空蝉
※死ネタ、胸糞、モブ女性視点
頭の中で鳴り響く蝉の鳴き声が五月蝿くて堪らなかった。途切れること無く鳴り響く合唱は、遠い海鳴りの様にも思える。それとも、声そのものがまるで大きな生き物になって襲いかかってくる様にも聞こえた。人間なんか一口で飲み込んでしまう、恐ろしい生き物。あんまりにも騒々しいので、耳に棒か何かを突っ込んで脳味噌を掻き回したい気分になった。ここで初めて、花粉症の友人がシーズンになると目玉を取り出して水洗いしたい、と言っていた事に納得がいった。今まで馬鹿にしてきたツケが今更回って来たのかもしれない。ごめんねまーちゃん、今度スシロー奢るから。
儚いものの喩えとして蝉が上げられるとは、よく言ったものである。長い間地面の底で声を潜ませて過ごし、ようやく成虫となって日の目を見るかと思えば与えられた生命はたったの一週間、七日間しかないのだ。その限られた時間の中で、蝉は次の世代に生命を繋ごうと必死で声を上げて番を呼ぶ。ビリビリと皮膚をも揺らすかの様な勢いで紡がれる旋律は、己の全てを賭けた最期の作品。未来の為の、素晴らしい自己犠牲。映画化したらきっと全米が泣いていたし、アカデミー賞だって夢じゃないと思う。
とはいえ、我々人間様は自分に都合が良くなる様に働きかける生き物。たかが虫螻の決死の生殖本能より、この後行くスタバで呪文メニューをつっかえずに言えるよう練習する方が重要なのだ。
――トゥゴートール、ダークモカチップフラペチーノ、ツーパーセントミルク、ラクトアイス、エクストラホイップ、エクストラチョコソース、バレンシアシロップを追加して、それから、ええと……ああ、もう、うるせぇな。
苛立つと頬の内側を噛む癖はもう治らない。幾度と無く繰り返して、その度に痛い思いをするので止めよう止めようと思うのだけれど、結局止めようが達成される事はなかった。きっと、これからも。
止む事を知らぬ蝉の鳴き声を無理矢理頭から引き剥がすように頭を振って、さて、もう一仕事終わらせなければ、と思い直した。ちらり、と足元に転がる女を見る。くったりと力なく横たわる女の腹には包丁が突き刺さっていて、そこから流れる血がコンクリートを濡らしている。投げ出された指先に色は無く、血の気の失せた頬の上で小さな蟻が三匹、列を成しちろちろと歩いていた。
女――風見早希と言うそうだ――の命には前金百五十万、後金三百五十万、合計500万の価値があったらしい。その辺りの相場は知らないので、果たして提示された金額が高いのか安いのかは分からない。しかし、この何の変哲もない人間一人に付属しているにしては贅沢なのでは、と思う。だって、この女一人の命を刈り取るだけで家におっかない男共が来なくなるし、夜道を怯えながら歩く必要もなくなる。借金の完済には届かないけれど、少し余裕が出来るし、ちょっと我慢したら母親を施設に入れる事だって出来る筈。
受け渡される金額に対して存外呆気ない仕事ではあった。風見早希が一人になった瞬間を狙ってグサッと。柔らかく薄い女の身体は刃をするりと受け入れ、目を見開いた彼女が息絶えるまでそう時間はかからなかった。こんな簡単でいいのか、と最初は戸惑ったものの、気にした所で無駄であると悟るのは早かった。まあ、一応人一人の人生を奪っているのだからそれ位貰ったって可笑しくないのかもしれない。
倒れる拍子にサンダルが脱げ、剥き出しとなった足を軽く蹴る。整えられた足の爪には涼しげなブルーが彩られていた。
小さな足。
女の履いていたサンダルは、可愛いと思って店舗に赴いたもののサイズが無くて諦めた品とよく似ていた。足のデカい女に人権はなかったのだ、クソッタレ。
さて、雇用主に仕事の完了をお知らせしなければならない。指示されたのは確実に殺す事のみで、その後の作業はこちらが行うと言われていた。正直な所、助かった。人を殺すのは初めてだった上、隠蔽しろだなんて言われても何をしたら良いか分からなかったからだ。ドラマでは山に埋めているところをよく観るけれど、あんな重労働はしたくない。
画面のバキバキに割れたアイフォンを取り出す。画面を開いて先ず現れたおびただしい量の通知に顔を顰めた。どうせどれもがしょうもないオッサンの自慢話だらけである。仕事だからちゃんと返すけれど、正直なところ相手にしたくはなかった。
まあそれは一旦置いておこう。まずは電話だ電話。 電話帳を開いてスクロールして、目当ての番号を探し出す。
ああそうだ、スタバの後に携帯ショップに行こう。バリフォンは卒業だ。
「こんにちは、少し俺とお話しませんか?」
ナンパとしては、六十点。丁寧な口調は好印象だけれど、イマイチ積極性に欠けている。強引さが足りないのだ。もう少し、勢いと軽さがないといけない。女の子はいつだって言い訳を求めているのだから。きっとこれじゃ、勝率三割といったところだろう。
とはいえ、そんな微妙な声掛けを諸共しない程に男の顔は整っていた。固められていないサラサラの髪に、高級ブランドの匂いがしないシンプルな服装。身長は低いけれど、露出した腕の筋肉が結構ついている事や、肩幅がしっかりしてる事を思えば許せた。身体を鍛えていると身長は伸びないのだ。ちょうど二つ三つ歳下位の、カルピスウォーターやシーブリーズのCMに出てそうな爽やかを具現化したオトコノコ。ぎこちない様も、慣れていない初々しさを表すなら、それはもう、百点満点をあげても良かった。
「ウン、いいよ」
「良かった。じゃあ、これ。カフェオレだよ」
待ってやっぱ五十点減点。ドトールは無い。
しかし了承したのは此方で、そしてこんなに格好良い人と話すのは久々なので内心悪態をつきながらも笑顔で受け取る。
「こんな所で何をしていたの?」
「それはそっちも同じじゃん」
大通りから遠く離れ、人どころか猫も犬もいない此処は、人殺しには最適であった。この場所は指定されて初めて来た所で、周辺の地理には詳しいを自負していた自分も知らなかった。
カップに唇をつけて薄茶色の液体を飲むと、口のミルクの風味が広がる。その奥にひっそりと佇む苦味と酸味は余り好きではなかった。
「俺は、たまたまぶらついてたらあなたを見つけて」
気になっちゃって、と目の前の男は綺麗に笑った。成程、コイツは相当のやり手らしい。慣れていない男は、こんなに笑わない。もっと顔が引き攣っている。サッと笑顔になる辺り、相当な場数を踏んでいるのだと悟った。
「ふーん」
「冷たいなぁ」
「だってアタシあんたの事なにも知らないもん」
「それもそうだね。じゃあ、俺は夜光。夜の光と書いて夜光、ね。これであなたは俺の事を知ったね」
「メチャクチャじゃん」
そう言うと、夜光は肩を竦めて自身の手にしたカップに口付けた。そのちょっとした動きにすら醸し出す雰囲気が熟練の其れで、手首の傾け方から目の伏せ具合、ピアスの光らせ方だってよくよく計算されている。最初に抱いた印象をは百八十度違い、爽やかさの裏に抱いた仄暗さを見た。
夜光はふと、足元に視線を落とす。ちょうど彼の立つすぐ側に、可愛いサンダルが転がっていた。
「この人、サンダルが脱げてるね」
「……そうだね」
「履かせてあげよう。これ、ちょっと持ってて」
夜光はカップと此方に手渡し、しゃがみこんで転がった女のサンダルを手に取る。そっと血の気の失せた踵を持ち上げ腿の上に乗せ、優しくその足を撫でる。本当に、優しく。立っている此方からは、夜光の旋毛しか見えなかった。
「小さな足ね」
「そうだね。うん、こんな小さな足で、今まで耐えてたんだ」
「知り合いなの?」
「そう。大事な人」
爪先からゆっくりとサンダルに差し入れるその様は、御伽噺のワンシーンで見たことがあった。 ストラップをパチンと嵌め、地面に足を置き直し夜光は立ち上がる。
「優しい、優しい人だよ。俺みたいな中途半端な奴にも優しい。絶対に否定しないで、見守っててくれる、そんな人。優しくて、強くて……凄い人だよ」
人も犬も猫もいないけれど、沈黙した建物に覆われたこの場所は勢いよく風が吹き込んでくる。ごう、と音を立てて砂を攫い、巻き上げられた粒がスカートから出た足にぶつかった。
「アタシ、この人を殺したの」
「知ってるよ」
喉が尋常なく渇いて仕方がなかった。舌が上顎に貼りついている。けれど、飲み物を口にする気分ではなかった。
「もっと早く、こうしていれば良かった」
これあげる、と茶封筒が渡された。分厚いそれは、ずっしりと重い。
夜光はカップの中身を飲み干すとその場に放り投げた。乾いた音を立てて蓋が外れて、コロコロと転がって倒れる。
風見早希を抱き上げた夜光は此方を見て笑った。
「ありがとう」
スコン、と手の中からカップがすり抜け、地面にカフェオレが撒き散らされる。大して飲んでいなかったので、地面に広がる液体はみるみるうちに足元に小さな湖を作り、夜光のスニーカーですら汚した。
「……どこに行くの」
「そうだな……ああ、この人の騎士に殺されにいこうと思ってる、かな」
きっと凄く怒ってる、と悪戯がバレた子の様に夜光は顔を顰めた。歳下の男の子らしい動きに、気の抜けた笑いがこぼれた。もしかして、本当の夜光はこうなのかもしれない。自然な表情だった。
「気を付けてね」
「うん。ありがとう」
スニーカーごめんね、と謝ると夜光は気にしてないよ、と笑う。腕の中で息絶える風見早希を優しい目で夜光は見る。軽々と抱き上げているので、やはり結構鍛えているのだろう。意識の無い人間は、有る時と比べて重いと聞いた事があった。
そうして、夜光は此方に背を向けてずっと続く道に向かって進んでいく。
足取りに迷いはなく、ブレがない。堂々とした姿勢で歩かれると、薄暗くて音のないこの道も、花道に見えてきた。目には見えぬ観客達が端によって拍手喝采している。
バイバイ、と手を振った。夜光は振り向かない。けれど、背中から見える風見早希の脚がぷらぷら揺れていて、振り返してくれたかの様に見えた。
蝉の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。