嘘だらけの肉体
ロッカールームの鏡の前に立ち、髪から足元まで確認する。丁寧に整えた髪。目元が華やかに見える化粧。皺を伸ばした制服。首元には、規則どおりの角度でスカーフを巻いている。口角を持ち上げてみる。鏡の中の女は、感じよく微笑んだ。わたし自身というより、協会から求められている受付嬢に見えた。ロッカールームを出て、受付へ向かう途中、背後から声をかけられた。
「おはようございます」
「おはようございます。パリストンさま」
慌てて頭を下げる。ハンター協会副会長、パリストン=ヒルさま。鮮やかな色のスーツに、眩しいほどの笑顔。今日も一分の隙もなく整っている。誰にでも同じように笑う方なのに、その顔を見るたび胸が苦しくなる。
「今日も早いですね、ナマエさん」
「いえ。わたしは、その……ほかに取り柄もありませんから」
余計なことを言ってしまった。だけど、パリストンさまは笑わなかった。
「そんなことありませんよ。アナタは、人が望んでいることに気付くのがとても上手です」
仕事ができると言われるより、ずっと嬉しかった。誰かに望まれる形になることだけは、昔から得意だったから。
***
来客への対応、会議室の確認、メールの処理、書類の整理。忙しく動いているうちに、退勤時刻を過ぎていた。最後のメールを送信してパソコンの電源を落としたとき、デスクの上に影が落ちる。顔を上げると、パリストンさまが立っていた。
「お疲れさまです、ナマエさん」
「お疲れさまです」
「急なお願いで申し訳ないのですが、来週、自宅で小さな打ち合わせを予定しているんです」
「ご自宅で、ですか」
「ええ。当日の来客対応をお願いしたいのですが、お時間をいただけませんか?」
パリストンさまの家。その言葉だけで、鼓動が速くなった。しかも、わたしを選んでくれた。そう思った直後、すぐに打ち消す。特別な意味を求めてはいけない。
「わたしでお役に立てるなら……」
「ありがとうございます」
パリストンさまは微笑んだ。
「やはり、アナタならそう言ってくださると思っていました」
最初から、わたしが断らないと知っていたような言い方だった。それでも、嬉しかった。
***
指定された住所は、協会から少し離れた閑静な住宅街にあった。高い塀に囲まれた屋敷。門柱には、控えめな表札が掛けられている。コンパクトミラーで前髪を確認する。今日は仕事。ただそれだけだ。何度言い聞かせても、鏡に映る頬は赤かった。深呼吸をして、インターホンを押す。ほどなくして、玄関の扉が開いた。
「おはようございます、ナマエさん」
「おはようございます。本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。遠いところ、ありがとうございます」
家の中は、誰かが丁寧に暮らしているように整えられていた。磨かれた床。季節の花。埃ひとつない家具。それなのに、人が暮らしている気配がしなかった。
「あ……」
廊下の壁に、大きな肖像画が掛けられていた。長い髪の女性が、淡い色のドレスを着て微笑んでいる。描かれた顔は美しかったけど、何より印象に残ったのは、その笑い方だった。パリストンさまによく似ている。口元は穏やかなのに、目の奥に何を考えているのか分からない空白がある。
「きれいな方ですね」
「妻のリリーです」
いつの間にか、パリストンさまが隣に立っていた。
「数年前に亡くなりました」
「……病気で?」
「交通事故です」
声はいつもと変わらない。だけど、肖像画を見上げる横顔だけが、ひどく寂しそうに見えた。
「寂しいですか」
気が付けば、そう尋ねていた。
「どうでしょう」
「分からないんですか」
「ボクは、自分の気持ちにあまり詳しくないんです。……ただ、彼女が戻ってきたら、きっと嬉しいでしょうね」
その横顔を見ていると、思わず口にしてしまった。
「……わたしが」
パリストンさまがこちらを見る。言ってはいけないと分かっていた。それでも、その目に続きを待たれている気がした。
「……わたしが、奥さまの代わりになれませんか」
沈黙が落ちた。自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。どうしてこんなことを口にしてしまったのだろう。
「……すみません。今のは忘れてください」
「どうしてです?」
「亡くなった方の代わりになるなんて、できるはずがありません」
「そうでしょうか」
パリストンさまは、わずかに首を傾げた。
「人は、他人の代わりにはなれないと、本当に思いますか?」
答えられなかった。わたしは昔から、相手によって話し方を変えた。母の前では手のかからない娘になり、教師の前では真面目な生徒になり、職場では感じのよい受付嬢になった。誰かの望む自分になることと、誰かの代わりになることに、どれほどの違いがあるのだろう。
「面白い提案ですね。ナマエさん」
パリストンさまは笑った。いつものような眩しい笑顔だったのに、背筋が冷えた。
***
打ち合わせが終わり、最後のお客さまを見送った頃には、外はすっかり暗くなっていた。カップを洗い、テーブルを拭き、椅子を元の位置へ戻す。無事に仕事を終えられたことに、息を吐く。
「お疲れさまでした」
背後から声をかけられ、思わず肩が強張る。
「やはり、ナマエさんにお願いして正解でした」
振り返ると、パリストンさまはいつものように微笑んでいた。
「あの、すみませんでした……」
「どうして謝るんですか?」
「だって、奥さまの代わりになるなんて……失礼なことを」
「確かに、変わった提案ではありますね」
声には少しも怒りを感じられなかった。
「でも、興味はあります」
「興味……?」
「ええ。アナタがどこまでできるのか」
何を求められているのだろう。どこまで、とは。
「取り消してしまいますか?」
取り消すべきだ。亡くなった人の代わりになるなんて、できるはずがない。それでも、肖像画を見つめていたパリストンさまの寂しそうな微笑みが、忘れられなかった。
「……取り消しません」
「本当に?」
「わたしにできることなら、なんでもします」
パリストンさまは少しだけ黙った。その沈黙の間に、自分が口にした言葉の重さがのしかかってくる。
「いい返事ですね。では、まず妻のことを知ってもらいましょうか」
***
案内されたのは、二階の奥にある小さな部屋だった。白いカーテン。淡い色の壁紙。机の上には、何冊ものノートが積まれている。
「妻の部屋です」
そう言われると、足を踏み入れるのをためらった。亡くなった人の時間が、そのまま残されているようだった。パリストンさまは机から一冊のノートを取り、わたしへ差し出した。角が擦れ、何度も開かれた跡がある。
「妻は忘れっぽい人でしてね。料理の味付けや、買うものをよく書き留めていたんです」
中には丸みのある文字が並んでいた。紅茶は三分。白い花は水曜日に替える。煮込み料理は少しだけ甘くする。疲れている日は、甘いものを出す。
「これを覚えればいいんですか」
「無理にとは言いませんよ」
「覚えます」
すぐに答えると、パリストンさまはすっと目を細めた。
「では、そのノートは差し上げます」
「大切なものではないんですか」
「ええ。だからこそ、アナタには必要でしょう?」
ノートを胸に抱いた。腕の中にあるのは、一人の女性の生活だった。同時に、一人分の空席でもあった。
***
それから毎週、屋敷へ通った。ノートに書かれたとおりに紅茶を淹れ、花を飾り、料理を作った。パリストンさまは、細かなことまでよく気付いた。
「今日の花は、妻が選んでいたものと同じですね」
「はい。ノートに書いてあったので」
「本当によく覚えていますね」
褒められるたび、次も間違えずにできる気がした。少しでもリリーさんに近付きたかった。
カップを持ち、紅茶を口にしたパリストンさまが、穏やかに顔をほころばせた。
「妻が淹れてくれたものによく似ています」
「本当ですか?」
「ええ。そっくりです」
その言葉が嬉しくて、その夜は眠れなかった。わたし自身を褒められたわけではない。それでも、求められている姿を演じることが、初めて価値のあることに思えた。
通う回数が増えるにつれ、食器の位置も、洗濯物の畳み方も覚えた。帰宅する少し前には玄関の照明をつけ、夕食を温め直す。
「おかえりなさい」
ある夜、そう言って出迎えると、パリストンさまは室内を見回した。それから、わたしを見る。
「まるで妻が戻ってきたみたいです」
今までに見たことがないほど、柔らかな笑顔だった。
「ただいま」
わたしが見たかったのは、この顔だ。協会で誰にでも向ける、隙のない笑顔ではない。この顔を見られるなら、何にだってなれると思った。だけど、夜になるとパリストンさまは自室へ戻った。食卓では微笑んでくれる。わたしの料理を食べ、わたしの淹れた紅茶を飲む。それでも、寝室の扉がわたしのために開くことはない。それ以上を望んではいけない。わたしはリリーさんの生活を借りているだけだ。顔も、声も、体も違う。完全な代わりではない。
***
夜中、喉の渇きで目を覚ました。廊下へ出ると、一階から微かな声が聞こえた。階段の途中で足を止める。一階では、パリストンさまが肖像画を見つめていた。
「……リリー、リリー」
聞いたことのないほど優しい声で、名前を呼びながら、自慰行為をしていた。快楽に耐えられないというように腰を落として、手を上下に動かして、息を殺して。音を立てないように自室へ戻る。扉を閉めた途端、膝から力が抜けた。わたしでは足りない。生活を真似ても。料理を覚えても。毎日花を飾っても。彼が求めているのは、わたしではない。リリーさんの顔。リリーさんの体。リリーさん、そのもの。鏡の前へ座る。映っている自分の顔を見つめた。
「リリーさんになれたら……」
顔も、髪も、体も。何もかも同じになれたら。パリストンさまから渡されていたカードを思い出す。
『必要なものがあれば、自由に使ってください』
最初は花や食材を買うために使った。次に、リリーさんが着ていたものと似た服を買った。利用明細を見れば、何を買ったのか分かっているはずだった。それでも、一度も尋ねられなかった。ならば、必要なものを買うだけだ。リリーさんとして生きるための、肉体を。
***
医師は写真とわたしの顔を見比べ、完全に同じにはならないと繰り返した。
「かなり近づけることはできます」
術後、腫れた目元を鏡に映す。痛みよりも、元の顔から遠ざかったことへの安堵が大きかった。次は鼻。その次は輪郭。顔だけでは足りなくて、写真に写る肩や腰の線にまで、近付けていった。何度目かの診察で、医師は手術の予定表を見ながら言った。
「これ以上変えれば、元の面影はほとんどなくなります。後悔する可能性もありますよ」
元の顔を失うことを想像する。もう自分の顔を思い出せないことに気付く。
「お願いします」
すでにハンター協会には辞表を提出して、パリストンさまには『しばらく時間をください』とだけ書き残した。返事は来なかった。それでもカードは一度も止められなかった。彼は待ってくれているのだと、期待した。
***
一年後、屋敷の玄関に立った。何度も鏡で確認した顔は、リリーさんとそっくりだった。深呼吸をして、インターホンを押す。しばらくして扉が開く。パリストンさまは、わたしの顔を見た。驚くと思っていた。名前を呼び、抱き締めてくれると思っていた。だけど、パリストンさまはしばらく黙ってから、いつものように微笑んだ。
「ずいぶん時間がかかりましたね」
「……驚かないんですか」
「どうしてです?」
「だって、わたしの顔が」
「アナタなら、ここまでしてくださると思っていました」
指先が、わたしの頬へ触れる。
「よく似ていますね」
皮膚の下にある、削られ、縫われ、作り替えられた輪郭を確かめるようだった。
「ボクのリリー」
ずっと欲しかった言葉だった。それだけで、一年間のすべてが報われた気がした。
***
ベッドに押し倒され、何度もパリストンさまに求められた。リリーと呼ばれるたび、作り替えた体の奥まで、その名前が染み込んでいくようだった。何度も名前を呼ばれるうちに、わたしまで本当にリリーさんになったような気がした。
「あなた……」
自然と唇からこぼれた。パリストンさまは一瞬だけ動きを止め、それから、今まで見たことがないほど穏やかに微笑んだ。髪を撫でられる。その瞳はわたしの奥にいる誰かを見つめていた。それでもかまわなかった。今だけは、この人の中でリリーさんとわたしの境目がなくなっている。そう思えば、どこまでも満たされていくようだった。
「ボクのリリー」
わたしの名前ではなかった。それなのに、嬉しくて涙が出た。パリストンさまはその涙を指で拭い、愛おしいものを見つめるように、目尻が下がった。
「泣き方まで、よく似ています」
胸の奥に、小さな痛みが走った。泣いているのはわたしなのに。だけど、リリーさんと同じ笑い方をした。その夜、パリストンさまは一度もわたしの名前を呼ばなかった。だけど幸せだった。少なくとも、そう信じることにした。
***
それからまた、屋敷で暮らし始めた。日が出ている間、わたしは食事を作り、掃除をして、帰りを待った。朝、パリストンさまは玄関で靴を履く。
「いってきます、ナマエさん」
「いってらっしゃい」
扉が閉まる。久しぶりに呼ばれた自分の名前が、ひどく遠く聞こえた。
「ただいま、リリー」
「おかえりなさい」
夜になると、違う名前で呼ばれた。パリストンさまの指先が、わたしの輪郭をなぞる。リリーと呼ぶ声は、とても柔らかい。その声が聞けるなら、どちらの名前で呼ばれてもかまわない。そう思っていた。
***
ある朝、トーストへ苺のジャムを塗った。苺のジャムが好きで、昔からたっぷり塗っていた。ダイニングへ入ってきたパリストンさまが、わたしの皿を見る。
「珍しいですね」
「何がですか?」
「リリーは、苺が苦手だったんです」
ナイフを持つ手が止まった。
「……そうだったんですね」
「ええ。匂いを嗅ぐだけでも嫌がっていました」
声に責める響きはない。それでも、皿の上の赤い色が急に醜く見えた。
「すみません……」
「どうして謝るんです?アナタはリリーではないんですから」
喉の奥が軋んだ。昨夜は、あんなにも優しくリリーと呼んでくれたのに。
「あの……これは、もういりません」
ジャムを塗ったパンを皿の端へ寄せる。
「食べないんですか?」
「はい。わたしも、苺は好きではありませんから」
口にすると、不思議なくらい自然だった。パリストンさまは何も言わなかった。ただ、わたしの顔をしばらく見ていた。
それから、苺を買うことはなくなった。リリーさんが嫌っていたものは避け、何かを選ぶ前はノートを開くようになった。そこに答えがないと、不安になった。
***
眠る前、寝室の鏡の前に座った。肖像画と同じ顔が映っている。口角を持ち上げる。だけど、うまく笑えなかった。
「どうしたんです?」
鏡越しにパリストンさまと目が合い、肩へ手を置かれる。
「なんでもありません」
「そうは見えませんよ。何か不満ですか?」
「不満なんてありません。わたしは幸せです」
「そうですか」
立ち上がろうとしても、肩に置かれた手は離れなかった。
「逃げるんですか?」
「逃げるって……どこにですか」
「ここにいてください」
力を入れられたわけではないのに、それでも動けなかった。
「妻の代わりになって、ボクを幸せにしてくださるんでしょう?」
「……はい」
「では、どうしてそんな顔をするんですか?」
鏡に映る女は、今にも泣き出しそうだった。リリーさんは、こんな顔をしない。少なくとも、肖像画の中では。
「ただ笑ってください」
指で頬を持ち上げられ、鏡の中の顔が肖像画の微笑みに近づいた。
「こうでしょう?」
その声を聞いた瞬間、言葉がこぼれた。
「どうか、ナマエと呼んでください」
頬に触れていた指が離れる。途端にわたしは泣きそうな顔になってしまった。
「どうしてですか?」
「わたしの名前を呼んでください」
しばらく沈黙が続いた。やがて、困った子どもを見るように笑った。
「今さら、何を言っているんです?」
「わたしは、リリーさんではありません」
「……その顔で?」
パリストンさまは笑ったままだった。だけど、その顔が初めて恐ろしく見えた。
「アナタが自分で望んだのでしょう?」
確かにノートを受け取ったのも、屋敷へ通ったのも、顔を変えたのも、すべてわたしだった。だけど、それは。
「パリストンさまに、愛されたかったからです」
「愛していますよ」
「それは、リリーさんをでしょう?」
彼は黙った。否定してほしかった。たとえ嘘でもいいから、わたしを愛していると言ってほしかった。
「アナタとリリーに、何か違いがありますか?」
言葉が出なかった。
「顔も、髪も、話し方も、好きなものも同じです」
名前。わたしの名前。それ以外に、何が残っているのだろう。
「わたしは……ナマエです」
自分の本当の名前なのに、ひどく不自然な音に聞こえた。パリストンさまは、鏡越しにわたしを見る。
「では、ナマエさんが好きだったものを、一つ教えてください」
苺が好きだと、そう答えようとした。だけど、どんな味だったのか思い出せなかった。甘かったはずなのに。赤いジャムを、いつもたくさん塗っていたはずなのに。何も言えないまま、唇を閉じる。鏡の中で、怯えた女が途方に暮れていた。
***
翌朝、パリストンさまは玄関で靴を履いた。
「いってきます」
パリストンさまは、わたしが見たかった笑顔を浮かべた。
「ボクのリリー。良い子で待っていてくださいね」
扉が閉まってから、二階のリリーさんの部屋へ向かう。ノートをすべて持って、燃え盛る暖炉に放り投げた。すべてのノートが黒く縮み、文字が灰になる。炎を見つめながら、昔のことを思い出した。
『ナマエは本当に手が掛からないわ』
母からの言葉。
『品行方正とはキミのためにあるような言葉だね』
教師からの言葉。
『ナマエ先輩みたいになりたいです』
職場の後輩からの言葉。
わたしは、相手が望む言葉や振る舞いばかりを選んできた。そうしなければ、自分を認められなかった。窓の外では小鳥が鳴いている。わたしの帰る場所は、もうどこにもなかった。
『ボクのリリー』
あの言葉を思い出して、口角を持ち上げる。もう鏡がなくても、肖像画と同じ笑い方ができた。