遥かの夜空を、六等星まで
   

吐息孕む亡骸

「愛する事によって失うものは何もない。しかし愛する事を怖がっていたら、何も得られない」
「は? 何言ってんだ」
 
 手持ち無沙汰にライターを弄っていた黒曜に、突然上から声が降り掛かった。鷹見だ。ホールの掃除が終わったのだろう、手にはモップを持っていた。いつも通りの胡散臭い作られた笑みに、黒曜はあからさまに顔を顰める。それを見ても何一つ表情を変えないのだから嫌な奴だと思う。
 
「君の仔犬の話さ」
 
 と言って鷹見が顎で示す先を見ると、ミズキがいた。藍と一緒になって金剛にじゃれついている。正確に言えば、二人がかりで金剛を倒そうと拳だの蹴りだのを突き出しているのだが、軽くあしらわれている様子を見るにただただ犬が二匹遊んで貰っている様にしか見えない。
 
「キメェこと言ってんじゃねぇよ」
 
 黒曜は小さく舌打ちをすると立ち上がって鷹見を睨み付ける。しかし大柄で強面な黒曜が凄んでも鷹見は一切怯むこと無く、寧ろ笑みを深めた。眼鏡の奥の赤は黒曜を突き刺すようだった。
 
「君と彼の関係性は不思議だね。人を見る目はある方だけれど、君らはさっぱり分からない。何がしたいのか、何をしているのか。いや、正確に言えば君、かな。ねぇ黒曜」
「黙れ。それ以上は許さねぇぞ」
 
 地の底から響く唸るような声色に、鷹見は言葉を収めた。そして肩を竦める。どうやら行き過ぎた真似だったらしい。黒曜はしばらく鷹見を睨み付けていたが、ふいと背を向け振り返ること無く行ってしまった。笑みを崩さぬまま、苛立ちを醸し出して離れる背を眺める鷹見を、背後からやって来た影が覆う。
 
「……薮を突いて出てくるのが蛇だけとは限らない」
「古参にとっても、彼等のアレはタブーなんだね」 
 
 咎める様な視線を受け、もう聞かないよ、と鷹見は言う。シンは鼻で笑ってみせた。
 
「どうだか」
「まあね。気にはならないのかい?」
 
 シンは黒曜の去った廊下を見て、金剛の腕にぶら下がるミズキを見て、そして鷹見を見た。 

「アダムとイヴは泣いていない」
 
 ほんの一瞬、目を見開いた鷹見は乾いた声で笑う。

 「そういえば、君は案外ロマンチストだったね」 

 でも、と先程まで黒曜がいた場所に目を落とす。 

「カワイソウになってくるけどな、俺は」  
 
 


 気付いたらいた。離れないからそのままにしておいた。それだけの事である。
 
「ミズキ」
 
 痩せっぽちで全身至る所に痣なり擦り傷なりがあった。服もぼろ布のようなものを着ていて、靴は無く裸足。粗いコンクリートの上を歩いたり、砕けた硝子を踏んずけたりする度に足の裏は分厚くなったらしい。身に降り掛かるもの全てを威嚇し攻撃する様は如何にも手負いの獣だった。傷だらけで薄汚い餓鬼など、珍しくはあったが気にした事はない。いかなる境遇が、事情があろうと、手を出すのは唯の自己満足にしか過ぎない事をよく知っていたからだ。ろくに責任も取れないくせに背負うものではない。だから黒曜は主張する。別に、拾った訳でも面倒を見ている訳でもないのだと。
 
「何だよ」
 
 ただ、光の一切届かぬ掃き溜めで、爛々と輝く曇り無き金の瞳に魅せられたのは、紛れも無い事実であった。
 
「帰るぞ」
「焼肉行くか?」
「行かねーよ」
 
 癖のある銀と橙が混じった髪を掻き混ぜるように撫でてやるとミズキは鼻の頭に皺を寄せてくしゃりと笑う。隣に呼び寄せると、嬉々として腕を組まれる。野郎同士がする事ではないが、振り払う真似はしなかった。時折こちらを見上げながら、今日は何をした何があったかをミズキは事細やかに話す。例えば、スケボーの技が上手く決まったとか、今日の賄いとか。金剛がキャストとして働くようになってから、ミズキの話に賄いのワードが頻繁に挙がるようになった。気の良い金剛は、ミズキの我儘メニューによく付き合ってやっているらしく、ミズキは胃袋をがっちり掴まれているようである。本日の賄いは煮込みハンバーグ。二枚食べてやったと、自慢気に話す横顔を見て黒曜は薄く笑った。
 
「あ? 何笑ってんだよ」
「なんでもねーよ」
 
 あっそ、と吐き捨てるように言ったミズキの顔には、不満と疑問が有り有りと浮かんでいた。はぐらかされた事が気に食わないらしい。思った事が何でも顔に出るのが面白く、黒曜はまた笑う。それを見て眉を顰めたミズキが蹴りを繰り出すのと、黒曜がミズキの頭を鷲掴むのは同時であった。
 肩を並べて歩く深夜の帰路にて、野良犬を見掛けた。野良にしては毛艶の良い大きな雑種で、黒豆のように濡れた目がこちらをそっと窺っている。ミズキ、と黒曜は声を掛けたが、もう遅かったようだ。ミズキは黒曜の事など忘却してしまったかのように迷いなく犬に近付いて行き、ゆっくりとしゃがみこむ。犬はそっと顔をミズキの差し出した手に近付けて匂いを嗅いだ。短い舌が恐る恐る手を舐めると、空いた手が犬の頭を優しく撫でる。小さく鳴いた犬はパタパタと尻尾を振り、ミズキに身体を擦り付けた。
 黒曜は黙って近くの電柱に背を預ける。いつもの事だ。暫く戯れてお互い気が済めばほら。
 
「……帰るぞ、黒曜」
「おう」
 
 犬は一歩一歩踏みしめる様にして去って行く。しっかりした足取りと太い脚を見てここら一帯のボスかもしれないと思った。不意に手を握られる。犯人は言わずもがなだが、黒曜が視線を落としても、ミズキは真っ直ぐ前を向いていた。僅かな街灯と、月の明かりが銀の睫毛を透かしている。手のひらに当たる指輪が冷たかった。
 
 
 


 昔の話をしよう。黒曜がミズキと出会ったばかりの話だ。黒曜が連れて来た小汚い子供に、三樹夫妻はミズキの名を与えた。小さくて白い、星のような形をしたものが集まった花の名である。痩せっぽちの餓鬼は何度か確かめる様にその名を呟き、やがて小さく頷いた。幼さがまだはっきりと見て取れる小さな口が舌っ足らずに、それでも丁寧に名前を発音する様はやけに鮮明な映像として黒曜の中に残っている。
 育ちが育ちなので粗暴な言動が目立つかと思えば実際のところはそうではなく、ミズキは想定外に大人しかった。風呂や台所の使い方を教えれば素直に覚えたし、声を上げたり暴れたりする事もない。何か黒曜が尋ねても、ぽつぽつとたどたどしく答えるような感じである。表情も乏しく、家にいる時は部屋の隅で蹲っているか寝ているかのどちらかであった。どことなく遠慮した雰囲気に何度黒曜がやきもきした事か。しかし、だからといって問題がなかった訳ではなく、わざと大怪我を負うような喧嘩をしてきたり、深夜に家を抜け出したり。所謂試し行動らしき出来事も何度かあったが、黒曜の態度は変わらなかった。住居の提供はするし、分からない事は教えてやるが、深く踏み込みはしない。あくまで他人同士の、同居人といった距離感を保っていた。きっと、それが幸を為したのだろう。
 箸の持ち方やペンの持ち方に始まり、接客やらパフォーマンスする上での体の動かし方を教え込みだした頃である。その時にはもう随分とお互いの存在に慣れ、特に黒曜は、当時の黒曜に自覚はないが、だいぶ絆されていた。ミズキにも起伏の変化が見られるようになった。相変わらず身体は小さく痩せ細っていたけれど、出会った頃に比べたら幾分改善されていたと思う。遠慮がちな一面は残ったが、我儘を言われるよりはましかと放っておくことにした。
 ある冬の日の話である。
 
「ミズキ、お前何か隠してるだろ」
 
 さっと目を逸らしたのは、肯定の合図。黒曜が帰ってきた時から様子が可笑しかったのだ。そわそわと落ち着きがなく、頻繁にある一点を気にして明らかに隠し事をしています、といった態度だった。バレバレである。ここで黒曜自らがミズキの隠す謎を暴いてやっても良かったが、きっとミズキの持てる力全てを出し切った末の隠蔽なのだろうと思えば憚られた。学も何も無い子供なのだから、と。そこで黒曜はミズキの反応を見てやる事にした。どっちにしろ、逃れは出来まい。
 ミズキは視線を離さず見つめてくる黒曜に、始めは根気強く黙りこくっていたが、やがて諦めた様に恐る恐る部屋の隅に隠されていたものを腕に抱えてきた。
 
「ん、見せろ」 
 Tシャツをくしゃくしゃに丸めたものをミズキは大事そうに胸に抱き黒曜の前に立つ。俯いていて表情は見えないが、尖った肩先が僅かに震えている事に気付いた。だが黒曜からは手を出さない。あくまでミズキからの発信でないと意味が無いからだ。一方でミズキは全く動かず、どう切り出そうか決めかねているようだった。待つのは嫌いだが、ここで態度に出して逃げられたら元も子もない。未だ顔も上げずに口を閉ざしたままのミズキの様子に、ここからまた長期戦が始まるのだと覚悟した。
 しかし、思いもよらぬ所で沈黙は破られる。
 
「あ」
 
 くん、と小さな鳴き声がした。物音一つなかった空間であったのだ、その声ははっきりと空気を震わせた。そして、ミズキの抱えたTシャツの中にいる何かがもぞもぞと動く。ミズキはパッと顔を上げ、慌てて抑え込むが意味なんてないと本人よく分かっていただろう。黒曜が近付き、布切れを捲るとその正体はいとも簡単に暴かれた。
 
「あっ」
「…………はあ」
 
 仔犬だ。しかも生まれたばかりの。黒曜の掌に収まる程度の目も開いていない小さな毛玉が、Tシャツの波を泳いでいた。黒曜が指を差し出すと反射で擦り寄ってくる。黒曜がため息をついたので怒られるとでも思ったのだろう、ミズキは決まりの悪そうな顔をしてこちらを見上げていた。金色が不安そうに揺らめく。これでは、どちらが子犬なのか見分けが付かぬまい。
 ぎゅ、と唇を噛み締めるミズキの額をチョンとつついて、黒曜は口を開いた。
 
「俺は手を出さねえぞ」
「え」
 
 ミズキにとっては思いもしない発言だったのだろう、大きく目を開いて黒曜を凝視する。
 
「いいのか?」
「好きにしろ。ただし、お前で面倒見るんだな」
「おう! 任せろ!」
 
 先程の怯えた様子は一転し、パァと顔を輝かせるミズキ。今まで共に過ごした中で、一番明るい表情だったのではないか、と思った。硝子に触れるかのようにそっと仔犬を抱き締めたミズキに、黒曜は肩を竦める。柄ではないと分かっていたが、もう何だって良かった。年頃のように無邪気に笑う顔を見るのは悪いものではなかったのだ。あくまで他人であると主張しているが、随分と深い所までミズキという存在を許容していた証拠であった。
 声を弾ませてミズキは黒曜の名を呼ぶ。
 
「こくよ、こくよ、牛乳開けていいか?」
「さっき言ったろ、好きにしろって」
 
 うん、と頷いたミズキは仔犬をそっと床に下ろし冷蔵庫へと一目散に駆けて行く。その背を眺めて、冷蔵庫の中身を使うことに黒曜の許可を取るまで待っていた事に気付き驚いた。そのくらい勝手にしたら良いものを、もし黒曜が犬を置く許可を出さなければどうするつもりだったのか。素直に返しに行くのだろうか。深夜、街灯の疎らな道を一人で人気のない所に赴き、表情なく仔犬を手放すミズキを想像して、止めた。目を落とすと、仔犬はTシャツの中でもぞもぞと動いている。キュウキュウと絶え間無く声を漏らす姿は母親を探している様に見えた。黒曜は再びばたばたと忙しなく動くミズキに視線を移し、そしてぎょっとした。慌てて黒曜は声を上げ、ミズキの手首を掴む。ミズキが手にする平皿の中で牛乳が揺れた。 
「お、まえ何してんだよ」
「何って……牛乳やるんだよ」
 
 眉を顰めて不満を示すミズキに、黒曜はまたため息を零す。そう、ミズキは、何も知らない子供であった。仕方なし、と黒曜はミズキの手から仔犬を取り上げ、牛乳のたっぷり入った平皿も取り上げる。
 いいかよく聞け、と念を押して言うとミズキは素直に黒曜を見つめる。
 
「仔犬は初めっから皿で飲む力はねぇんだ。あと冷蔵庫からそのまま出したヤツは冷た過ぎる」
「お、おう」
「それと牛乳は水で薄めるんだよ」
「何でだ?」
「成分が全く違ぇんだ。そのまま飲ますと腹壊すぞ。おい、ストロー準備しろ。引き出しん中に何本かある筈だ」
 
 ミズキに仔犬を預け、黒曜はキッチンに立った。鍋に火をかけ、水でかなり薄めた牛乳を一度沸騰させる。まずは熱で殺菌だ。そして人肌程度に冷めるまで待つ間、ミズキが持ってきたストローを熱で変形せぬようさっと熱湯にさらす。ぬるくなった牛乳をコップに移してストローを注し上部を指で塞ぐと、圧力の関係でストローの中に牛乳が入ってくる。ミズキから仔犬を引き取り、胡座をかいた上にうつ伏せで乗せ――――仰向けにさせると気管支に牛乳が入ってしまい、肺炎になる。年寄りと同じだ――――ストローを小さな口に突っ込んだ。初めは戸惑っていた仔犬だが、問題なく飲み出したのを注意深く確認し、少しずつ与えてやる。終いに背を指で軽く叩きゲップをさせる所まで終えて、黒曜ははたと思いとどまった。笑いを含んだ声が横から飛ぶ。
 
「手、出さないんじゃなかったか?」
 
 ニヤニヤと意地悪く口を歪めるミズキに、思わず黒曜は顔を顰めた。
 
「お前が見てらんねえからだろが」
 
 軽く頭を小突くと、大袈裟に痛がりながらも顔は緩んでいる。呆れた顔をして黒曜はミズキに犬を返す。
 
「やっさし〜」 
「黙れ。ほら、犬っころ寝かせてこい」
「犬っころじゃねえよ。名前つけたんだ」
「何だよ」
「チビ」
「安直か」
 
 黒曜は立ち上がった。ミズキが首を傾げたので風呂、とだけ言う。ふうん、仔犬に意識を取られて気の抜けた返事をするミズキに背を向けた。部屋を出る前に、一度振り向く。眠る仔犬を胸に抱いたミズキは黒曜の視線に気付かない。ミズキは与えられたばかりのスマートフォンで、仔犬の写真を撮っていた。端末を横向きにする手つきは拙く、今にも落としそうである。ミズキは口元に抑えきれない笑みをたたえていて、黒曜には何故かその顔が泣く寸前の顔の様にも見えた。見たことの無い表情だった。
 
 

 濡れた髪もそのままに、湯気を身体に纏いながら黒曜は風呂から上がった。酒でも飲もうかと、冷蔵庫に伸ばした手がふと止まる。ミズキが、部屋の真ん中で突っ立っていたのだ。腕にはまだ仔犬を抱えている。奇妙に思った黒曜は、ミズキの背後に立ち肩を掴んだ。
 
「おい、なにやってんだミズ――」

  呼吸が一瞬止まった。ミズキは、表情なくこちらを見上げた。そして視線を腕の中に戻す。小さな毛玉が蹲っている。しかし、呼吸により上下する筈の身体がピクリとも動いていなかった。
 ミズキの細っこい腕の中で、仔犬は静かに息を引き取っていた。
 じっと仔犬を見つめるミズキの表情からは、何も読み取れない。いっその事泣いてしまえば、悲しんでしまえばいいのに。そうしたら慰める位してやるのに。しかしミズキはただただ黙って、動かずにいる。黒曜は何か声を掛けるべきか迷って、迷って、迷った末に、つい口を開いてしまった。
 
「……墓でも、拵えてやるか」
 
 いい、とミズキは首を振った。何故、と黒曜が問う前にミズキがそっと口を開く。仔犬の頭を撫でるその手は震えていた。
 
「ハカ作るのは、ヒトがやることだから。ただのジコマンだろ」
 
 でも、とミズキは付け加える。黒曜は黙って耳を傾け、ミズキの目を見るのも、仔犬を見るのも憚られたので、ミズキの口元のピアスを見ていた。
 
「オレがコイツを拾ったのも、身体拭いてやったのも、牛乳あげたのも、全部オレのジコマンなんだよな」
 
 声に色はない。以前よりたどたどしさが薄れ、まだ片仮名発音の箇所はあれど流暢になった分、起伏に欠けた話し方だった。
 ミズキは独り言を言うみたいにつらつらと語る。思えば、ミズキがこうやって長く話すのも初めてな気がした。
 
「犬ってさ、あったけぇんだ。夜とか雨降った時とかに抱っこしてるとすげぇ分かる。腹のとこに手あてると心臓が動いてんのも分かってさ。生きてんだなって。……コイツ、ダン箱の中で一匹だけ生きてたんだ。キョーダイはみんな死んでて、でもコイツだけまだあったかくって。仔犬はすぐ死ぬんだ。ハハオヤが面倒見なかったり、カラスに食われたり、何もしないでも死ぬ。だからオレ、コイツもすぐ死ぬんだって思って。でも抱っこしたらまだ生きてたから。生きてたから」
 
 黒曜はミズキの頭を掴んで胸に寄せた。こんな風に触れ合うのは初めてだが、ミズキは拒絶しなかった。癖っ毛を撫で付けてやる。小さな頭だった。ミズキは呟く。
 
「オレ、何がしたかったんだろう」
 
 仔犬は結局、近くの空き地に埋めてやった。包んでいたTシャツも一緒にだ。手を合わせる黒曜に倣い、ミズキも不慣れな様子で手を合わせ目を閉じていた。
 その夜、黒曜はミズキと同じ布団で寝た。来るか、と聞いたらミズキが頷いた。それだけ。初めて会った時と同じであった。
 二人分の体温が溶けた布団の中で、ミズキはこれまでの事を語った。拙く、不明瞭な話し方からは断片的な事柄しか把握出来なかったが、共に過ごした間の振る舞いを思い返して納得した。喋り過ぎたミズキは、半分寝かけながらも言った。きっとそれは、誰に向けられたものでは無かったんだと思う。
 たった一言、大事にしたかったんだ、と。
 それだけ言ってミズキは目を閉じた。糸が切れた様に眠る姿は年相応よりも幼く、穏やかな寝顔をしていた。抱き寄せると温かな体温と、絶えない鼓動を感じた。肩口に静かな寝息がかかる。生きている証だった。
 
  
*


 風呂から出てきて、ガシガシと雑に髪をタオルで拭くミズキは、ソファに座る黒曜の足元付近に腰を下ろした。下を向いているので、普段は隠された白い項が黒曜の目前に晒される。
 
「おい、こっち向け」
 
 振り向いたと同時に頭を固定すると、突然の事に目を白黒させたミズキが慌てて声を上げた。 

「何するつもりだ! 離せや! このっ」
「うるせぇ、動くな。痛てぇのはお前だぞ」
 
 凄む黒曜に、明らかに怯えの色を見せたミズキはぎゅ、と目を瞑る。緊張で強ばっているが、暴れられるより都合がいい。どうせ一瞬の出来事なのだから。
 柔い右耳に触れると、悲鳴と共に小さく肩が跳ね上がる。その様子を鼻で笑うとミズキは顔を赤くして唇を噛んだ。ガチガチに緊張している間に、黒曜は手早く消毒液に浸した安全ピンを取り出しミズキの右の耳朶に貫通させる。ぷつん、と大した力も込めずに針は肉を貫き、引き抜くと赤い血が黒曜の手に垂れた。
 
「え」
 
 金色が、大きく見開かれた。
 ぽかん、と呆けた顔で、驚きのあまり痛覚が追い付いていないのだろう。そのうちに用意していた代物を付けてやる。
 
「ほらよ」
「ほらよって……」
 
 耳に触れたミズキは血のついた感触に驚いて慌ててスマートフォンの画面で確認する。と同時に顔を歪めた。視覚に捉える事で、痛覚が脳に追い付いたのだ。
 
「何してんだよ」
「別に。意味なんかねぇよ。いらねぇからやっただけだ」
「だからって穴開けなくてもいいだろうが」 
「いらねぇのか」
「そうとは言ってねぇよ」
 
 消毒を忘れないように言うと、開けたのは黒曜なのだから黒曜の仕事だ、と生意気な口が言った。気に障ったので穴を開けたばかりの耳を引っ張る。あまり大袈裟に痛がるものだから面白がって手を離さないでやると拳が飛んできた。黒曜は怯むことなく手首を掴んで回避する。あの頃よりも、随分と太い手首だった。
 
「危ねぇだろ」
「うるせー死ね!」
 
 目に涙の膜を張りながら、立ち上がったミズキは黒曜を見下ろして怒鳴る。黒曜が笑っていると、ついに背を向けられてしまった。肩を怒らせながら部屋を出ようとする背中に、声をかける。 
「どこ行くんだよ」
「髪乾かしに行くんだよ」
「……今日、来るか?」
 
 ピタリ、とミズキが片足を前に出したままの状態で動きを止める。ゆっくりと首が周り、金の瞳が黒曜を睨み付けた。
 
「布団はオレが独占してやるかんな」
「ハ、やってみろよ」
 
 とは言ったものの、布団を剥がされるのは困るのでご機嫌取りに髪を乾かしてやろうと黒曜は腰を上げる。ガツガツ頭にドライヤーを当てるので、案の定怒られたが。
 布団には二人で入った。布団は死守した。先に寝落ちしたミズキの耳に付けられたシルバーのピアスを触りながら、そう言えば鷹見にミズキとの事で何か言われた事を思い出した。話の内容は全く覚えていなかったが、あの胡散臭い眼鏡野郎の言うことだ、どうせ大した事ないんだろうと黒曜も目を閉じる。
 体温の高いミズキのお陰で布団の中はとても心地が良い。誰が何を言おうと、どうだって良かった。
 黒曜がいて、ミズキがいる。
 それで良かった。
 それが良かった。
 

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