夏のロマンチスト
あ、と呆けた声を上げた頃にはもう遅かった。力を込めて押し込んだ硝子玉の隙間から、白い泡が吹き出てヒースの指を濡らす。勢いのあるそれは瓶に沿って流れ出し、パタパタと地面に落ちた。点々と、黒い染みが出来上がる。
「大丈夫ですか?」
慌てた早希がバッグからハンカチを取り出してヒースの手を拭う。青い布地はソーダを吸って濃さを増した。物も言わずされるがままのヒースは、己の物とは違って細っこく柔らかな手先の行方をぼんやりと見つめている。
その様子に、眉を顰めて早希が問うた。
「疲れちゃいました?」
「え、まあ。……うん。慣れない事はしない方がいいね」
中身の減った瓶を傾け、ヒースは自嘲気味に笑う。炭酸の弾ける刺激が、喉に突き刺さる様に感じた。
少し前に交わした約束を叶えようと、夏祭りに出向いたは良いが、思った以上に人が多く、ヒースは屋台を練り歩いて瞬く間に体調を崩してしまった。人に酔ったのだ。余りにも情報量が多い。勿論、事前にその事を考慮して大きな都市の祭りではなく、郊外の小さな祭りに参加したのだが、集まる人の数は休日の都内と同じ位であった。常に誰かの肩や頭と触れる程近くですれ違い、ひっきりなしに客を呼ぶ声と何処かで聞こえる子供の泣き声。一つの屋台で何かを買うのも苦労し、暑さも相まって息苦しさを覚えた。
早希はヒースの容態を敏感に察知し、少し人波からはぐれた場所まで連れて来てくれた。自身の分のラムネ瓶を火照ったヒースの頬に当て、扇子でパタパタと仰いでくれる早希の白いワンピースの裾を見つめながら随分と甲斐甲斐しく世話をするのだな、と思った。
その視線に何を思ったのか、早希はヒースの顔を覗き込んで笑う。
「気にしないでください。大丈夫ですから」
と、健気さを見せてくれた彼女に、ヒースはそっと心の奥でほくそ笑んだ。
どちらかと言えば姉気質で世話焼きな早希に、ヒースはどっぷりと甘えている自覚がある。歳下というアドバンテージと虚弱体質という免罪符を振りかざせば早希は簡単に此方を振り向き、手を差し伸べてくれた。隣に寄り添って確かな温度を与えてくれる早希の全てを、自分だけのものにしてしまおうと彼女の手を掴んで離さぬように仕向けたヒースは、己の狡猾さをよく知っている。逃がす気は毛頭なく、このまま堕ちてくれたらいい、と思った。
偶に、早希がどこまで許されるのかを試したくなる時がある。弱い顔をして、下から見上げて、柔らかな身体に寄りかかって。長い睫毛に縁取られた透き通るブラウンが、とろりと甘さを孕むその瞬間を見る度にヒースはどうしようもない気持ちに襲われた。甘やかされ、包まれているという安心。上手く罠に陥れたという狩人の心地。許容範囲を確かめたい好奇心と、もし失敗したらと怯える心は、死体探しをする子供の様な、悪い事をする時の底冷えする快感を思わせた。
顔の火照りも収まったので、頬に当てられていた瓶を早希に返し、するりと細い手首を掴む。そのまま顔を寄せ唇を掠めるように攫うと、驚愕に目が大きく見開かれた。突然の事態に逃れようと藻掻く身体を押さえ付け、唇だけでなく額や頬、鼻に耳にと唇を落とす。
「ひ、ヒースさ、ここ外……!」
「誰も見てないよ」
パクパクと、言葉が出ずに口を開閉させる早希に、金魚みたいだ、とヒースは意地の悪い顔で笑う。すると力の入っていない拳が腹を殴り、今度は肩を震わせて笑った。
「わざわざ掬いに行かなくてもいいね」
「もう!」
膨れっ面をしているが、耳の端が赤く染まっている事に気付かぬヒースではなかった。ほら、またこうやって許してしまう。怒っているけれど、怒っていない。そういうところが、また、良い気にさせてしまうのだ。危ういな、と思う。教えてはやらないけれど。
ようやく笑いの収まったヒースのシャツの裾を、早希が小さく引いた。
「もう、平気ですか?」
「うん。でも、やっぱり帰ろうか」
「じゃあ林檎飴だけでも買って帰りましょう」
ついでにコンビニで花火を買って帰ってからやろうか、と誘うと早希はパッと顔を輝かせる。嬉しそうにコクコクと頷く額に再び唇を落としてヒースは小さな手を取った。
人の波に流されぬよう、足並みを揃えて真っ直ぐ歩く。遠くで、誰かの歌声が聞こえた。そういえばこの祭りでは地域特有のカラオケ大会なるものがあった事を思い出した。やけにエコーのかかった言葉達が道中に響く。失恋の歌だった。好いていた相手が気付いた時には誰かのものになっていた歌。
緩く繋いでいた手を、指を絡ませるように握り直して、手のひらと手のひらを密着させる。早希はそっと手に力を込めた。
声の発せられる方を、肩口からそっと振り返ったヒースは小さく微笑む。 歌い手は、全く関係の無い、顔も知らぬ女性であるが、彼女に向かってヒースは小さく口を動かした。 ざまあみろ。 楽しそうですね、とそれを見た早希が首を傾げる。ヒースは誤魔化す様に強く手を握った。