遥かの夜空を、六等星まで
   

最果ての青に

 少しだけ開いた扉から、静かな旋律が聞こえてきた。ゆるやかなそれは早希をそっと眠りから引き上げていく。真白なシーツに皺を寄せる事を躊躇わず、一人で眠るには大き過ぎるベッドの上で猫の様に丸まった早希は、被った布団の隙間から白いカーテンの向こうを伺った。重たい睫毛を瞬かせて見た景色は、寝起きで無防備な瞳には明る過ぎた。カーテンをすり抜けてくる陽の光が、部屋の中を照らす。目を瞑って再び布団の中に潜り込んだ早希は、ふと自身の身体に直で触れる柔らかな布の感覚に気付く。そして、同時に昨夜の情事が在り在りとよみがえって訳もなくシーツを強く握り締めた。己の肌に触れた指先の、唇の、柔らかくも激しい熱をまだ覚えている。彼がどんな手付きで早希に触れ、どんな言葉を唇に乗せるのかでさえ。顔周りの体温が一気に上がり、熱を冷ます為にぶんぶんと勢いよく首を振った。寝起きの身体に鞭を打つかの様なその行為によって一瞬目眩がする。そこまでしても、胸の内に飼っている小生意気な仔猫は、内側をカリカリと引っ掻いてはミィミィ鳴いて騒ぎ立てた。うるさいうるさい、と身を縮めて、誰にも何も聞こえない様に唇を噛み締める。この部屋には早希以外の誰もいなくて、何も聞かれる筈はないのだが。
 低く滑らか声はまだ途切れていない。一旦落ち着きを取り戻した早希は、小さな小さな歌声な鼓膜を委ねる。客席から幾度となくこの声を聞いてきたのだけれど、それらはあくまで舞台上での歌声であって。威厳に満ち溢れた、迫力のあるそれとは打って変わってまろやかな音階たちを聞くのは初めてであった。
 のろのろと身を起こし、傍に畳んで置かれていた衣類を引っ掴んで身に纏う。下着を身に付けた後に羽織った白いシャツは、肩幅が大幅に余った事、袖から指先すら出てこない事、そして釦の配置がいつもと逆である事から容易に女性用ではないのだと悟った。洗濯したての、仄かな柔軟剤の香りがするそれは身に染み付いたものではなく、かといって全く知らないものではなかった。
 存外、彼も王道的シチュエーションを好むのだろうか。
 羞恥よりも、驚きよりも、やけに冷静な感想を抱くあたりが風見早希を風見早希たらしめる所以であった。
 周りに目を配らせても、他に着り物になる物は見当たらない。仕方なしに、早希は温かな体温の残るベッドから冷たい床に足を下ろした。
 歌声は、まだ続いている。ぺたぺたと裸足のまま部屋の扉に近付く早希は、開いた隙間からそっと身体を滑り込ませた。
 


 果たしてそこには、ケイがいた。
 髪を一つ後ろに括ったお陰で、横顔がよく見える。キッチンのコンロで、フライパンと箸を手にケイは立っていた。ピンと伸びた背筋と、柔く細められた目。目一杯に注ぐ太陽の光が、色素の彼の輪郭をぼかしている。開いた窓から風が吹くと、香ばしい匂いが早希の立っている位置までやって来た。小さく唇が開閉し、そこから音楽が溢れている。
 まるで映画のワンシーンの様な光景に、早希は呼吸を忘れて見入ってしまった。
 目の前に佇むその人の、何とも美しい事よ。顔や身体の造形ではなくて、勿論それらも一因にはなるのだけれど。醸し出す床しい雰囲気が、滲み出る気品が、髪の一房、爪の先まで余す事なく無く行き渡っているこの人を、美しいと言わずとして何と言えば良いのだろう。
 気付かぬ内に長い時を共に過ごしていたけれど、こうして見て改めて、いかにケイがどのような人間であるかを悟った。

「目を覚ましたのか」

 はっきりと自分に向かって投げかけられた言葉に、早希は我に返って声の主を辿る。

「あ、はい、おはようございます」

 おはよう、と柔らかに微笑んで見せたケイは立ち竦む早希の傍に寄り、手を伸ばして髪を掬った。
 寝癖、と笑みを含んだ単語が落とされ、早希は顔を赤くして視線を逸らす。

「すみません、だらしなくて」
「構わぬ。君がそうやって気を抜けるのであれば、これ以上のものはない」
「そうですか……」

 相変わらず、彼の癖のある言葉遣いは擽ったい。

「よく眠れたか?」 
「はい、夢も見ないくらいにぐっすり」

 髪から手を離したケイは、今度は早希の頬にそっと触れる。ひんやりとした武骨な指先は起きたてで温もりの名残が残っていた早希にとって心地良いものであったので、唇を緩めて擦り寄った。

「それは良かった。……俺は君を夢に見た」
「わあ。変なことしてませんでした? わたし」
「いいや、全く。海に行く夢だった、二人で」

 落ちた声色に違和感を覚え、早希はケイの顔を見上げる。すると真っ直ぐに此方を見つめる瞳が、そっと陰った事に早希は気付いてしまった。
 あまり、深く詮索するべきではないのだろうけれど。
 早希は意を決して、ケイの胸に飛び付く。驚きに跳ねる背を、回した両腕で押さえ付け、耳を左寄りの真ん中、ちょうど心臓がある位置にくっつける。

「早希?」
「楽しい夢でしたか?」

 目を閉じて、鼓膜を震わす心音とケイの息遣いのみに集中する。一定のテンポを打つ鼓動の奥で、彼が息を呑んだ音がした。
 そっと、早希の後頭部と背に体温を感じる。抱き締め返されたのだと気付くのは容易い事だった。
 いつも早希に触れる時、ケイがどこか遠慮がちになっている事をよく知っていた。全てを自分一人で背負い込んでしまう人だから、誰にも何も言わずに溜め込んでしまう人だから。 

「海、行きましょうね」

 彼が、自分の為を思ってそうしていると分かっている。分かってはいるけれど、それはなんだかとても、寂しいと思うのだ。

「あまり、泳ぐのは得意ではないんですけど……でもきっと、見に行くだけでも楽しいと思うんです」

 ぎゅう、と身体に巻き付く力が強くなり、二人はより密着する。

「ケイさんと、わたしと、二人で。行きましょう、絶対」

 あなたと見たい景色が沢山あるのだと、そう言ったら彼は困るだろうか。

「……そうだな」

 隙間のない程にくっつくと、まるで二人の境界が滲んで溶けて一つになったような気がする。
 降りかかる静かな雨はそのうち晴れるだろうから。
 ただ今は、二人体温を分け合っていたかった。