渡り鳥の棲む処
シンクで食器たちを洗いながら、不意に頭に流れてきた音楽を口ずさむ。思い浮かべるのは、愛しい彼がステージ上で高らかに歌い上げる姿。crazy for、トゥーランドットを原典とし、姫と旅人の駆け引きを情熱的に記した一曲だ。crazy for me please、お願い私に夢中になって。crazy for you ,Baby、私はあなたに首ったけ。軽やかなリズムとキャストたちの誘惑的な演技に心を奪われてしまう、そんな演目。いつかの公演で、彼に視線を向けられた時は本当に心臓が止まってしまうかと思った。いつだって彼は早希の心臓を高鳴らせてくれる。惚気だと笑われるだろうから、誰にも言うことはなく自分の心に秘めているが、きっと早希が死ぬ時は有り余る彼の魅力で窒息して死ぬのだろう。 後は洗い終わった食器を拭いて風呂に向かった彼を待つだけだ。布巾を手に取り、最後のマグカップに手を伸ばした。鼻歌も丁度良くサビを迎え、一つ大きく息を吸う。
「ご機嫌だな」
「っケイさん!?」
不意に降りかかった声に驚いて、思わず手からマグカップを落としてしまう。あ、と声を上げた時には彼の手が掬いあげ、カップが床に落ちて欠片を散らす事は免れた。
「すまない、そんなに驚くとは思わなかった」
と、申し訳なさそうに差し出されたカップを受け取り早希は首を振る。洗い物ありがとう、と瞼に触れた唇を受け止めると、ぽつん、と水滴が早希の顔に降りかかった。目線を上げると首にタオルを掛けたケイの髪はぺたんと落ち着いていて、濡れているのだと分かる。
「ケイさん、髪」
「君の係なのだろう?」
挑発的に小首を傾げたケイが、もう片方の手に持っていたドライヤーを早希に差し出す。あ、と母音を発したあと、早希の顔には満面の笑みが広がった。
カチ、とドライヤーのスイッチを切ると同時にケイが振り返り、首を伸ばして早希の唇に軽く口付けた。目を閉じて甘受すると、頬をケイの指が擽るように軽く撫でる。その手に触れると、ひんやりとして冷たい。ケイの髪を乾かしていたお陰で温まった早希の手には心地よい冷たさだ。
「明日、また頼んでも?」
「ふふ、任せてください。ケイさんの髪の毛乾かし係なので」
興味本位で、ダメ元で任せてくれないかと口にしてみたところ簡単に叶ってしまった小さな早希のお願い。きちんと手入れされているケイの髪に触れる事は躊躇われたが、案外される側のケイの方が気に入ったのか、こちらから声をかけずとも自ら早希に乾かすよう促してくるようになった。そんな小さな変化に、早希は胸の奥がキュンと鳴るような幸せを覚えた。
ドライヤーを片付けて戻ってきたケイが、もう寝ようか、と早希を抱き上げる。初めは緊張して身体を強ばらせていたが、力を抜いた方が早希もケイも楽だと気付き、今はもうされるがままである。逞しい腕に素直に抱かれ、早希は歩みに揺られながらふと思った事を口にする。
「ケイさんって、抱っこ好きですよね」
抱っこだけでなく、ケイは頻繁に口付けたり手を握ったりと早希に触れてくる。アメリカで長い間生活していた名残なのかスキンシップというものに抵抗がなく、寧ろその頻度に早希の方が驚いたものだ。帰る場所を共にしてからは尚更。隣合うと常にどこかしらがケイと繋がってる。早希は、ケイから与えられる幼くて可愛らしい触れ合いが一等好きだった。大袈裟なことをされるより、砂糖菓子のような小さな欠片をたくさん与えられることを早希は好いている。
「君は嫌いか?」
「いいえちっとも」
ぎゅう、とケイの首に腕を回し、擦り寄るように頬を寄せる。風呂から上がったばかりの彼からは、ベビーパウダーのようなほんのり甘い赤ん坊のような香りが漂う。早希の愛用する入浴剤の香りだ。ケイが日中使っている香水の香りも、清潔感を与えながらも男らしさを醸し出し、早希好みの香りだが、何も纏っていない、ケイ自身の香りも大好きだった。こうやって触れ合っていないと分からない仄かな香りは、自分しか味わう事が出来ないのだと優越感に浸らせてくれる。 柔らかなベットに降ろされると、覆い被さるようにしてケイに抱き締められる。潰されることは無いが、確かに感じる重みと体温により早希は小さく欠伸した。その後すぐに降りかかるのは口付けの雨。啄むようなそれらは、雛鳥を彷彿とさせ、普段こちらを小鳥と呼ぶのは彼なのになぁと心の中で呟く。 早希も軽い口付けを返したり、ケイの頭を撫でたり。無言ではあるがお互いに温もり与え合っていると、不意にケイが早希の名を呼んだ。
「次の休日、君の時間を頂戴しても?」
ぱちくり、と目を瞬かせ、早希は脳裏にスケジュールを思い浮かべる。今のところ予定は入っていないし、仕事も特別忙しくはなかったことを確認し、微笑んでこくこくと頷いた。
「勿論です」
「それは良かった。普段、あまり君と過ごす事が出来ないから」
「お店でいつも会ってますよ?」
そうではない、とケイはころん、と早希の隣に寝転び、その大きな手を早希の頬に添える。
「確かに店で顔を合わせその後家路につくが、それだけだろう。君と2人で出掛けることはほとんどない」
「そんな、わたし、ケイさんと一緒に暮らしているだけでも満足なのに……」
「それは俺もだ。しかし、君との記録は様々な風景と共にある方がいい」
いつだってケイは早希を優先して、早希の為に動いてくれる。もう充分だ、自分にも返させてくれと訴えても、それが一番の俺の望みだからだの言いくるめられて結局早希が甘やかされるばかりだ。早希にはそれがたまらなく悔しい。愛されることと与えられることは同義ではない。早希だって、たまにはケイを甘やかしてみたいのだ。
「じゃあ、次の次のお休みはわたしにケイさんのお時間をくださいね」
「それは、勿論。君のためならば。行きたいところがあるのか? それなら次の休みにでも」
「違います、わたしがケイさんにしてあげたいんです」
だから楽しみにしててください、と早希はよく分かっていない顔をするケイの頬に口付けた。いつも先回りされてしまうから、今回ばかりは自分で全部考えたいのだ。 ふ、と空を描いたた瞳か柔らかく細められる。お返しにと頬に体温を感じ、ケイは早希をその腕に引き寄せた。
「それならば、楽しみに待っていようか」
「ケイさんもビックリなお楽しみですよ」
顔を寄せ合い、どちらともなく唇を近付ける。早希は、ケイの腕に抱かれながらまだ訪れぬ彼との日々を想った。途方のない幸福と、平穏を。