朝焼けにはまだ遠い
「今日の帰りは遠回りしてこうよ。へーきへーき、お家まで送ったげる。オレ今日バイクだから」
「寒いからさ、オレのジャケット貸したげるよ。オレ?黒曜の借りるからだいじょーぶ」
「バイク乗るの恐い? 初めてはそうだよねぇ。ちゃんと掴まってれば落ちないし、オレ運転上手いから」
何か言われる前に、頭がこんがらがっている内に、悪いなぁとは思いつつもジャケット着せてヘルメット被せて、早希を背中にしがみつかせる形でバイクを走らせること数十分。早希も少し慣れてきたのか、乗せたばかりの時はぎゅうと晶の(正しくは黒曜の)ジャケットを握り締めていた拳も少し緩んでいる。ピンと伸び切っていた背筋も解け、軽く晶にもたれ掛かっているのを背に感じ、口元が歪んでしまった。ヘルメットで隠されているから誰の目にも触れる事はないが、きっと締りの無い顔をしているのだと思う。ミズキや藍にせがまれたり、マイカに顎で使われたりで後ろに人を乗せて走るのは初めて事ではないが、今までに女を乗せたことは無かった。ので、晶も心の片隅でそっと息を吐く。緊張していたのは早希だけでなかったのだ。
店に来て早希の顔を見てから、今日の帰りは2人で夜の逃亡に出ようと決めたのは直ぐの事だった。レッスンに顔を出したと同時に帰りの予約をつけた。黒曜には滅茶苦茶怒られたが、それも必要経費としておく。
それ位、浮かない顔をしていたのだ、我々の天使は。
珍しい、と思った。と同時に気を張っていない顔を見せてくれた事に喜ぶ自分もいた。そして何よりも、その憂いをどうにか置き去りにして欲しかった。
早希が、晶の誘いを受けたのはそれ程疲れていて、半ばヤケになっていたのだろうと晶は解釈する。多少抜けている所はあれど生真面目でしっかりした女だ。チャラけた態度の晶を軽くいなす位の器量もある。普段であれは論外とでも言うように切り捨てられた誘いだったから、相当参っていたんだろう。
生憎、インカムだなんて洒落た物を搭載していないので、風を切る音、ジャケットのバタつく音のみが2人の間を埋める。会話なんてものは当然の事如く一切なかったが、それがどうにも心地よかった。背に感じる微かな体温と、腰に回されるか細い腕。2人を繋ぐものはたったのそれだけであったが、今この世界には2人しか居ないのだと思った。
「……うみ」
「海だよ。さっむいねぇ、連れて来たのはオレだけどさ」
鼻の頭を真っ赤にさせた早希は、何の意味もない音だけを発するかのように呟いた。
気晴らしに海を眺めるというのは、何処の漫画かと、頭の足りない自分を笑ってしまいそうになる。が、それでも早希に何かしてあげなければと思ったのだ。
女の扱いに長けていると評価を貰う晶であるが、こういった時にはどう対処すればいいのかの最適解は持っていなかった。男というのは阿呆なプライドを持っているので下手な干渉はせずに放っておいて、忘れた頃に飯でも奢ればそれでいい。が、女というのは未知の生命体で、放っておいてと言えど関心を持たない事には傷をつく。適度に構えと言ってもその適度が難しいのだ。店に来る子らを楽しませるのは得意分野だが、きっとこういう事はリコやクー、鷹見なんかが上手く対処するのであろう。けれど、その立ち位置を他の男に譲る気は更々無かった。一番に見つけて、一番に声を掛けたのは自分だ。笑った顔も、気の落ちた顔も、全部が全部、己のものになればどれほど良かったか。欲望の掃き溜めで息をする自分らにとって早希は喉から手が出る程に欲しい存在である。自分らが、与えられなかったものだから。だから晶も他の男達も遠慮はしないし、誰もがその手を取ると信じている。何も確証なんてものはないが、それでも良かった。縋る先が、手を伸ばす先があるだけで救われた気がしたから。
「しずか、ですね」
透明な二粒の雫が、睫毛の瞬きと共にはじき出された。
「……ね」
一度零れたらもう止まる事など忘却されたようだった。次から次へと溢れる涙は早希の頬を濡らし、顎先からポタポタと落ちる。
いつだったか鷹見が、涙は血液から作られているのだと言っていた。だから、今こうして、晶の隣で静かに、嗚咽を漏らすことなくただ涙を流す早希は傷付いて血を流しているのだ。その傷全てを共に抱え込んで、互いに痛みを味わえたら良かったのに。物言わぬ海面を眺めながら、到底叶わぬ微かな願いをそっと海底に沈めた。
何も聞かないし、何も言わないこの距離がきっと最適解なのだろうか。自分にとっても、早希にとっても。互いに少しばかり遠慮し合った方が傷付く事も、傷付ける事も無いから。本当は、早希の全てを独占して、早希を傷付けた要因から囲って何者からも隠してしまいたい。だが、穢れを知らぬ純白の翼を折ってしまうのは晶の望む事ではなかった。己は、そう、早希が自由に羽ばたく姿を見ていたいだけなのだから。
月の光を静かに反射する真珠色の雫は、舐めたらきっと甘いのだろう。口に含んだらきっと怒られるので自重するが、早希の抱くもの全ては美しく、尊いものだった。柔らかな頬も、白魚のような指先も、ヘルメットで押さえ付けられたせいで跳ねた髪一房までもが愛おしかった。
「明日はさ、真珠と夜光のシフトが被るんだ。きっとまた喧嘩してるから、サキちゃんに叱ってもらわないと」
「ふふ、わたしは2人のお母さんですか?」
「どちらかといえばお姉ちゃんかなぁ。スターレスには手のかかる弟が多くてね」
「晶さんも、お兄ちゃんですね」
「そそ、大変なのよ、言う事聞かないやんちゃ坊主共が」
「皆さん、個性豊かですから」
「よくあんだけ我の強い連中が揃ったよ」
「でも、いいじゃないですか。楽しくて」
濡れていた所が乾いて引きつってしまうようで、笑いずらそうだった。それでも、涙を流しきれたのならそれでよかった。何も出来ない自分であれど、少しでも救いになれるのなら、それがいい。
空気は冷たく吐く息は白けれど、少しだけ触れた肩先だけはずっと温かかった。その温もりを忘れないように、晶はしばらく早希の隣で共に海を眺めた。
痛いくらいに空気の澄んだ夜だった。