老人が告げた言葉

  雨が降っていた。雨が袖を捲った少年の白いワイシャツと黒いズボンを濡らしていく。学生のような装いの少年は、肩から斜めに鞄を下げていた。雨の中で傘もささずに少年はただ視線を下に向ける。右頬にはできて間もない傷があり、傷を覆うようにガーゼがテープでとめられていた。横殴りに降る雨から庇うように、傘をさした和服の老人が少年の右側に立つ。老人は少年に怪我の理由を尋ねた。

うちのこと“ヴィラン野郎”と言われてケンカしたんか」

  少年は口を閉ざしたまま喋らない。何も答えない少年を宥めるように老人は語りかける。

「極道がカタギに手ェ出しちゃあいけねェ……いけねェ事だ。けどなァ治崎」

  少年が濡れないように、老人は傘の中に肩を下げた少年を入れて一緒に並んで歩く。少年にとっては正しいことだったのだろう。理由もなくそのようなことをした訳ではない。彼は正しいことをしたつもりだった。咎められて少年は心なしか拗ねた顔をしていた。老人も叱ってばかりではない。少年を動かしたその気持ちを老人もしっかりと理解していた。

「面子守ろうとしてくれてありがとうよ」

  してはいけないことを教えて、咎めつつも少年の行動の理由を知る老人は最後に礼を述べた。恩人である老人に礼を述べられたことが少年は純粋に嬉しかった。その言葉が少年の中に深く残った。忘れられずに緩やかに根付いていった。体格の良い老人の大きな背中と少年の背中が雨の中で小さくなっていく。実の親子のように並んで帰路につく。傘の大半を少年の方に寄せた老人の肩は濡れていた。


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  少年が怪我をする度に少女は不安になる。少年が怪我をすると決まって少女は少年を心配した。この日も例外ではなく、老人と共に帰ってきた少年の頬に貼られたガーゼを見て、彼らの帰りを待っていた少女は弱々しく眉を下げて切なげに瞳を揺らした。ばつが悪そうに目を逸らす少年に少女は近寄りそっと抱きつく。少年は華奢な肩に顎を乗せてこっそりと少女を盗み見た。彼女がいかに心根の優しい少女であるのかを少年は知っていた。

  少年の手が動いてそろりと腕が持ち上がる。老人は気を遣って二人を残して廊下を進んだ。泣いてしまいそうな少女を確とその腕で抱き留めて、己よりも小さな体に少年もおずおずと手を伸ばす。少女の背中に回された少年の手に力が入る。心配をかけてしまったことを気にしつつも、慰め安心させるように少年は少女の体を腕に閉じ込めて、ぎゅっと抱きしめ返した。応えるように少年の背を優しく包む少女の手にも微かに力が込められる。


  老人と少年が屋敷に戻った後、その部屋には老人と少年と少女の三人が集まっていた。室内には消毒液の匂いがほんのりと漂う。頬に触れる冷んやりとした感触に、じっとしたまま少年はくすぐったそうに目を細めた。胡座をかく少年の真正面では、膝立ちになって少女が心配そうに少年の頬にできた傷を手当てする。それを老人は親のような目をして優しく見守っていた。風呂上がりに向かい合う少年と少女の姿を微笑ましそうに見て、口端を曲げて笑いながら老人は少女に話しかける。

「小南、おめェは治崎みたいになってくれるなよ。女が体に傷を作っちゃあいけねェ。おめェは今まで通りでいてくれよ」

  老人の言葉に少女は頷いた。少年は気まずそうに老人に視線を寄越した。やがて手当てが終わり、少年は老人をちらりと見ると背を向けて部屋を出ていく。何も言わずに立ち去った少年を見て、相変わらず不器用な奴だと、その様子に苦笑しながら老人は少女の名を呼んだ。老人はあるものを少年から預かっていた。それを代わりに少女に渡して欲しいと頼まれていた。己のもとへ近づく少女に老人からも彼女の近くへ歩み寄り、和服の袖から何かを取り出してそれを少女の手に握らせる。

「治崎が取り返したんだとよ。大事なもんなんだろ。あとで礼を言っておけよ」

  手のひらに冷たい金属の感触が伝わった。見覚えのあるそれは燻んだ金色の十字架のペンダントだった。金属の放つ鈍い色からも分かる通り、その十字架は少女の年齢にそぐわない古いものだった。年季の入った古びた十字架は光を放たない。けれどいくら古くとも少女にとっては大切なものだった。十字架を握り少女は老人を見上げる。老人は穏やかに笑うと腕を伸ばして少女の頭を優しく撫でた。

「いいか小南、大事なもんは肌身離さず大切に持っておくもんなんだ。おめェは優しいから言い出せなかったんだよなァ……」

  父親が娘に言い聞かせるように、老人は少女にそう教えた。頭を撫でるあたたかな大きな手に自然と少女の口許は綻んでいた。雪のように白い頬を淡く染めて少女は頷く。その十字架が彼女の過去を示すものであるように、それになぞらえて言うならば恩人である老人の言葉は、少女にとってはまるで聖書のようだった。居場所を与えられてそれ以来ずっと、恩人である老人の言葉が少女を優しく導いてくれた。だからこそ彼女は守る。体を紙に分解するのも、肌身離さず十字架を持つのも、原点となった老人の教えがあってからだった。そしてとうとうその日、肌身離さず持っていた十字架が黒衣からこぼれ落ちる。

2017.11.15
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