朝焼けの産声
きみのいきる世界を、だれも知らない。
今日もきみに、朝が訪れる。きみはいつものように、気の向くまま道を歩く。きみの気の向く方向はいつも同じだった。きみはきみで決めることに多くの時間が必要な人だから、あともう一つ季節を越えるまで、足跡を重ねる道は変わらないのだろう。
建物だらけのこの地域は、きみにとって少し窮屈で息苦しい。埃っぽいような、鼻の奥のむず痒くなる空気を浅く吸い込んで空を見上げる。薄い青に重なる雲の隙間から溢れるまぶしい陽の光に、きみは目を細めた。
暑くも寒くもない気温だ。汗が垂れたり喉がからからに渇いたりすることも、唇から色が失われたり体が強張ったりすることもない。頬を撫でる風は少しだけ湿っていて生温いけれど、いやな気分はしなかった。
きみの麦わら色をした髪が、風にすくわれて揺れる。
その風の行方を辿るように耳をすませてみると、色々な音がきみの元に届いた。金属の擦れる音、大柄な男らしき足音。猫の鳴き声に、誰かの歌う声。カンカン、ばたばた、ごうごう。キーン、こんこん、びぃん。トントン、ブォーン、バンバンバン。
耳のよく聞こえるきみは、一気に襲いかかってきた情報量に顔を顰める。頭の中をぐるぐると駆け回る取り留めのない音という振動は、あまり気分の良いものではなかった。
ぎゅうと、小さく縮められていくような感覚。 頭を上から抑えられて、そうして頭の内側からも何かが押し上げているような、そんな感覚。
それが一体何なのか、きみは分からない。痛みはないけれど、なんとなく落ち着かなくてむかむかする。きみは手を開いたり閉じたり、目を瞑ったり、頭を振ったりするけれど、それはちっともよくならなかった。
胸の内側の薄い皮膚を裂かれるような、なにか熱いものが込み上げてくるような、そんな気もする。
いま、きみの周りを取り巻くもののなまえが、現象が、きみにはわからない。
わかったところできみに何かができるわけではないけれど、なまえがあるということは、一つ、世界が構築されることでもあった。
きみのいきる世界を、きみは知らない。
「ギィさん?」
その時、よく知った声がきみの耳に届いた。
きみは閉じていた瞼を開いて、きみの前に立つ彼女を見る。
「……さき」
彼女はきみの眉間の皺を見ると早足で近付いてきた。形の良い眉を歪めて、きみの顔を覗き込む。やっとのことで呟いた彼女の名前は、ひどく弱々しい。
「なにかありましたか?」
きみは小さく首を振って再び俯いた。なにかが起きているけれど、それを伝えるすべをきみは持っていなかった。ただきみは、きみの中で暴れる魔物から逃げるでも、魔物に抗うでもなく、きみのうちがわがこわされていく様を見ていた。
風も吹いていないのに、冷たいものがきみの背中を撫でる。
わけもわからぬまま震える指先を、彼女の手が掴んだ。
小さな手だ。そしてひんやりとつめたい。つめたいけれど、きみよりずっと低い温度は彼女がここにいることをはっきりと示した。
彼女は悲しそうな顔をして、それでもまっすぐきみの目を見る。
かすかに潤んだ瞳にうつる、きみのひどく歪んだ顔。きみはまるですれ違う欠片も知らない人を見るみたいな顔をした。きみは誰の顔の造形だって興味はなかったけれど、今見える顔はおかしなものだときみは思った。きみの顔の筈なのに、そうとは思えなかった。
「……ここから離れましょうか」
何も言葉を発さないきみに、彼女はそう囁いた。きみは、きみの顔をした情けない顔の人間が頷くのを見た。
掴まれた手はそのままに、すぐ解けそうなささやかな力で腕を引かれる。きみよりもずいぶんと低い位置にある彼女の頭を追いかけながら、きみは先ほどまできみの内側で渦巻いていたおかしな現象が遠ざかっていくのを感じた。
そう、だから、もうきみは彼女の手に引かれる必要はないのだけれど。きみは何も言い出せないまま繋がれた手と手に身を任せていた。
行き先を彼女は告げなかったが、しばらく歩いてたどり着いたのはきみのよく知っている場所だった。照明のついていない暗い室内。床が剥がされて剥き出しになった地面からは少しだけ冷気が漂っていた。相変わらず、あの時から変わらず、ぼろぼろに傷付いたまま、時の止まったままの場所。きみにとっての救いと呪いとが混ざり合った、やわく脆い欠片の置き場所。
どこもかしこも丁寧に壊された内装の、その中で辛うじて座れそうなソファにきみと彼女は隣合って座る。お互い何も言わないまま、そっと肩だけ寄り添って、時間だけが穏やかに流れる。繋がれていた手は、いつの間にか解けていた。
静かだ。
この場所は大通りから離れているから外の音は聞こえない。夜に生きる街にとってはまだ夢の中にいる時刻でもあるから、余計に。
さっきは音があることに苦しんでいたのに、今は逆に音がないことに心地の悪さを感じる。きみはそわそわと落ち着かない様子で、膝の上で組んだ両手を握ったり離したりした。
きみはそっと、彼女の顔を盗み見る。ここまできみを引いてきてくれた彼女は、何を思っているのだろうか。そう思ってきみは僅かに目を動かすも、垂れた髪に隠れて何も見えなかった。見えたところで、きみに何かがわかるわけでもなかったのだけれど。
彼女は俯いてるように見える。もしかしたら、寝ているのかもしれない、ときみは思った。
「えっ」
きみの指先が彼女の横髪に触れた途端、弾けたように彼女は顔を上げた。顔が見えた。驚いた顔をしていた。
彼女の大きく見開かれた瞳をきみは真っ直ぐに見つめる。彼女はいくつか瞬きをして、段々とその顔に困惑を滲ませる。けれども、きみは目を離さなかった。
「……音が」
「音?」
頭の中で音が止まなかったのだ、ときみは呟いた。からだの内側が溶けてぐちゃぐちゃに崩れて、何者でもなくなってしまう気がした、と。
きみは、ただ疲れていただけなのだ、本当は。この頃、きみを取り巻く環境が目まぐるしく変わっていくせいで対応しきれていなかっただけなのだ。たったそれだけ。きみだけでなく、誰にでも起こりうる些細な不調。
きみは知らないだろうけど、きみは最近ずっと気を張っていた。それが、緩んだだけ。海底を漂っていた鯨が、息継ぎの途中に気まぐれで水面に顔を出し、太陽の眩しさに目をくらませたのと同じ。目を開けたその瞬間の衝撃は大きいけれど、ほんの少し時間を置いて深呼吸をしたら、ああなんだ、たったの太陽じゃないかって気付ける。 けれども、きみはわからない。きみは世界を知らなかった。
「……まだ、止まないですか」
「今は、そうじゃなくて……でも音がないのが、いや」
きみは自分で言葉を紡ぎながらも何を言っているのだろうか、と考えてみる。音があるのが嫌で、音がないのが嫌。じゃあ、どうしたらいいのだろう。
きみの全てを象るマスターはここにはない。ケイも銀星もいなくて、きみの前にいるのは彼女だけだ。
「ねぇサキ。ボクは」
「えい」
どうしたらいい、の問いかけは彼女の間の抜けた掛け声によってかき消された。彼女は宙ぶらりんになっていたきみの手を取ってきみの耳に沿わせのだ。今度は、きみが驚く番だった。
きみの手の甲に、彼女のやわらかいてのひらが触れている。
ごう、となにかが流れる音がする。低い音。大きいなにかが蠢いている。
「聞こえますか?」
ふたつ重なった手の向こうから、少しだけくぐもった彼女の声が聞こえた。
「ギィさんが、ちゃんとここにいる証ですよ」
うまれたての赤ん坊は、換気扇の動く音にかつての寝床を見出すらしい。
母親の胎の中。羊水にくるまれた、暗くてあたたかい場所。
聞こえるのは、母親の血液の流れる音。
血。体を流れる、赤色の、いのちの証。
「決してギィさんが赤ちゃんだって言ってるわけじゃないんですけど」
大人にとっても落ち着く音って聞いたことがあります、と彼女はきみの様子を伺う。
きみは目を閉じて、きみのすぐそばに流れる音に耳をすませた。
外の音がたくさんあっても、頭の中でそれらがぐちゃぐちゃになっても、こうして手のひらを耳に当てるだけで、世界はたった一つの音で埋め尽くされるのだ。日常の中で聞くことのないこの音は、少し不思議だけれど嫌なものではない。そして、きみでなくなってしまったきみを思い出させてくれる。
たとえ外の音がなくなってしまっても、この音は自分の中にあるものだから決してなくならないのもいいな、ときみは思った。
そっと離れた彼女の手を追いかけて、きみは耳に当てていた手を外す。瞼を開けて、彼女と目を合わせると、彼女のすきとおった瞳の中にきみがうつっていた。変な顔だった。
睫毛の根元すらはっきり見えるほどに顔を寄せたきみと彼女は、静かに見つめ合う。
彼女の手を追いかけていたきみの手は、少し位置を変えて彼女のシフォンの袖を掴む。
「……あの」
きみは何かを彼女に伝えようとして口を開くけれど音にはならなかった。言葉がないのだから、当然のことだった。伝えるべき、伝えたい言葉が見つからない。
きみをたすけてくれた彼女に。
きみに、きみのいる証を教えてくれた彼女に、伝えたいこと。
感謝もありがとうも違う気がしたのだ。もっと、大きな、なにか。
ぐるぐると、きみの頭の中でいろんな言葉が駆け巡る。マスターに教えてもらったこと、ケイに、銀星に、スターレスの人に教えてもらったこと。そのどれを探し出しても、今ここで彼女に伝えるには物足りないように思う。
「ギィさん?」
首をかしげた彼女は、きみの言葉を待っている。
けれど、今のきみに伝えられるものはなかった。
「また今度、もっと、勉強するから」
誰ならわかるだろうか。誰に聞けば、答えてくれるだろうか。
今まで多くのことを教えてくれた彼等が、教えてくれなかったこと。
「その時に、言う」
だから、今は。
「サキ」
きみの、ありったけの精一杯をたった一つの、彼女のなまえにくるんで。
「待ってて」
はい、と彼女は頷いてくれた。
その時きみは、彼女が今日、はじめて笑ってくれたことに気が付いた。
世界のうまれる音がした。
それは、とても小さな――――――