白線をなぞる
真剣な背中ほど、ちょっかいをかけたくなるものは無い。心を許している相手だからこそ出来る芸当で、心のどこかにある不安を払拭してくれる行為でもある。ほんの些細な事だけれども、小さな許しの重なりが大切なのだと晶は思っている。
がしかし、今回の場合は大人しく待っている方が得策だと、部屋に入った瞬間に悟った。
鼻につく匂いと、丸まった背中。手の爪は仕事上の都合で出来ないために足指に彩りを施すのはちょっとした抵抗なのだと、得意気に語ってくれたときは子供らしいなどと思ったが、普段が真面目できっちりしている分垣間見る幼さは愛らしくも思う。
一度始めたら中々終わらないので、風呂に入ろうか、それとももう暫く背中を眺めていようかと思っていたら、不意にこちらに背を向けている筈の早希が声をかけてきた。
「……晶さん、そこにいるんでしょう」
「あちゃーバレた?」
「だってさっきから視線の圧がすごいんですもん」
くるり、とこちらを振り向いた早希は、後は乾かすだけだから、と手招きした。素直に従って背後に腰を下ろし、抱き締めるようにして肩口から早希の足を覗く。
「いい色じゃん」
「30分悩みました。色んなブランドで」
少しくすみがかかった薄いブルーは、一目見るだけで晶の髪色を彷彿とさせる。一番ぽいのがこれだったんですよ、と晶にネイルの瓶を見せてくれた早希の項に唇をつけると、小さく肩が跳ね上がった。誤魔化すように首を振り、早希が口を開く。
「手の方にも出来たらラインストーンとか、デザインにも凝ることが出来るんですけど」
「んー、手までやらなくってもいいんじゃない? サキちゃんごついの似合わないでしょ、オレもそんなに好きじゃないし」
「ですよね、お料理するとき邪魔ですから」
早希の生真面目な性格と、のんびりした性質に派手な爪の装飾は似合わない。確かに、しっかりしている子のギャップが見えるシチュエーションはキュンとくるが、早希は下手に飾りを増やすよりもありのままのほうがいい。早希も言ってみただけのようで、晶の言葉に素直に賛同した。
早く乾いて欲しいのだろう、早希は伸ばした脚をぱたぱたとさせてネイルが風に当たるようにしている。
早希には言わないが、誰にも見えない、よっぽど親しい相手にしか見せないであろう素足に施された自分だけの証が晶はほんの少し、いやかなりお気に入りであった。自身の性格上、縛ることも縛られることも好まないので早希に対しては緩く接しているが、独占欲がないのかと問われたら全く違う。むしろ独占欲は強いほうだ。それを表に出さないだけで。早希のことだから気付いていないのだろうけれど、店で他のキャストと少し話しているだけで本当は嫌なのだ。もしも笑いあっていたのなら相手を睨み付けたくなる位に。それをしないのは、早希が困るのと、自分が疲れるのと、そして早希の一番は自分なのだという絶対の自信があるからだ。誰に優しく慈しみを持って接していようと、帰ってくるのは晶の腕の中。たったそれだけ、と思うかもしれない。しかし晶にとってその"それだけ"が一等大事なのだった。
「サキちゃんの会社ってアクセサリー駄目だっけ?」
「んー、目立たない小さいものだったら大丈夫ですよ」
「じゃあこれあげる」
早希の手を取り、その手のひらの上に置いたのは裸のままの小さなピアス。光に透ける石はちょうど晴れた空を攫ってきたようなブルーだ。早希はそのピアスを見て、首を傾げる。
「これ、前に晶さんがつけてた」
「そ。これなら会社でも大丈夫でしょ」
「いいんですか? 貰っちゃって」
「いーのいーの、あげたいからあげただけ」
大事にしますね、と早希は頬を染めて花が綻ぶように笑った。額にキスすると身体ごと振り返った早希が抱きついてくる。ぎゅう、と首に腕を回されてシャンプーの香りが鼻をくすぐった。
「ネイルは乾いた?」
「ばっちりです!」
「お風呂行く?」
「もう入りました!」
「もっかい?」
「行きません!」
ええー、と不満気な声を上げる晶の腕から逃れ立ち上がった早希は晶の髪を一撫でし、小声で囁いた。
「……仕方ないのでベッドで、待ってたげます」
「は?」
晶がその言葉を咀嚼する前に早希は小走りで部屋を出て行く。ぽかんと、固まった晶だが、早希の耳の端が赤く染っている事を見逃しはしなかった。早希が姿を消した後、晶はぱたん、とその場に倒れる。
「いやー、いい女」
先程は早希にギャップは似合わないと言ったが前言撤回、こういうのは大歓迎だ。勝手に口元が緩み、きっとだらしの無い顔をしている。晶は口を開けて早希に聞こえるよう大きな声で叫んだ。
「すぐ行くからイイ子にしててー!」
とは言いつつも、わざとのんびり湯船につかって焦らすのもアリかなぁなんて考えながら。