遥かの夜空を、六等星まで
   

later,

 洗い物をする水音の隙間に、彼女の微かな鼻歌が聞こえている。聞き覚えのあるフレーズに思わず口角が上がった。crazy for、しばらく前のチームKの演目だ。特に何でもない日であったが、悪戯に彼女に視線を向けて誘うような調子で演技したことがある。いつだって己は彼女に全てを向けているが、その日は特に。バックステージに戻った後、こちらに顔を出した早希にああいうのはもう止めてくれ死んでしまう、と力の入っていない拳でポカポカ殴られたのを鮮明に覚えている。  早希はケイが背後にいることに気付かず、楽しげな調子でハミングしながら作業をしている。その後ろ姿に、堪えきれなかった悪戯心がひょっこりと顔を出した。

「ご機嫌だな」
「っケイさん!?」

 跳ねた肩の上がり具合ときたら。驚きのあまりマグカップを取りこぼしたのをすかさず空中でキャッチする。大袈裟でなく反応してくれるのは、多少の罪悪感に襲われど楽しく思ってしまうのが男の性。驚かせてしまった詫びと洗い物をしてくれた感謝として瞼に口付けた。初めの頃はすぐに恥ずかしがって顔を背けられたりしたのだが、今はもうそんな素振りを見せずに受け入れてくれるようになった。まあ、少しでも深く触れ合おうとすると逃げられるのだが。引き際が重要なのである、いつまでたっても初な彼女と接するには。恥ずかしさの限界まで追い詰めるのも、それはそれで楽しいが、今はそういった欲情はなりを潜めていた。

「ケイさん、髪」

 くん、と濡れた髪一房を軽い力で引っ張られる。すかさずドライヤーを彼女の前に差し出すと、早希は満足気な笑みを浮かべた。  

「はい、終わりましたよ。お疲れ様でした」

 髪全体を櫛で梳き終えた早希がケイの両肩をポンと叩く。

「明日、また頼んでも?」

少し前に、早希がケイの髪を乾かしてもいいかとの伺いを立ててきた。断る理由はないので二つ返事で了承したところ、随分と嬉しそうに取り掛かってくれたのだ。何故かと問うて、普段ケイにしてあげられることが少ないから、と答えられた時はもう本当にどうしてやろうかと思った。早希は、自分がケイに与えられてばかりだと言うがそれは断じて違う。早希はいつだってケイに抱えきれない程の幸福を与えてくれる。 ずっと昔から、身に余りすぎるものを。
 己の髪を梳かす指先の細やかさに嵌ってしまったのはケイの方だった。自ら頼んで行った時の早希の嬉しそうな顔が見たいというのもあるが、丁寧で優しい彼女の手つきを感じていたいというのが正直なところ。
 頃合も良いので、寝室に向かおうと早希を抱き上げると、ふと早希がケイの顔を見上げる。化粧を落としたありのままの姿は日中より幼く見え、甘い顔立ちが際立つ。早希は童顔だと指摘されるのがコンプレックスだと言うが、小動物みたいで愛らしいとケイは思う。早希は首を傾げた。

「ケイさんって、抱っこ好きですよね」
「君は嫌いか?」
「いいえちっとも」

 好きですよ、とケイの首に抱きついてくる早希の髪に鼻先を沈める。仄かで爽やかな花の香りがした。
 常に触れていないと、いつ君が離れていくか不安で仕方がないのだと教えたらどんな顔をするだろうか。大袈裟だと笑うだろうか。
 一度手放したあの日を、後悔していないと言えば嘘になる。早希の為とはいえ、やはり傍にいるべきだった。他の選択肢が無かったのだという言い訳は、逃げの一手にすぎない。どんなしがらみだろうと掻き分けて、何もかもを捨ててでも、早希の隣にいる事が出来たなら、きっとまた違う未来が訪れていたのだろう。間違っていたとは思わない。それでも、それでもだ。いつだってああすれば良かったこうすれば良かったと思い返しては、道のない道を、目的もなくただ歩いている。
こうして、帰る場所を同じにして眠りにつくまで共に居られることは奇跡のように感じた。早希との、ありふれた日々の一つ一つの瞬間がたまらなく愛おしい。いつか来ると分かっている終わりを望まないくらいに。
 腕に抱えた愛しい体温に、鼻の奥が熱を帯びる。彼女の前では涙を零さぬと決めたのだ。耳元で楽しげな笑い声を上げる早希に情けない顔が見られぬようにそっと小さな耳にキスをした。

「……この間、真っ白な猫ちゃんがいたんです」

 寝室で布団に包まれながら、ケイの隣に寝転ぶ早希がふと思い出すかのように口を開いた。

「ああ、店の周りは野良が多いからな」
「でも、その子すごく綺麗で。首輪してなかったから野良だと思うけど、でもすっごく綺麗でした」
ケイさんに似てたんですよ、とまるで内緒話をするような小声で早希は言う。

「美人な猫ちゃんでした。近くに来てくれなかったのが残念だったんですけど」

 動物は、人となりに機敏に反応する。本能で、近寄る人間がどの程度か悟っているのだ。早希は、店の裏側でよく野良猫と戯れているのをケイは知っていた。擦り寄ってくる猫たちに向ける慈愛に満ちた顔を、こちらにも向けてくれればいいのに、と情けなくも小動物にさえ嫉妬していた事もある。

「きっともふもふでしたよ。もふもふ」
「もふもふ」 「もふもふです」

 ケイが反芻したのが随分と可笑しかったのだろう。早希はケイの胸元に顔をうずめてクツクツと笑った。その小さな背に手を回し、旋毛にキスを送る。

「ふふ、ケイさんがもふもふって言うの、なんかかわいい」
「……そうか」  

 しばらく肌を寄せあって体温を分け合っていると、眠気が襲ってきたのだろう。早希が小さく欠伸をする。しぱしぱと瞬きをする様子は幼子のようで愛らしい。

「眠いか」
「ん、もうちょっと、起きてたい……」

 しかし、もう少し起きていると主張する割に言葉は消えかけで、ふにゃふにゃと頼りない。

「ケイさんとお話したいけど、ケイさんといるとすぐ眠たくなっちゃう……」

 んん、と頭をケイに擦り付ける早希こそ猫のようだった。力の抜けた唇に口付けると、ゆっくりと瞼のシャッターが閉じて彼女のよく澄んだ瞳が隠れていく。

「また明日がある。ゆっくりおやすみ」

 おやすみなさい、と半分夢の世界に足を突っ込んでいた早希がくったりともたれかかってくる。入眠の邪魔にならぬ様、ゆっくりとしたテンポで背を叩いていると暫くして穏やかな寝息が聞こえてくる。
 また明日、と自分は言った。その重みを、早希は一生知らなくていい。  
 無垢な寝顔を見て、ケイは思う。これからのことを。
 これから、を考える事が出来るようになるとは到底思ってもみなかった。明日が、もう少し遅く来たらいいのに。そうしたら、もっと早希と過ごす時が増えるだろうか。
 子供じみた考えだと思う。それでも願わずには、祈らずにはいられなかった。腕の中で静かに眠る天使に誓う。途方のない幸福と、平穏を。もう二度と、手放すことが無いように。