遥かの夜空を、六等星まで
   

再会の夢を見る

 耳の奥で、祭り囃子の音が聞こえる。祭りなんて行った事ないのに、何故かよく馴染んだものに思えた。トコトコとした太鼓の音、空気の抜けたような笛の音。ひっきりなしに人が話す声に紛れて風鈴の軽やかな音色が隙間を縫うようにして耳に触れる。
 焦げたソースの匂い。右を向けば焼きそば屋の屋台があって、左を向けば林檎飴の屋台がある。タオルを頭に巻いたおじさんが、小さな女の子に大ぶりの林檎飴を手渡す。照明の明かりを受けた透明の砂糖が、硝子のように艶々と光を反射した。笑顔で受け取った女の子は、母親らしき人に手を引かれて行く。水風船柄の浴衣と、小さな下駄。
 ぎゅ、とズボンの裾を掴んだ。いつも履いているカーゴパンツは一つ歳上のコウ君のお下がり。お気に入りのTシャツは何度も着て洗濯を繰り返したせいで首のところがよれてしまっている。伸びきった足の爪。踵のはみ出た古いサンダルに小石が入り込んで、歩く度に足の裏が痛んだ。  
 そこでふと、ヒースはいつもより随分と視界が低くなっていることに気付く。今着ているこの服だって、ずっと昔に着ていたひどく懐かしいものである。いつの間に夜になって、そして外に居るのだろう。はて、先ほどまで自分は何をしていたのだろうか――――
 ドン、と背中を押されてヒースは前に倒れ込んだ。ゴツゴツとした地面に膝と掌をつく。視界がぐっと低くなって、歩く人々の足元しか見えなくなった。すれ違いざまに舌を打つ音が聞こえる。確実に膝を擦りむいているのが分かる。血が出ているかもしれない。早く傷を確認する為に立ち上がろうとするが、行き交う人並みに上手く乗れずに犬のように四つん這いになった体勢から動くことが出来なかった。自分と同じ歳頃の男の子が持つビニール袋の中に入った金魚と目が合う。泥を煮詰めたかのように真っ暗な瞳の中に光はなく、まるで自分を鏡移しに見ているかのようだった。
 あの金魚は、これから何処に向かうのだろうか。小さなバケツの中にでも入れられて、カルキ抜きもエアーレーションもない水道水の中で、自分が出した粘液がエラを塞ぐのを待つのだろうか。それは、人間で言うと自分で自分の首を締めているのと同義な訳で、そう思ったら何もしていないのに急に息苦しさを覚えた。  
 息が出来ない。
 吸うって、なんだっけ。吐くって、どうやるんだっけ。
 耳の中に水が入った時のように周りの音がぼんやりと輪郭を無くしていく。頭に血が上って視界が歪むのとは逆に、手は氷水に浸したかのように酷く冷たい。汗が額から地面に落ちた。苦しい、苦しい、苦しい——――
 
 

 
 は、とヒースは目を覚ました。目は大きく見開かれ、身体は固く強ばっている。恐る恐る手を握って血が通っている事を確かめると、ようやく息が楽になった。大きく吸って、吐く。暫く繰り返していると段々落ち着いてきてふぅ、と一息ついた。  
 やけにリアルな夢だった。ああいうのを、白昼夢と言うのだろうか。膝と掌を地面についた感覚はまだ残っている。あの金魚の目付きも。何となく気持ち悪さを感じて背を浮かせると、びっしょりと汗をかいているのに気付いて顔を顰めた。  
 着替えようと立ち上がろうとしたその時、不意に、手に冷たい何かが触れた。右を向くと早希がこちらに首を傾けて眠っている。何かの正体は早希の手だった。周りを見回して納得する。付けっぱなしのテレビと床に落ちた小説が二冊。大方、2人でソファで座って読書をしている内に寝落ちたのだろう。何時から眠っていたのかは知らないが、カーテンの隙間から夕焼けの帯が差し込んでいた。  
 小説を拾い上げてローテーブルの上に乗せる。テレビは消した。 眠る早希の、まろい頬を指で擽ると肩を竦めて笑った。意識は無いくせに、反応はしっかりしているのが面白い。滑らせるように手を動かして、額、瞼、鼻、と順に触れていく。何処も彼処も柔らかくひんやりしていた。唇に人差し指を置いてふにふにと軽く押す。そうすると、固く閉じていた瞼が震えてシャッターの向こうの瞳が姿を現した。

「……ヒースさん?」
「おはよ」

 まだ微睡みの中にいる早希は、ヒースの手を振り払うことなくゆっくりと瞬きを繰り返す。

「先に寝たのどっち?」
「……ん?」
「……まだ眠そうだね」

 早希の顔を覗き込むようにして聞くと首を振って身体を起こした。顔はまだ眠そうである。  
 先程触れた、早希の左手に自分の右手を絡ませる。指の間に入れるようにして握り込むと、小さく握り返してきた。

「サキ」
「なんですか?」
「夏が来たら、祭りに行こうよ。行ったことないんだ」

 突然の誘いに、早希はまだ半分眠っていた目を瞬かせ、合点のいかない表情を浮かべる。そんな彼女にもう一度誘いを述べると、少し目を見開いて、そして微笑んだ。

「お祭り、楽しいですよ。綿あめに、カルメ焼きとか。イカ焼きも好きだなぁ」

 せっかくだから浴衣を着ていきましょうか、射的もできるのだ、と眠気の吹き飛んだ様子で早希は語る。

「ヒースさん、射的得意そう」
「なんで?」
「だって、ほら、この間スナイパーの格好してたじゃないですか」
「格好だけだよ。……ああでも、ミズキと藍とゲーセンでそういうゲームならやったことある。周りがうるさくて一回しかやらなかったけど」
「銃構えてるヒースさん、格好いいと思いますよ」
「じゃあ早希と勝負ね、どっちの方が当たるか」

 ええ、と早希は途端に渋い顔を浮かべる。実は私もやったことないんですよね、と深刻そうに告白したかと思えば、お手柔らかにお願いしますと真面目な顔をして頭を下げた。
 くるくる変わる表情と相変わらずの態度に、胸の内を擽られてヒースが思わず笑みを零す。すると早希は何を勘違いしたのか、不安げな表情を浮かべて見上げてきた。

「……こどもっぽいですかね」

 久しぶりだからはしゃいでしまったのだ、とおずおずと顔を伺ってくる彼女に、何を答えようかと脳を回しながらヒースは彼女の頬に手を添える。

「林檎飴」

 不意に口から零れたのは早希の問いに答えるものではなくて、予想外な自身の言葉にヒースも驚いてしまった。
 ふと、あの女の子の手に握られた飴が頭を過ぎる。

「林檎飴が食べたい」

 珍しく強く口にされた言葉に、早希は目をパチクリとさせて、そうしてくしゃりと笑った。

「食べましょうね、一緒に」
「うん、行こう」

 早希が嬉しそうに肩を震わせる。ヒースはソファに押さえ付けられて乱れた後頭部の髪を撫でてやった。

「行こうね、二人で」

 再びソファに身体を沈めて目を閉じる。握られた手はそのままに、早希の頭が肩に乗せられた。頭同士をくっつけるようにしてヒースも首を傾ける。早希が小さく笑う気配がして、ヒースも微笑んだ。

「楽しみですね」
「うん」

 瞼の向こうには、屋台が広がっている。小さな手に、大きな林檎飴が握られていた。初めて間近で見る物に、零れそうな程大きく目を開いてキラキラとした眼差しを向けている。
 もう大丈夫か、とヒースは問うた。平気だよ、と下手くそに笑うので、ヒースも笑った。