似た者同士
半開きになった唇の間から、ほんの少し覗く赤が目についた。陶器のように滑らかで生気の感じない顏から、唯一生を司る赤。
もしもこの赤に噛み付いたら一体どんな味がするだろうか。
ふと湧き上がった己の卑しい思惑に、早希はハッとして視線を逸らす。当の本人は固く目を瞑っていて、喧騒ひとつない静かな空間である。眠っているヒースと早希しかおらず、誰にも見られていないのに、何者かに咎められた心地がして仕方がなかった。自分でも予期しなかった心臓の高鳴りを誤魔化そうと、ヒースのふわふわとした髪を弄ぶ。閉じられた瞼は、開く気配がなかった。
朝から体調の良くなかったヒースであったが、それもいつもの事だと普段と変わりなく開店準備にあたっていた。しかし、余程酷い顔色をしていたのだろう、しばらく休憩していろと命じられたそうだ。確かに、その後天井が剥き出しの冷たい通路で彼と遭遇した早希も、血の気の無さに驚きの声をあげたのだった。しかし、心配する早希を他所にヒースは無言で早希の手首を掴んで連行し、そして早希をソファに座らせた。訳の分からない早希を放って、そのまま腿の上に頭を乗せてごろんと寝転び、貸して、とだけ言葉にしてヒースが眠りについてから半刻ほど。穏やかな寝息を立てるヒースは未だ夢の世界にいる。 猫っ毛を片手で梳きながら、早希は取り留めもなく思いを巡らす。
時折、彼がいつか消えてしまうのではという恐怖に襲われるのだ。尖った肩先や線の細い背中と対称的に、彼の言葉は、目付きは鋭く、そして力強い。ステージの上で汗を垂らし、己の全てを言葉に乗せ、泥の中を這うような美しくはないが気高い命を感じさせる一方、その影に今にも消えそうな蝋燭の焔を見ている。突然、ふと燃え尽きて跡形もなくなくなってしまいそうな。
普段の穏やかで静かな彼を見ていることが多いせいもある。彼が、途方のない遠くにいる気がしてならないのだ。
深く根付いた隈は、指でなぞって拭っても消えやしない。 ふるり、と密度の高い短めの睫毛が震えた。ゆっくりと、赤と青を混ぜた色が姿を現す。
「……さき」
寝起き特有の、少し掠れた声に仄めく色を覚え、きゅ、と下唇を噛んだ。ヒースは気だるげに片腕を伸ばし、早希の頬をゆっくりと撫でる。酷く冷たいその手が今は有難かった。
「なんだか、色がよくない」
「……たいちょうは、」
ふに、と言葉を遮るようにして、ヒースの親指が早希の唇に触れる。
「どうかした?」
どうかしてしまって休息に入ったのは彼なのに、撫でるように早希の唇に触れたままヒースは下から早希の顔をじっと見つめる。 何も言える筈がなかった。貴方が消えてしまう事を考えてただなんて。口に出したら叶ってしまいそうだったから。それを、彼が否定しないのも分かっていたから。 固く結ばれた早希の唇をほぐそうと試みてたヒースは、余りの早希の頑なさに苦笑を浮かべる。
「当ててあげようか」
「色を見るのは、ずるいんじゃないですか」
いつだって暴かれるのは自分だけだ。菫色の瞳は何もかもを浮かび上がらせる占い師の水晶玉のように、他者の心に機敏に反応する。勝手に覗いて、こじ開けて、問いただして。ひた隠しにしていた全てを掬ってわざわざ丁寧に広げてくれる彼は狡い。自分のことは全部隠すくせに。
「それでアンタの事が全部分かるなら、狡くてもいいよ」
「わたしが嫌がっても?」
「嫌がってないよ、サキは」
「そうじゃなくて」
「いいよ、別に。オレはサキの全部が知りたい」
寝転がっていた体勢から不意にヒースが起き上がる。勢いよく頭を上げたので目が回ったのだろう、一瞬顔を顰めるも、早希と目線を合わせるように向かい合った。 花弁を煮詰めて流し込んだような色をした目は俯く早希をじっと見つめる。こういう時に、容易く逃してくれるような優しい男ではないのだ、彼は。執念深く、執拗で、意地が悪い。けれどそういった一面に惹かれているのも悔しいことに事実。先にヒースが言ったように、暴かれることに悪い気はしていない。恥ずかしさが募るが、早希を暴いた後の満足気な顔に一等の胸の高鳴りを覚え麻薬のように脳を蝕む。この男に、全てを把握されているのが心地よい。清らかではないその感情は、どうにも早希の判断を鈍らせ、また彼の内側に沈めていく。
「サキ」
名を呼ばれたらそちらを向くのはもう条件反射だった。まるで飼い犬のようだと心のどこかで自分を嘲笑う。 そんな早希を宥めるかのように、不意に唇に彼の薄いそれが重なる。ただ押し付けるだけのキスは少しずつ動きを見せ、何度か角度を変えてまるで食べられているかのような心地になる。目を閉じないヒースの瞳に、間抜けな顔をした自分が写った。 馬鹿な自分だ、と思う。たったこれだけの事で先程の絡まった思考が溶けてしまうのだから。無くなることはない。形を失った、ただそれだけである。それでも彼に関する全てを取りこぼしたいとは思わなかった。
最後に早希の下唇を軽く噛み、ヒースの顔が離れる。その様子をぼんやりと眺めていた早希にヒースはまたも笑った。
「アンタの、案外欲張りなところ嫌いじゃないよ」
「ヒースさんだけですよ、こんなの」
「うん知ってる」
それが一番望んでることだ、と再び唇同士がくっついた。 貪欲な二人の、慰め合いのような触れ合いである。決して綺麗でも尊くもなく、くすんで濁っている。でも、心が満たされるのなら、それでいい。