遥かの夜空を、六等星まで
   

in this beautiful

 彼女はよく笑う。
 こんにちはの挨拶のとき、料理やドリンクが運ばれてきたとき。そして、さようならのとき。あなたは現金なもので、彼女の笑顔を見られると嬉しそうだ。……いや、さようならのときはもう少し寂しそうな顔をして欲しい? それに、悲しいときや困ったときに笑われるのも困る。彼女は知らないだろうけど、誤魔化せていると思ってるんだろうけど、彼女は案外分かりやすい。困ってるときは左の口角が右よりも上がって、ちいさなちいさな手をぎゅっと握るから。
 あなたはいつも、そんな彼女の横顔を見ていた。なんにも言わないで、なんにもしないで、ただ黙って。
 臆病者だ。
 と、あなたはそうやって自分のことを傷付けるけれど、あなたのその、なんにもしない、が彼女にとってのやさしいだってこと、そろそろ知った方がいいよ。
 あなたの月色の髪がスポットライトに照らされて、きらきらと透けている様子を見るのが好きだと彼女は言う。あなたは恥ずかしいと思った。彼女が嘘をつかないのを知っているから尚更、そんな真っ直ぐな目をしてこちらを見ないでくれと思う。そんなものより、彼女がケーキを食べるときに少しだけ膨らんだ頬が咀嚼に合わせて動いているところや、手帳にものを書き込むときに伏せた睫毛が白い肌に影を作る様を見ている方がずっといい。あなたは、駄目な自分を綺麗なものとして捉えられるのは昔から苦手だった。けれど、恥ずかしいし嫌なのだけれど、どうしてか不快だと彼女に伝えたくなくてあなたは躊躇う。
 それを言ったら、やさしい彼女は笑うから。左の口角を上げて、手を握りしめて、笑うから。
 あなたの趣味は読書だ。分厚い表紙を撫でて、捲る度に鼻をくすぐる紙の匂いを嗅いで、好きな飲み物を傍らに、ほんの少しの贅沢をして物語の世界に入り込む。多種多様な登場人物と、時に心を合わせて、時に空から彼等を見下ろして、そうやって世界を構築していく。それはショーをより完成度の高いものするためでもあるけれど、あなたはなにより自分でない誰かや自分のいない世界に没頭するのが好きだから。インクに象られたことばの一つ一つを丁寧に丁寧にほぐして、まっさらな絨毯の上に並べて、断片を少しずつ繋げて出来上がった世界地図をあなたは満足気な顔をして眺める。それだけで良かったし、それがあなたにとっての一等だった。
 こうして、今まではずっと自分の世界だけで満足していたのだけれど、あなたはある時彼女に自分の作った世界地図をみせてみたい、と思ってしまった。この大きなうつくしい世界地図を彼女に見せたら、彼女は一体どんな顔をするだろうかと思ってしまった。笑ってくれるだろうか。すごいと手を叩いてくれるだろうか。そうしたら、きっとあなたは嬉しいんだと思って、あなたは立ち止まる。
 あなたは、彼女には頼り甲斐があって格好良くて、なんでも出来てしまう人が相応しい思っている。すてきな彼女には、イイ男がつくものだと思っている。そうなるべきだって。自分みたいな、臆病で情けなくてなよっちい男は彼女の隣に立つもんじゃないと。彼女に元気がない時に、あの活発で素直な彼はお喋りで彼女を笑わせてあげるし、あの穏やかでセンス抜群な彼は彼女の話をさりげなく聞き出してあげるし、料理上手で手先の器用な彼は彼女の喜びそうな可愛いスイーツを差し出してあげる。あなたの尊敬する彼に至っては、そもそも彼女を元気のなくなるようなことにしない。
 だからあなたは忘れることにした。なかったことにしようとした。ひょっこり泥の中から顔を出した、曖昧でふわふわの薄い桜色の欠片は遠い空の彼方に放り投げてしまおうと。
 でも、あなたはどうしてか欠片を手放すことが出来ない。欠片を握った手を開けない。じゃあ、それじゃあ表に出られなくしてしまおうと、小瓶に入れて封をして、引き出しの奥に奥にしまい込む。でも欠片は硝子を砕いて引き出しを突き破って、とうとうあなたの心に根を張った。
 あなたは焦った。どうしてくれるんだ、と怒った。欠片がどんどん大きくなるにつれて、この子が最後はサラサラの砂になってしまうことを悟って悲しくなる。あなたはよく感じる人だから、悲しいことがどういうものかよく知っていて、もっともっと悲しくなる。この欠片が何も知らないままに消えてしまえばいいと思う。
 はやく、はやく、手遅れになる前に。
 この、どうしようもなくくるしい心が張り裂けてしまわないように。
 でも披女は、そんなあなたのことなんか知らないでまた笑う。あなたの前で、はたまた誰かの前で無邪気に微笑んでみせる。その度にあなたは胸を締め付けられて、色んな欲しいがむくむくと湧き上がる。
 その笑顔を向けるのは自分だけにして欲しい、笑顔だけじゃなくて視線も全部自分のものにしたい、さらさらの髪に触れたい、小指の爪を撫でてみたい、小さな歯を見せて欲しい。キスがしたい。抱きしめたい。手を繋ぎたい。隣にいて欲しい。それから、それからーーーーーー



 あなたには話したいことがたくさんある。でもあまり長く話すのは得意でないと分かっているから、頭の中に浮かぶ言葉たちをぎゅっと煮詰めては仕舞い込む。つまらない話を長々として、相手に嫌な思いをさせたくないから。
 この前読んだ本の主人公がいかに素直で愚直だったこと、あの翻訳は少し気に食わないこと、とある詩の一説に紡がれた言葉がうつくしいこと。物語の話に限定しなくてもいい。昨日作ったカクテルがが海の色をしていたこと、帰り道にふと見上げた空の星が綺麗なこと、店裏によく現れる野良猫の髭についた水滴が、夕日を浴びてガラスのようだったこと。
 あなたは、あなたが見る景色を、誰かに、彼女に共有したいと思う。彼女が、その可愛い桜色の唇に乗せてどんな言葉を奏でるのかが知りたくて、知りたくて。
 でもあなたはそれらを全部欠片と一緒に引き出しの奥の奥に追いやった。
 あなたは聡い人だから、もうわかっている。
 あなたは、彼女に恋をしていた。

 


 恋とはどんな味がするのでしょう。
 コーヒーの味だとあなたは言う。苦くて、苦くて、奥の方に酸味があって、そうしてどこか落ら着く味。
 あなたの心がコーヒーならば、彼女の存在がミルクで、彼女の笑顔がお砂糖なのだ。彼女がいて、もひとつおまけに笑顔があって、あなたの恋は甘くまろやかな味になる。
 あなたは日々苦いコーヒーを飲みながら、時折こっそりカフェオレを飲む。ミルクとお砂糖のたっぷり入った、うすいブラウンの飲み物は、ほんの少しだけあなたをあたたかくする。暴れん坊の彼は、目敏くそんなあなたを見つけて顔を顰めるのだけれど、あなたは気にならなかった。そして思うのだ、彼女にこのカフェオレを飲ませてあげたいなぁ、なんて。
 彼女と出会って一年の時が過ぎて、今もなお、あなたの引き出しの中身は増えていく。話したいことは物語の話とあなたが見たものだけに収まらなくなって、あなたの抱く感情も彼女に話してみたいこととしてそっと仕舞い込まれるようになった。あなたの嬉しいを彼女に共有したくて、あなたの楽しいも共有したくて、怒りや悲しみは少しためらってしまうけれど、それでもあなたの全てを彼女に見せてみたいと思う。
 彼女は相変わらずうつくしくて、かわいくて、時折あなたにとってひどい存在になる。
 それでも、あなたは彼女に惹かれていた。
 


 あなたがまた一つ大人になった時、幸運なことに彼女が隣にいた。彼女はあなたの生まれた日を祝福して、ちいさなちいさな手を握りしめて左の口角を上げて笑った。それを見たあなたは悲しくなる。だって二つのサインは彼女の困っている証だから。彼女をよく見ていたあなたは、それをよく知っていた。あなたは彼女を気遣って、早々に話を切り上げようとする。彼女もあなたと同じくよく感じる人だから、それじゃあまたね、って言ってお終いになる。そう思っていた。
 不意に、彼女はあなたの手を掴む。細くて冷たい指が肌に触れると、あなたはびっくりして言葉を失った。彼女から触れられるのは初めてだった。

「ぎんせいさん」

 彼女があなたの名前を呼ぶ。その声は震えていた。あなたは彼女の顔を見る。彼女はあなたを見ていた。

「あーーのーーーーきーーす」

 
 
 
 あなたは走り出す。くるりと背を向け走り去った彼女に向かって。一つ歳を重ねたけれど、連日ステージで踊っているので体力に衰えはなかった。彼女の小さな歩幅に、あなたの大きな歩幅はすぐに追いついてしまう。

「ーーーーサキさん!」

 思ってよりも大きな声が出てしまって、あなたは驚く。けれどそのお陰で彼女も振り向いた。
 まんまるの目を大きく開いて、長いまつ毛が瞬く。その下のほっぺたの、なんともまあ、赤く染まっていることよ!

「えっと、その」

 あなたは彼女に向き合って、そうして言葉に困ってしまう。こういう時に、なにをどうしたらいいのか分からない。
 けれど、彼女に貰った欠片をあなたも返したいと思ったから、あなたは辿々しく言葉を紡ぐ。

「この間、オフの日に昼過ぎまで寝てて、えっと、布団の中ってすごい暖かくってさ、出たくなくてそのまましばらくじっとしてたんだ」

 彼女はあなたの顔を見つめてじっと言葉に耳を傾ける。

「それで、えっと⋯⋯あんたは好き?そういうの」

 あなたは手を閉じたり開いたりしながら彼女に訊ねる。
 彼女はまぶしそうに目を細めた。

「すきですよ、そういうの」
「そっか……そっかぁ⋯⋯」

 あなたは相槌をしながら、一体なんてくだらない質問をしたんだと思う。もっと違うことを言おうとしていたのに。

「それでさ、ええと」

 あなたは彼女の手を握る。
 彼女はそっと握り返した。
 手のひらから伝わる体温は指先と違ってあたたかく、そしてひどく納得した気分になった。ストン、と胸の中に落ちたのだ。ああ、これだよ、と。これを求めていたんだよ、と。
 そうしたらあなたはすっかり落ち着いて、穏やかに言葉を口にする。

「あんたに、話したいことがたくさんあるんだ」

 きっと今からじゃ時間はちっとも足りない。引き出しは膨れ上がっていて、今にも飛び出しそうである。
 でもだいじょうぶ。今日で終わらせなくたって、明日も、また次の日も、ずっとずっとその先もあるのだから。
 彼女は左の口角を上げて、手を握って、そうして目尻を垂れさせる。あかく色付いた頬に、とうめいの雫が流れているのが見えてあなたは彼女のまるい頭を抱き寄せた。
 胸の中で、彼女が声を振るわせながらあなたの名前を呼ぶ。
 抱きしめた彼女は思っていたよりもずっと細くて小さくて、そして、あたたかい。
 それはあなたが、あなただけが知っている彼女だった。