何も見なくていい

  コツコツとヒールの音が静かなその場に響く。小南は死穢八斎會の地下の長い通路を歩いていた。右手に一通の手紙を持ち、突き当たりに位置する例の部屋へと移動する。その部屋には少女がいた。今は床に伏した死穢八斎會の組長と血の繋がった子供。実の母親に捨てられた、血縁上は組長の孫にあたる壊理と名付けられた少女がいた。医療用の椅子に座らされ、幼い子供は銃弾の材料にされていた。頑丈そうな扉に近づくにつれて、思い詰めたように秀麗な眉が切なげに顰められる。本当にこれでいいのか。微かに手が震えた。躊躇いつつも小南はその黒い手袋がはめられた手で扉に触れる。後ろめたさが消えず、扉に隠れるようにして彼女は5センチ程開いた隙間を覗いた。奥からは計画を考案した男とその補佐役を務める男の会話が聞こえてくる。

「もう限界ですね……体力も尽きてやす」
「そうか……じゃあ、そろそろ“修復”するか。仕切り直しだ」

  中ではぐったりとした少女が俯いて椅子に座っていた。その少女こそ組長の孫娘である壊理だった。少女の腕は材料とされた際に流れ出た血で赤くなり、内側の肉が見えていた。止めることも助けることもできない。それを見ると決まって小南は心が苦しくなる。何もしてやれないことにただ胸が痛んだ。彼らの会話から読み取れる通り、これから分解と修復が行われるのだろう。治崎がはめていた手袋を外す。治崎とクロノスタシスの後ろ姿を見て小南は話しかけるか否かを考えた。伝えることはあるが邪魔をすることは彼女とて本意ではない。悲しそうな表情を浮かべ少女を見つめるも、頃合いを見計らって然るべきだと冷静な彼女の思考はすぐに結論を出した。

  治崎は一度決めたら止まることのない男だった。目的の為なら何でも使う人間だった。例えそれが居場所を与えてくれた組長。恩人と血の繋がったその孫であっても、組長の意志を尊重した彼は極道の復権の為に少女を銃弾の材料とした。計画の必要性を教えられ、それらを承知の上で小南は治崎に全てを委ねた。彼女が彼のすることに異を唱えることはなかった。どんなに人として道を外れた行いをしようと、治崎について行き支え続けた。そこにあるのはもはや親愛や友愛の情だけではない。それ以上の情。彼女を突き動かすのは単なる側近としての使命感などではなかった。物憂げな色を宿して赤い瞳が微かに揺れる。ふと治崎が首を回して扉へ視線を向けた。


「……そこにいるのか?小南」
「姐さん?珍しい。どうかしやしたか」

  長い付き合いだからだろうか。小南に気づいた治崎が声をかける。治崎の声に、少女の片腕に包帯を巻いていたクロノスタシスも扉の方を向いた。小南は隙間程度に開いていた扉を人が一人通れるくらいに開ける。そこから治崎の問いかけに答えるように姿を現して、その場にとどまったまま申し訳なさそうに右手に持った白い封筒をちらりと覗かせた。そして形の良い眉を少しばかり下げて告げる。

「ごめんなさい。邪魔をしてしまって。オーバーホール、取引先から連絡が来てるわ」
「そうか。わざわざ悪いな。クロノ、今日はもう終わりでいい。包帯を巻いておけ」
「わかりやした」

  それが終わったことに密かに安堵していた。恩人の孫娘が、あんなにも幼い少女が、計画の核として利用されるを見るのはやはり気が咎めた。計画について説き伏せられた時より理解していたはずなのに、つくづく矛盾している。引き続き包帯を巻くクロノスタシスを見て、小南は壁際に立ち茫然と治崎が来るのを待つ。小南は時折考える。本当にこれでいいのか。引き返せないところまで来ているというのに、どうしてか考えてしまう。もしヒーローに目をつけられたら。ヒーローでなくてもヴィランに、万が一にも、治崎がころされてしまったら。小南はそれら要因により互いが引き離され、離れ離れになることを恐れていた。続いてきた不変を壊されることを恐れていた。最悪の結末は迎えなくていい。

  平穏を望んでいた。彼女にとって治崎を失うことが何より怖かった。治崎だけではない。恩人である組長も、彼が与えてくれた居場所も。八斎會で巡り会えた彼らも、恩人の孫娘である少女も。全てが大事で愛おしくてかけがえのないものだった。手遅れになる前に。手遅れの基準は、どこまでが手遅れなのか。聞こえてきた足音に小南は答えの出ない思考を止める。振り返ろうとした時、ふわりと背後から治崎が優しく彼女を包み込んだ。隙間を埋めるように服越しに遮られた温もりが伝わる。背中に当たる存外逞しい、引き締まった硬い体。手袋に包まれた角張った男の指。大きな手が視界を塞ぐ。見なくていいというように、考えなくてもいいというように。後ろから抱きすくめるように目隠しをされる。

「小南。お前は何も心配しなくていい」

「余計なことで汚れなくていい。きれいなお前を汚していいのは俺だけなんだ……」

  視界を隠す手は次第に下の方へと移動し、小南の胸の上へと回された。長いペストマスクが華奢な薄い肩から垂れ下がる。もう引き返せないところまで進んでしまった。治崎が引き返すことはない。それを誰よりも彼女は知っていた。だからどこまでも共に歩む。それが破滅へ向かう道であっても、彼を一人にしないように。お前が悩む必要はない。そんなことで頭を悩まして汚れなくてもいい。こうすることが組の為だと、揺らいだ思考を掻き消すように、耳元で囁くように治崎が言った。

「お前は俺だけに汚されればいいんだ」

  長い付き合いだからだろうか。小南が治崎のことをよく理解していたように、互いに互いを、治崎も小南のことをよく理解していた。治崎に抱かれる腕の中で小南は考える。何も不安にならなくてもいいと。間違っていないと、これでいいのだと彼女は一人安堵した。貴方とならばどこまでも、堕ちるならば堕ちるところまで堕ちていける。その先が光のささない暗闇でも、深淵の底であっても二人一緒なら怖くない。最後まで治崎と、八斎會と運命を共にする。彼一人に罪は背負わせない。計画を進めた時点で同じ罪を背負っている。受け入れた時点で彼女もまた共犯なのだから。無情にも終焉は刻々と近づいていた。

2017.10.11
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