遥かの夜空を、六等星まで

十三月を待つ

「君も、大概懲りないね」

 買い出しの途中、夕暮れ時の裏路地で、つまらなそうな顔をする犬を見つけた。もうずっと前に潰れたスナックの、裏口の扉に背を預け、しゃがみこんでいた犬は表情なくクーを見上げ悪態をつく。

「うっせ」
「ハイハイ。ほどほどにね、なんて聞かないかキミは」

 ミズキ、とクーが名を呼ぶと意図を察して立ち上がる。むす、と不機嫌そうに尖らせた唇を見てクーは片方の眉を吊り上げた。この意地っ張りで不器用な彼は、何か都合の悪い事が起きるとすぐに顔に出るのだ。そういえば、兄貴分であるあの大男にも、同じ唇を突き出す癖がある。血は繋がっていないとはいえ、やはり兄弟は兄弟であった。
 
「それで? そこの彼はキミにどんな無体を働いたんだい?」
「べっつにぃ。クーには関係ねーし。ムシャクシャしてたから転がしただけだ」

 幼さを織り込んでいる声色は明らかに拗ねていて、そして遠回しに甘えている。肩を竦めるクーには目もくれず、ミズキはクーの背の向こうに足を進める。すれ違いざまに肩をぶつけるのを忘れずに。相も変わらずな天邪鬼に、黒曜が可愛がるのも理解出来た気がした。
 ふう、と小さく息を吐いたクーは、少し離れた所でうつ伏せになっている男に近付く。ピンヒールの鳴る音が、人気のない道に響き渡り、それまでピクリとも動いていなかった男が震える手をクーに伸ばした。

「そ、そこの、ねえちゃん……た、たすけ」
「すまなかったね、うちの狂犬は羅切がなってなくて」
 
 恐らく噛み癖があるのだろう。クーは歪な形の爪の断面を冷めた目で見て、それでも口元だけは微笑んでみせた。
 クー、と少しした所で立ち止まったミズキが名を呼ぶ声がする。

「まあ、これに懲りたら余り刺激的なことをするのはオススメしないね」
「きゅ、きゅうきゅうしゃ……」
「今行くよ、ミズキ」

 歯が数本折れたか抜けたかでもしたのだろう、男の頬はぱんぱんに腫れ上がっている。血濡れになった唇からは涎が垂れ流しになっていて、地面に落ちたそれが小さな水溜まりを作っているのを一瞥してクーは男に背を向けた。え、と呆けた声が耳を掠めたが、一度も振り返ることなく。足を踏み出す度にヒールが地面と当たる音だけが単調に響いた。
 ポケットに手を入れ道の真ん中で立っているミズキに、クーは笑いかける。

「彼はワタシを女性だと勘違いしているようだ」
「そんなたっかいヒール履いてるからだろ」

 と言ってミズキはクーの履くピンヒールのブーツを睨みつけた。なんかいつもより視線高くてムカつく、と金の目が見上げる。確かに、これは店で履いているものよりずっと高い。
 夕日に照らされるまだ少年みを帯びたまろい頬の輪郭に、ふと血が滲んでいるのを見つけた。クーはミズキの腕を掴んで足を止めさせると鞄の中からハンカチと、それからミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出す。

「ほら、動かないで」

 ミズキの顎に指を添え、水に濡らしたハンカチを頬に当てる。ミズキは嫌がる素振りを見せるものの、咎める事はしなかった。

「ケッ、あの野郎」
「お客様の前に出るんだから、少しは気を遣いなよ」
「わーってるよ」

 このやり取りも何度目かになるので、また繰り返すのだろうなと思いながらクーはミズキの頬を摘む。美容に気を使ってケアを怠らないクーと違い、ミズキは自分の見た目に無頓着であるのだが、その割に随分と滑らかな肌をしている。親指と人差し指に挟まれた肉は程よい弾力を持ち、さらりとした触り心地は癖になりそうだ。これは、若さ故なのか。たった一つしか変わらないのに。若さか、そうなのか。腹いせにぎゅ、と摘む指先に力を込めてやると流石に堪えたミズキは頭を振ってクーから逃れる。上目でクーを睨み付ける様は毛を逆立てて威嚇する猫のようにも見えた。
 夕暮れの日が、銀の髪を赤に染める。大きなネックレスに飾られた首は気付かない内に随分と太くなっている事を知った。クーがスターレスに来たのはミズキより後だが、初めて会った時はまだこれまでの生活環境を鮮やかに浮かび上がらせるような線の細い少年だったのだ。
 二人が再び足を動かした時、ミズキがぽつん、と言葉を落とした。

「小春みたいな事言ってんな、クー」

 はた、とクーの足が止まった。

「そうかな」

 そうだ、とミズキは不機嫌さを隠さずに言う。そして、ハッとなって慌てて背を追いかけたクーには目もくれずに続けて言葉を紡いだ。

「うぜぇんだよ、そーゆー親気取りみたいなやつ」
「そんなつもりは、ないのだけれど」
「小春も明人も、口を開けばやれ喧嘩するなやれベンキョーしろってさぁ。何様?って感じ。いちいちオレの言う事やる事に口出してきやがって……あーあ、みんなウゼー」
「でもキミは」
「うっせ喋んな」

 底から響き渡るような唸り声をも思わせる低い声。怯むことは無く、クーは肩を竦めてそうだね、とだけ言った。
 少し入り込み過ぎたか、と反省した。ミズキは、さながら野生動物のように縄張り、自分の内側へ踏み込まれる事を嫌う。言動は粗暴であるが繊細な一面も持ち合わせているのである。クーも、余計な詮索を嫌う質で如何にもスターレスのキャストとして相応しい素質を所持しているのだが、ミズキは特にその傾向が強い。余りにも顕著なそれは、時に幼稚さの現れとして見られる事が大半だった。生い立ち故の情緒教育の不足であると。しかし、スターレスがアングラな店ではなく、真っ当なオーナーと真っ当な従業員が切り盛りする処であったならミズキは今のようになっていないのだろうか。他人の諸事情に深く携わってやるような善人などいないのだ。自分の障害にならぬのなら好きにやれ、そして勝手に堕ちれば良い。そういう思考を片隅に抱く者ばかりだからこそ、息はしやすいが、時折生きにくいと感じる。余計な干渉のない環境は、根っからの流れ者であるクーにとって心地が良い筈だが、しかし、あそこはそれ故に痛々しいと思った。
 そんな環境下に身を置くミズキが、幼稚な訳がなかった事をクーは知っている。スターレスに来る前から、ミズキは立派な大人だ。年齢がどうであれ、世間を睨み付ける視線はとっくに成熟していて、その断片を垣間見た時は戦慄したものだ。何かとミズキを犬のように見たり歳下と思って相手する彼等は知らないのであろう。牙を見せた本当のミズキは激しく鮮やかで、そして靱やかに首を狩る。表立つ怒りの感情の裏は静寂に包まれているのだ。

「ねぇミズキ」
「なんだよ」

 声色に荒さを含みはするも勢いはなく、いつもの調子でミズキはクーを見上げる。

「キミはあの2人が帰ってくると思うかい?」

 暫く考え込むようにして、ミズキは口を開いた。

「二度と会わねぇって思っても次の日には会ってたり、また来るって言っても帰って来ねぇ奴もいる。2人は黙って消えたんだ。オレは知らねぇ」
「じゃあ質問を変えよう。戻ってきて欲しい?」

 飴玉のように真ん丸な瞳が大きく見開かれた。
そして時間を置かずにふ、と緩む。

「別に。いてもいなくても変わんねーよ」

 そんな笑い方を教えたのは誰なのだろうか。唇の端を小さく上げ、遠くを見据える横顔はずっと大人に見えた。
 誰も、知らないのであろう。彼はクーよりずっと物事をよく見て悟っている。考え方に酷い偏りはあれども、だ。

「ま、でも、今のオレを見て後悔させてやりてぇな」
「後悔?」
「Bの方が昔よりずっとずっと合ってるってとこ!」
「Pは言わずもがなだけど、その前も余り好きではなかったのかい?」
「今は一番やりたい事が出来てるから、それがいい」

 ヒースと出会ってチームBを作り上げてからのミズキの勢いは凄まじい。まず表情が変わった。Pにいた頃では見たことの無い表情で、感情で、自由にステージ上を跳ね回る姿は花火の様に激しく鮮やかであった。水を得た魚のように生気に満ちた顔は、やはり本来ミズキはこういったものが合っているのだと納得させた。ミズキは頻りにWに転属したいと言っていたが、それも少し違ったのでは、と今は思う。確かに、PよりもWの方がミズキのスタイルに合っているだろうが、WにBのような派手さはない。モクレンが脱チームをしてからは尚更。その代わりに重厚な存在感は随一で、そう、森の奥底で静かに此方を伺う熊のような。Bは都会の裏路地で徒党を組む野良犬といったところか。

「オレの方がなんつーの? せ、せるふぷろ……?」
「セルフプロデュース」
「そうそれだ! その、せるふぷろでゅーすが上手いって事だ、アイツらより」

 と言うよりかは、ミズキと合わせられる人間が旧スターレスにはいなかったんだろうけれど。それを言うのはやぶさかではないのでクーは黙って微笑んだ。

「戻ってきたりしたところでBは変えさせないけどな」
「ハハ、頼もしいね」
「とーぜん。オレがトップなんだ、チームの奴等全員がどっかに行かねー限りオレはBにいなくちゃなんねぇ。最後の一人になるまでオレはチームBだ」

 捨てられた側の奴は一生捨てる側にならねぇんだよ、とミズキは笑った。あんまりにも、その笑顔が明るいものだから。
 ミズキの背の向こうに、夕焼けのキャンバスが開かれている。その、途方ののない大きさに、クーは一人では抱えきれない何かを感じた。

「ミズキ」
「あ?」

クーは、何か言おうと口を開いたが、結局どの言葉も彼の前では陳腐で空っぽなものでしかないと悟り、出かかった言葉を収めた。

「……ファミチキでも買って帰ろうか」
「マジか、お前イイヤツじゃん!」

 食べ物、特に肉の話になると途端に表情が明るくなる所はまだまだ子供だなぁとは思う。

「あーでもオレ、Lチキがいいなぁ」
「太るよ」
「いーのいーの、その分動くから!」

 大人にならなくてはならなかった子供、とでも言おうか。そういう子は何人も見てきたし、自分もよく分かっている。もう子供と言われる歳ではないけれど、人より早く大人になったのだから、もう少し子供でいさせてやりたいと思った。いつか自分がいなくなる、その時までは。きっとミズキは認めたがらないだろうけれども。
 背中を押す夕焼けが、地面に2人分の影を焼き付けている。頭一つ分の違いがなんだか可愛らしく思えてクーは一人で笑った。

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