなかった。
 客にせがむと料理のおこぼれが貰えるのはホール仕事ならではの特権だが、オーダーを聞いたり皿を運ぶのは面倒くさい。それに、何より自分ではないチームがステージ上でパフォーマンスしているのを見上げる事が嫌であった。本当は、全部のステージがチームBのものになれば良いと思っている。KもWもPもCも、何も要らない。自分が、自分達がスポットライトを浴びるだけがいい。
 踊ることは好きだ。それもヒース、自分のチームのMCが作った曲に合わせて踊るのは。銀星が重んじる、原典の解釈や役の演技だなんて正直どうだっていい。客の為に、なんて知った事ではない。そのどれもが自分ではないのだ。ミズキはミズキでしかない。色んな奴等にああしろこうしろと指摘を受けるのは億劫で、もっと自分の好きな様に踊らせてくれたらいいのに、と何度思ったことか。少しでも自分ならこうするのになぁ、だなんて思うと、目敏い演出が口を出し、そうしてまた文句を言われての連続だった。勇気を欲しがったライオンも、雪の結晶でできた髪飾りが融けてしまったので渡せなくなってしまった事を言い訳する男も、ミズキには全く分からない。演技が全てと宣うメノウとは一生分かり合える気がしなかった。分かり合おうとも思わないが。
 その点、ヒースの作る曲は良かった。単純明快で、分かり易い。役を演じる、というよりも、登場人物の心情とミズキの抱く心情はまるきり同じであるが故に、Bのステージに立つミズキは、役名こそあれどミズキそのものなのだ。たまにヒース独特の小難しい言い回しやなんかはあるが聞けばその都度答えてくれるし、ミズキが納得するまで説明してくれる。ヒースの言葉は不思議とミズキの耳にすんなり入り、ヒースがこうでしょう、と言うとそういう気がしてくるのだ。今まで自身の中に燻るばかりで明確なものではなかった感情がヒースによって言語化された時の、あの形容し難い高揚感と爽快感よ。今まで誰も、ミズキ自身でさえ知り得なかった情報が留めなく晒されていくのは少し疲れるが、何よりも楽しかった。リリックの綴られたノートのページを捲るのも、貰った音源に耳を傾けるのも、パソコンの画面に向き合う細くもしっかりとした背中を眺めるのも、全部が全部ミズキを知らない感情に包ませた。 ヒースはミズキの言葉であり、ミズキをミズキたらしめん存在なのだ。

「あ、ミズキ来た!」

 扉を開けた目の前にいたのは藍だ。大きく開いた口から尖った歯が覗いている。ミズキは眉を顰め、低い声で唸る様に告げた。

「お前スタ爆マジ止めろっての。うぜぇ」
「えー、だって悪いのはミズキじゃん。仕方ないやろ」

 なーリコ、とその時ちょうど背後を通り過ぎたリコに藍は声をかけたが、リコは冷たくあしらって足早に廊下の向こうへと行ってしまった。その様子を見て、藍はわざとらしく肩をすくめる。

「フラれてやんの」
「リコぴはツンデレやからしょーがない」

 ふ、と顔を見合わせて笑みを溢すと、金剛が後ろからやってくる。

「ほら、二人共そろそろ行かなくちゃ」

 はぁい、と気の抜けた藍の背の向こうに、ミズキはヒースを見つけた。相変わらず陰気臭い顔をして、気怠げに注文用のタブレットを弄っている。じっと見ていると、ミズキの視線に気付いて目が合った。菫の花弁を煮詰めた深い色した瞳は、ミズキのそれを確かに捉えるとゆっくりと一度瞬く。ミズキも同様にゆっくりと瞼を閉じて、次に目を開けた時にヒースはそこにいなかった。

「ミーズーキー、はよ行こー」
「わーったよ」





「ふっざけんじゃねぞあのクソ野郎が!」

 思い切り地面を蹴り上げると、小石が跳ねて道の向こうに転がって行く。それでも苛立ちは収まりきらずに、舌打ちをしてポケットに手を突っ込んだ。
 昼間のような厳しい日差しはない代わりに、地面から立ち上るような籠った熱を感じる。店でシャワーを浴びたばかりだというのに、頭皮やら脇やら汗が滲んでいるのが鬱陶しく感じた。相方は全く涼しい顔をしていることに余計に腹が立つ。
 今日のシフトは散々であった。好きでないホールスタッフの日に限って客が多く、ホールとキッチンを行き交うばかり。交差する注文は複雑で、慣れてはいるがミスが無かった訳ではない。スタッフ間の連携など、あってもない様なものである。誰かが一度間違えると、それを皮切りにどんどんズレていく。自分でない誰かの尻拭いをするだけでも嫌であるのに、その上態度が悪いと注意され、それを偶々店に来ていた羽瀬山に見られた。閉店後、案の定捕まってしまい、ある事ない事をつらつらと文句垂れられてたミズキの堪忍袋の緒がその場で切れなかったのは奇跡に近い。
 お陰で賄いを食べそびれてしまった。今日は金剛が厨房に立っていたため、業務前に唐揚げのリクエストをしていたのに、いつになってもミズキがこないせいで他のキャストに奪われてしまったのだ。昼食以降何も口にしていないミズキの腹は空っぽである。忙し過ぎて客からおこぼれを貰う隙もなかった。
 空腹は人間を短絡的にする。お説教という名の見せしめから解放されたミズキはさながら手負の獣のようで、廊下に放置されている段ボール箱や建て付けの悪いロッカーの扉にまで苛立っていた。最初は面白がってちょっかいをかけてきた藍ですら、制止の声をかけた金剛に珍しい従うくらいには荒れていた。
 そんなミズキに声をかけたのはヒースである。作り置きの食品がそろそろ危ないから食べに来ないか、と誘ったのだ。「肉あんのかよ」と問うミズキに対してヒースは「ないけど」と正直に答えた。ないんかい、と誰かが小さく呟いたが、ミズキは不貞腐れながらも誘いに乗ったのであった。都合の良い残飯処理に使われていることを指摘する者は誰一人としていなかった。
 こうして一時は収まったかと思われた苛立ちだが、腹が鳴った途端に再び熱を点したらしい。隣を歩くヒースは困った様に首を捻る。肩を怒らせて歩くミズキに向かって、ヒースは声をかけた。

「その怒りをさ、明日の公演でぶちまけたら」

 突然落とされた冷水のような言葉にミズキは思わず立ち止まる。訝しげな顔をするヒースは放っておいて、頭の中でスケジュールを思い浮かべる。そして明日の公演は日蝕であることを思い出した。しかし、ヒースの発言に違和感を覚える。

「……マクベスとこれはちげーだろ」
「あれ、そうだっけ」
「そうだわ。ばーか」

 しっかりしろよ、とミズキが頭を軽く小突くと、ヒースは肩を震わせてくすくすと笑う。どうやら彼なりのボケだったらしい。分かりにくいことこの上ない。ヒースは、積極的に他人とコミュニケーションをとるタイプではないので笑いのセンスは皆無なのだ。ミズキだって人のこと言えたものでは無いが、彼よりかはマシだろうとタカを括っている。能天気な笑みを見てミズキは一つ、大きく息を吐き出す。すっかり肩の力が抜けてしまった。ジョークにもならない拙い言葉の応酬のお陰と言うのは癪だが、苛立ちは成りを潜めてミズキは穏やかさを取り戻した。
 帰ろう、とヒースが言う。返事をする代わりに、ミズキはヒースの肩に自分のそれをぶつけた。



 もうすぐでヒースの家に着くと途中で、ミズキはヒースの袖を引いて歩みを止める。行きの道先で見かけた公園のすぐ近くであった。

「なに、ミズキ」

 当然のことであるが、深夜のこの時間に子供は一人もいない。しんと静まり返った広い空間。ブランコが風に吹かれて僅かに揺れているのが見えた。
 突然、ミズキはヒースの手首を掴んで走り出す。急な展開に追いつけず、ヒースが足をもつらせたが構いやしない。体格差の観点からして、ミズキがヒースにつられて転ぶなんてことは有り得ないのだ。

「ちょっとミズキ!?」

 車の通らぬ道路を横切って、自転車の侵入を阻む柵を飛び越えて、砂地を駆ける。一直線に走り抜けたその先に待ち受けていた噴水に、片腕を大きく振るって半ば投げるようにしてヒースを落とした。その後すぐに、自分も水面に飛び込む。大きな音を立てて水飛沫が上がった。
 水嵩は浅い。尻をついても腰より少し上に水面がくる程度だ。しかし、立位の姿勢から投げ込まれたヒースは仰向けの状態で水に浸かる羽目になり、身体の正面をを派手に濡らした。
 悪戯の成功した子供のように得意げな顔をするミズキを、ノロノロと起き上がったヒースが睨みつける。ぽたぽたと前髪から水滴が落ちて波紋を作った。

「……怪我したらどうするの」
「したのかよ」
「してないけど」
「じゃあいーだろ」 
「よくない」

 ヒースが両手で水を掬ってミズキの顔面にかける。避けられなかったミズキは容易に濡れ鼠と化し、への形をした口からぴゅうと水を吐き出した。

「……てめぇ」
「お返し」

 脅すような低い声を出すミズキに対し、ヒースはあっけらかんと返す。

「この野郎ッ」

 立ち上がったミズキが水面を蹴り上げる。ヒースも水を被ったあと間を置かずして立ち上がり、そっくりそのままやり返す。ミズキのパンツに濃い染みが出来上がった。
 水を掛け、掛けられ、頭のてっぺんから爪先に至るまでをびっしょり濡らす。
 思えば、噴水に入ったことは何度もあるけれど、こうして誰かと共有してそして水の掛け合いという幼い遊びをするのは初めてであった。水と戯れるのはひどく懐かしく思うのだが、ヒースといるのは新鮮な気分になる。
 いつだって、初めてを連れてきてくれるのはヒースなのだ。チーム然り、曲然り。
 濡れてぺたんこになったヒースの髪に手を伸ばしてかきあげてやる。真白な額が露わになり、濡れたそこは月光を反射していた。
 ツルツルの額に、ミズキは視線を離せなくなる。ヒースの訝しげな視線を感じるが、無視だ。
 ヒースの頭の上に置いたままの手を生え際までずらして、両手で側頭部を挟むようにする。口を噤んだままのミズキにつられて、ヒースが身を固くした。
 大人しくなったのをいいことに、ミズキはそっとヒースの額に顔を寄せていく。
 ヒースはぎゅ、と目を閉じて構えた。
 そして、衝撃。

「いた」

 頭突きをくらったヒースは額を抑えてしゃがみ込む。その様を、ミズキは鼻で笑ってやった。
 白いシャツの向こうに透けた肌が見える。随分と、はしゃぎ過ぎたようであった。
 20歳を超えた大人二人して、深夜の公園の噴水で、マナー違反もいいところであった。
 服が重たくなって動きにくいこと、スニーカーから染み込む水のお陰でつま先が冷たいこと。布が肌に張り付く感覚、水の入ってツンと痛む鼻奥。

「――――ふ、ははっ」

 段々と可笑しく思えてきてミズキは声をあげて笑う。その顔に向かってヒースがまた水を掛けるので、口の中に水が入った。
 その後は、また水掛け合戦の延長である。
 散々遊び呆けた後、はあはあと、息を落ち着けながら二人は噴水の淵に腰をかけた。ヒースに至っては肩を大きく上下させており、まだまだ体力不足は健在である。隣り合って触れ合う肩同士が濡れていたけれど、全身ずぶ濡れであったので気にならなかった。
 しばらくの沈黙の後、ミズキが口を開く。

「腹へった」

 だろうね、とヒースは頷く。はらへったァ、と気の抜けた声を出すミズキは、あっと思い至って勢いよく振り向く。髪から飛んだ水滴が顔にかかり、ヒースは眉間に皺を寄せた。

「コンビニ寄って帰ろーぜ」
「オレのおじや食べるんじゃなかったの」

うげえ、とミズキは顔を顰める。

「まーたおじやかよ、ジジクセぇな」

 ヒースの作る料理といえば、粥とおじやなのだ。たまに野菜を茹でただけのものや、豆腐の煮たものが冷蔵庫の中に入っているが、そのどれもが味が薄くて柔らかいものだらけなのであった。
 とはいえ、口では文句を言いつつも出されたら必ず完食するミズキである。金剛の作る賄い飯とは比べ物にならないが、それでも食べられなことはないのだ。

「こんなに濡れてコンビニ行ったらびっくりされるね」

 大丈夫だろ、とミズキは答える。以前、ヒースの自宅近くのコンビニはしょっちゅう利用しており、この時間にいるアルバイトの顔はもう覚えた。同世代であろう彼は、喧嘩帰りのミズキが幾度もそのままコンビニに訪れるので、いくら怪我をしていても驚かなくなっていた。

「酒買って帰ろーかな」
「やだよ。酔ったミズキは面倒」
「酔わねーし」
「嘘だ」

 行こうぜ、とミズキは立ち上がる。一歩足を進めた途端、スニーカーの湿った靴底から水が滲み出てた。その後に続くヒースも、同じく靴底の感覚に「うわぁ」と声を漏らす。

「……気持ちわりー」
「本当に」

 隣に並んだ二人は、足裏の感触に身を震わせながらもゆっくりと歩みを進める。
 足を乗せた砂地には、サイズの違う足跡がはっきりと残っていた。
 深夜の東京の、公園にて。かつてのこの場所の主と、その連れ、二人分の背を、月だけが見送った。
 

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