遥かの夜空を、六等星まで
   

ロゴスは眠る

Ding, dong, bell,
Pussy’s in the well.
Who put her in?
Little Johnny Green.
Who pulled her out?
Little Tommy Stout.
What a naughty boy was that,
To drown poor pussy cat,
Who never did any harm,
And killed the mice in his father’s barn.



 

 「何を読んでいるんですか?」

 こつこつと小さな足音を鳴らして、早希がシンの前にやって来た。ソファに腰掛けていたシンは顔を上げ、本の表紙が早希に見えるようにしてやる。

「まざあ、ごー……マザーグース!」
「ああ。読んだことは?」
「ないです。でも、ちょっとだけ知ってますよ」

 と、早希が口ずさんだのはロンドン橋落ちた、だ。2人が両の手を取り合ったその下を順番にくぐり抜け、歌に合わせて降りてくる腕に捕らわれないようにする子供の遊びに用いられている。可愛らしいこの歌も、一説によれば何度も崩壊する橋がもう崩れないように人柱を仕立て上げるときの歌らしい。マイ・フェア・レディ、の終盤に捕らえられた子が人柱とされる。若干調子を外しながらも軽やかに歌う早希はきっと知らないのであろう。

「他はハンプティ・ダンプティとかですか? あと、女の子は……」
「砂糖とスパイスと、素敵な何かでできている、か。その続きは知っているか?」

 早希は横に首を振る。男児はボロきれとカタツムリと仔犬の尾で出来ていると歌った一番と、早希の言った二番は広く伝わっているが、実はまだもう二つあるのだ。シンはパラパラと幾つかページを捲り、該当する一節を読み上げてやる。読んでいたのは翻訳されていないそのままの本なので、英語を読み上げたシンに早希は顔を顰めた。

「英語じゃ分かんないですよ……」
「男はため息と流し目と嘘の涙。女はリボンとレースと甘い顔、だ」
「へぇ。……何だか、男の人に厳しくないですか? ため息に嘘って」
「女の目線から歌ったものだからな」
「じゃあ、シンさんは紅茶と猫と、あと……」

 ジビエですか、と眉を八の字にした早希が真剣な顔をして尋ねてくる。いや、それを尋ねられても正解などないし分からないのだが。答える代わりに早希の細腕を引き寄せ、向き合うようにして膝の上に乗せる。まろい頬を撫でると、早希はそれこそ猫のように擦り寄ってきた。

「お前は、杏と硝子と星だろうか」
「わぁ素敵。お上手ですね」

 揺れた髪から漂うシャンプーの香りが鼻を擽る。早希は、シンの膝の上に腰を落ち着けて、ソファの上に置かれた本を拾いあげ、適当な所を開いて読み始める。瞼に散らされた光の粒が、瞬きに合わせてきらめく様を、シンは黙って見つめていた。
 

 まだ何も知らない彼女は、こうやって己に身を預けることに躊躇わない。徐に髪を弄るのも、背を撫でるのも甘受して、甘えた声を出す。ゆるゆると締りのない顔を向けてくれる早希は、全てを知った時どんな言葉を、目を、シンに向けてくるだろうか。巫山戯るなと罵倒されるだろうか、それすら叶わずに存在すら無かった事にされるだろうか。
ゆっくりと、背を撫でていた手を上に登らせ、早希の首元に到達する。流石に擽ったいのか早希は少し身体を捩らせた。細い首だ。きっと、男の手にかかれば赤子の手を捻るかの如く簡単に絞めあげる事が出来るのだろう。血管でも気道でも。少し力を加えたならばたちまち顔を強ばらせ、苦しみにもがき、それでも逃れることは出来ず息の根を止める。そう、ちょうど今ならば、ゆっくりと上に締め付けるようにして力をいれて――――止めた。
 シンは、早希から本を取り上げ顔をこちらに向けさせる。無理に中断させたというのに怒る事も嫌がる事もせず、ただただキョトンと首を傾げた早希を、彼女の肩に顎を乗せるようにして抱き寄せた。
 

 
 「駒鳥を殺すのも、鐘を鳴らすのも、全てを目に焼き付けても、拾い切れない欠片を、まだ探している」

 人は、それを贖罪と呼んだ。
 
 
 
「信じますよ。わたしは」

 これで合ってますか、と言いたげな表情をして早希はシンの隠されていない方の目をじっと見つめる。二つの硝子玉に写りこんだ己の顔は、虚無と暗闇の中にいた。いつからこんな濁った目をするようになったのかと、心の中で嘲笑う。

「信じる、か」
「きっと、何があっても。貴方の事を」

 此方が何も言わないのに、そして何も分かっていないだろうに。無条件の信頼は、時に互いを深く引き裂くのだと知らないのだろうか。

「シンさんが優しいって事くらいちゃんと分かってます。大丈夫」

 大丈夫だと、重ねるように呟いた早希は力を抜くように微笑んでシンの頬に手を寄せる。

「何も言わないのも、優しさだって、知ってます」

 嘘だ。それはただ、己が傷付きたくないという子供じみた我儘で、そこには優しさなんて清らかなものは存在しない。情けない逃げの一手を選択した馬鹿な己を笑ってくれたら、いっその事楽になれただろうに。

「平気ですよ。ね、平気」

 言い聞かせるように後頭部を撫で付ける手つきは柔らかくゆっくりとしていて、温水に溶かされている心地がした。
 今も昔も、変わらない。こうやって勝手に汲み取って言葉を寄越すのは。それが救いになってくれるのならどれだけ良かったか。今は、その澄んだ瞳が酷く重くのしかかる。支えられる程の強さが己には足りないのだと突き付けられている気がした。
 

 愛しい愛しい駒鳥へ。もし翼を無くしてしまっても、どうか世界を嫌わないで。地には花が咲いている。固い土を破り、太陽だけを目指して朝露に濡れた花が。
 その花が自分でないとしてもいいから。彼女が笑っていられるように。