遥かの夜空を、六等星まで
   

逃避行

「いいんですか? ミズキさん」
「あ? 何がだよ」

 だって、と早希は口篭る。訝しげな顔でそれを見たミズキは立ち漕ぎを止め、ブランコに座り直した。年季の入った手摺と金具が擦れてキィと音を立てる。深夜の公園は2人以外に人はなく静まり返っていて、その音はよく響いた。
 4月2日、11時45分。たったそれだけのメッセージだけれど、意図が掬えるようになったのは、それだけ彼の内側に入ることが出来たという事なのだろうか。
 こうやって夜遅くに人のいない公園で過ごすのは、これで何回目だろう。ミズキが店に寄り付かなくなってから暫く経ったある日、たまたまスターレスの帰りに遭遇して連れてこられたのが始まりだ。2列の滑り台の頂上に座って、早希は物言わぬ彼の横顔を眺めていた。次は日蝕公演の千秋楽の後の打ち上げ帰り。地面に埋め込まれたカラフルなタイヤの上にて。ミズキが自販機の缶ジュースを買ってくれたのだが、炭酸が強くて結局早希の分もミズキが飲んだのだった。時には砂場でトンネルを作ったり、ジャングルジムで競争をしたり。子供の頃に戻ったように遊ぶのは面白おかしく、ひっそりと楽しんでいた。
 メッセージを貰ったのは昨日のことで、間違いでなければ指定されたその日はミズキの誕生日だった。しかも二十歳の。そんな大切な日に、自分との時間を作ってくれたのはむず痒い。けれど、なんだか申し訳ない気もしていた。

「別に……昨日ってか今日? 黒曜ん家で肉食ったし、店でBに祝われたし。いーんだよ」
「でも」
「んだよ、やなの?」

 投げ出した脚をぶらぶらと揺らしながら拗ねた顔をしてミズキは唇を尖らせる。慌てて早希が否定するも、ふうん、とそっぽをむいてしまった。早希は俯いて手摺をぎゅっと握り締める。
 春を迎えても夜はまだ肌寒く、冷たい風が沈黙を縫うようにして流れた。暫くしてピタリ、とミズキの動きが止まる。

「……オトナ、だってよ」
「ミズキさん?」
「……変わんねぇんだよな、何も」

 ぼそりと呟いたミズキの言葉を聞き返すために顔を上げると、ミズキと目が合った。いつからこちらを見ていたのかだなんて考える暇もなく、その視線の柔らかさに早希は息を飲み込んだのだ。
 見たことの無い表情だった。月が、ミズキの銀の髪を透かしている。重なり合った髪は柔らかさともって光を放ち、月と同じ色をした瞳は早希を見つめていて、その中に一欠片の寂しさを見つけた。楽しむ時は楽しんで怒る時は怒ってといった、普段見せる感情のままに動く印象が強いせいか、まるで別人のような穏やかさだった。
 衝動的に、早希はミズキの腕を掴んだ。可笑しな話だが、このままミズキの身体透けて消えてしまうと思ったからだ。ミズキは、早希の手を見て、その上からそっと包み込むように手を重ねた。

「二十歳になって、酒飲んで煙草吸って、やっと大人になって世界が変わった気がしたけど、やっぱなんも変わんねぇんだな」
「わたしはミズキさんより歳上ですが、自分が大人だなんて思ったことはないですよ」
「嘘つけ。いっつもオレのことガキ扱いするくせに」
「それは……それとこれじゃ話は別でしょう」

 それもそうか、とミズキは肩を竦めた。

「生まれてきてくれてありがとう」
「え?」
「客に言われた。そんなこと、初めてだ。生まれたこと感謝されるのってよ」

 早希はハッとして、ミズキの家庭事情を思い出す。幼少期を児童養護施設で過ごしていたのだ。あっけらかんとしたミズキの言葉はナイフのように深く早希を突き刺した。不思議そうな顔をしてミズキは続ける。

「フツー親の言葉じゃねえの? それって」
「わ、わたし」

 思っていたよりも吐き出した声が震えていて、早希は自分でも驚いた。ミズキもぎょっとして早希を見る。銀の鏡に写る自分は今にも泣きそうな顔をしていた。絞り出すかのように早希は続きの言葉を紡いだ。

「わたしは……わたしも、ミズキさんに会えて良かったって。ミズキさんが生まれてきてくれて良かったって、思ってますよ、ありがとうって。生まれてきてくれて、ありがとうって」
「サキ……」

 早希は瞼を閉じた。このままでは雨が振りそうだったから。彼の前で、弱いところは見せてはいけない。
 分かってはいたのだ、ミズキが早希を呼び出す理由を。ミズキには、大人という存在が足りない。何かミズキだけでは抱えきれない事があったときに、そっと手を貸してやれる大人が。ミズキの性格上、黒曜のように気質の知れた仲や同じチームのメンバーに頼ることはない。だから、あくまで線引きされた早希が、手は貸さずとも受け入れる役としてここにいる。ミズキにとって、早希は大人だから。大人は、泣いてはいけない。

「分かんねえや、お前の言うこと」

 ポツン、と落とされた言葉に早希はそっと頷いた。

「もっと大人になったら、お前の言ってる事が分かるかな」
「……そうかもしれませんね」

 じゃあ、とミズキはブランコから立ち上がって早希の正面に立つ。

「それが分かる大人になったら、サキに言ってやるよ。生まれてきてくれて、アリガトーってな」

 鼻の頭に皺を寄せた笑い方は、まだ少年だった。早希は笑って頷く。それを見たミズキは、早希の手を取った。

「なんか腹減ったからラーメン食い行こうぜ!」
「いいですよ、お誕生日ですからね」
「おっしゃオレ豚骨大盛り!ギョーザも!」
「そんなに食べたらお腹壊しますよ」
「へーきへーき」

 ミズキが前を向いていて良かった、情けない顔を見られずに済むから。早希の手首を掴む手は温かく、血が通っているのだと思った。鼻の奥が痛むのは、余りにも空気が澄んでいるからだろう。ラーメンは熱いから、ちょうどいい。
 手を引かれて歩く早希は、彼が振り向くことはありませんように、と願った。今この瞬間も、これから先も。