夢か現か幻か


朝御飯のいい香りが鼻腔をくすぐる。

時計は朝の五時を示している。
眠気眼で空に昇った太陽がようやく目を覚まし出す頃だろう。

隣を見ると、そこには誰もいない。
そっと白いシーツに手を滑らせると、まだ少し彼の体温が残っている。
私の同居人は、本当に朝が早い。彼が布団から出て、もう何分経過したのだろう

「トルテ起きた?」

キッチンの方から声が飛んでくる。
いつも思うが、私は目を開ける以外にはほぼ微動だにしていないというのに、起床したタイミングが何故毎日ぴったり分かるのだろうか
そもそもキッチンから私の寝ている姿なんて見えないというのに

「起きた」

まだ布団に入っていたい気持ちを振り払ってベッドから降り、キッチンに足を向ける

「おはよう、トルテ」
「おはよう、ザハ」

毎朝の挨拶を交わす。
名を呼ぶと彼は決まって微笑むので、その顔を見ると、大袈裟だがなんでも出来る気がする。

「今日休みだからゆっくりしててよかったのに。起こしちゃった?」
「いや、変な夢を見て目が覚めた」
「え、怖くなかった?大丈夫」
「ザハが、あの...あの、ラ......羊と踊ってた」
「ラム?」

脳内に夢の中の自慢気な奴の顔がよぎる
せっかくの休日だというのに、何故あんな奴の顔なんて思い出さなければならないのだろう

「これは夢だと思ったから慌てて起きた」
「夢か現実か分かるなんて、トルテはすごいなぁ」

なんて同居人が笑うからつられて笑う
この人の笑顔は本当に優しくて、柔らかくて、─────大好きだ。

「もうごはんできるから顔洗っておいで」
「ん、洗ったら手伝う」

洗面所に足を運び、ばしゃばしゃと顔を洗うと冷たい水が、肌に触れて気持ちがいい
すっかり目が覚めるまで、冷水を手に掬っては、顔に触れ、また流す─────
そしてふわふわのタオルで顔を覆い、柔軟剤のいい匂いに包まれる

「皿はいつものでいいか?」
「ありがとう、お願い」

キッチンに戻ると、
まずパンの焼けた甘い香り、加えてハムエッグの焼かれたフライパン、みずみずしい野菜達、あの大きめの鍋はきっとスープだ───いい匂いがいっぱいで、幸せの宝石箱みたいだ。

「トルテ、お皿とか割らなくなったね」
「毎日割るわけにもいかんからな」
「数年前は毎日割ってたでしょ?」
「そ、そうだな...すまない」
「大丈夫。手とか切らなくなって安心してるだけだから」

彼はまたにこにこと微笑んでいる。
私が食器を毎日のように割っていた頃も、私の心配ばかりで、食器を割ったことで怒られたことは一度もない。
そもそも彼が怒りを露にする瞬間を私はあまり見たことがないのだが

「運べる?」
「問題ない。任せてくれ」

トレーに並べられた二人分の皿を机まで運ぶ作業は私の仕事だ。
ここで落とせば彼の作った食事はすべてぱぁになるのだが、この作業は手慣れたものだ。問題ない。

「ありがとう」
「ん」

後ろを心配そうについてくる彼は、私が机まで運びきるといつも安堵のため息を漏らす

「じゃあ、冷めないうちに食べちゃおう」
「だな」

昨日パン屋で買って帰ったふわふわのパン、薄い桃色が見える目玉焼き、少し苦手な野菜の入ったサラダ、野菜の甘みが滲み出したコンソメスープ
どれも窓からはいる朝の光に照らされて美味しそうだ。

「じゃあ、いただきます」
「いただきます」

     □■□

目が覚める。
時計は朝の四時を示している。

まだ眠いだろう太陽が、そろそろ空に追い出される頃だろうか

隣を見ると、そこには誰もいない。
そっと白いシーツに手を滑らせても、昨晩眠る前の温度となにも変わらない
俺の同居人は、少し寝坊助だった。そんな彼が布団から出て、もう何日も経ったというのに。

「おはよう、トルテ」

帰ってくる言葉はない。
名を呼ぶと彼は決まって微笑んだ。その顔を見ると、大袈裟だがなんでも出来る気がしたのだ。
ふと先程の会話が脳裏をよぎる。

─────「これは夢だと思ったから慌てて起きた」
「夢か現実か分かるなんて、トルテはすごいなぁ」─────

あぁ、やっぱり夢だったのか。
俺には夢か現実か分からなかったんだ。
あぁ、やっぱり幻だったのか。
なんでトルテの気持ちが分かるんだろうとは思ってたんだ。
あぁ、でも現だったらよかったのに。
そしたら君を抱き締めて、おはようって言って、それで

それで

「トルテ、俺さ」

君に会いたくて会いたくて仕方ないんだ
君と話したくて笑ってほしくて堪らないんだ
君に大好きだと愛してると伝えたいんだ
君しかいないと、俺には君しかいないんだと

「ねぇ、トルテ」

そっと呟いた名前が部屋の空気と交ざって静かに消えるか消えないかの時、
こんな時間だと言うのに電話がなった。

「はい、ミシェルリリーです」

口から出た声は、少し鼻声だった。
受話器を耳から少し離し、ズズッと鼻をすする。

「もしもし?」

もう一度電話を耳に当てる。
しかし、受話器からは音がなにも聞こえない。
こんな朝早くから間違い電話だろうか

「あの?用がないなら切りますよ?」

それでも尚なにも音のしない電話に、少し寒気がする
怖いものはとても
苦手なので、正直一人でいる時に不気味なことはやめてほしい

「じゃあ、切りますね。おやすみな」

──────────ザハ

「え?」

今、

「トルテ?トルテなの?」

─ツーツーツ──────────

虚しい通話終了音が響いた。
こちらからはまだ切っていなかったというのに

「会いに来てくれたの?」

頬を、冷たいものが伝っていく。
それをグイと右手の甲でぬぐい去る。
久しぶりに会えた君に泣き顔なんて見せたくないから

「ごめん。弱気になってた。俺はもう大丈夫だから、安心して」

名前を口に出そうとすると、また涙が出そうになる。それをグッとこらえて

「おはよう、トルテ!」

大声でそう言った。
君が聞こえてるかは分からないけど、それでも、それでも

君にまた、おはようと言いたかった。



20180716

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