あとはただ、


 一瞬の出来事だった。

 私を盾にした男は、私の頸にあてがったナイフを急に落としたかと思えば、そのまま血を吹き出して倒れ込んだ。いきなり拘束を解かれた私は反射的に振り返るが、そこには先程まで指示を出していた主犯の男が、見るも無惨に頸を切られて絶命しているだけだった。
 鮮血の残像がしばらく目に焼き付いて離れない。床に広がっていく血の匂いが張り詰めた空気を刺激する。

「…………どうして」

 あまりに急な事態に頭が追い付かない。
 助かったと喜びたいところだが、この男達を殺した奴が直ぐ近くに居るかと思うと、動こうにも動けない。
 私を殺そうとした男を殺したのだ。見つかればきっと、情報を吐かされて私も同じ目に遭うだろう。早く逃げなければと

 昼過ぎのヨコハマ、一般に裏社会と言われる地域で、広い廃屋の敷地内には誰も訪れることはない。
 裏社会を生きる人間以外は。

「……君、大丈夫かい?」

 そんな声が聞こえたのは後ろからだった。

 今この状況を打開する術は私にはなかった。徐に振り返った私の目に映ったのは、黒髪の中年男性。崩れた塀の間から、似つかわしくない高そうな外套が揺れる。
 穏やかな声で私に優しく微笑んでいるが、その手には血のついたメスの様なモノが握られていた。

 ──この人が、私を助けたのか。
 一体、何の目的で?

「嗚呼、怖がらないで呉れ給え。私は君を傷付けたりはしまい」
「……何故、私を助けたの」
「何故って」

 男は笑みを崩さない侭私の方へ近付く。一瞬で背筋に冷たいものが走った。本当に危険なのは穏やかで人当たりの良い奴だと云うけれど、それを形にした様だった。
 ぽたりと、メスの血液が滴る。

「私が君を求めていたからだよ。あんな奴らに拐われては困るからね」

 男の表情は変わらない。けれど何故か戦慄が走る。余裕ぶった大人の笑みに思わず一歩後ずさるも、視線は離してくれない。
 厄介な男に捕まった。この男は只者ではない。この混沌としたヨコハマで出会った他のどの黒い異能者よりも、全てを掌握してしまいそうな、人一人簡単に洗脳してしまいそうな、そんな瞳をしている。

「……私ではなく、私の異能が欲しいのでしょう?」

 それでも、こんな展開は何度も経験してきた意地からか、私の口からは強い言葉が溢れた。

「他の奴らはそうだった様だね。けれど、私は違うよ」

 そう云って男は私の頬に触れる。その一瞬で動けなくなった。
 異能でもなんでもない、只純粋に触れられただけ。それなのに私の身体は固まってしまう。
 陰ったその目は、私の目ではなく、私の奥深くを見つめているようだった。心の中を直接見られているような感覚にさえ陥る。

「私は、君を構成員として迎えよう。君も君の異能も含めて、組織の一員として。従順に居てくれるなら、衣食住も保証し君を狙う奴らからも守ろう。君は私に従うだけでいい。──合理的だろう?」

 私の殺戮に特化した異能を求めて、これまで数々の異能組織が私を求めた。幾度も拐った。私はこのヨコハマで、捕まる度に逃げ出して、また誰かに襲われてを繰り返してきた。
 私の素性はもう知れ渡っている。望まない異能も、私が生まれてきたことへの罪なのだと諦めていた。
 平凡な日常なんて私には一生無い。たとえこの男に着いていったとしても。

 それでも心の何処かで「死にたくない」思いが渦巻いている。人間の本能である純粋な感情ですら、此処では逆手にとられてしまうのだから、裏社会で生きていくのは何よりも辛いことだ。
 隙をついて逃げるのは不可能だろう。この男から一度逃げられたとしても、屹度また見つかってしまう。けれどこれを断れば、私はまた新しい組織に追われるのか。

 ほんの暫くの間に、自分の中がこの男に洗脳されていくのを確かに感じていた。
 それを見透かしたのか否か、男の口元が緩んだのが解った。

「……さあ、私と来てくれるだろう?」

 頬に触れていた手はいつしか私に差し出されていた。
 先程見せた様な笑顔で、返事を迫るようでもなく手を差し伸べる。
 ──断れば如何なるか解るかい、そう瞳で問い掛けながら。

 私は無言でその手を取った。

「聡明だね。ならばこれから宜しく、なまえちゃん」
「……なんで、私の名前を」
「言っただろう、君を求めているって。まずは一つ目標達成だね」

 そう云うや否や、私の直ぐ後ろから爆発音がした。

「なに……?」
「悪いね、待たせて仕舞って。よくやったよ」

 その言葉は明らかに私へのものではなかった。
 煙が薄れてゆく。その奥から姿を現したのは、武装した男達だった。
 胸に手を当て、数十人が一斉に跪く。この男の部下達だろう。その後ろから遅れて現れた構成員の数は、これまで見たどの組織よりも圧倒的に多い。

 態々爆発させたのは、証拠隠滅の為か。

「嗚呼、自己紹介が未だだったね」

 部下達を気にすることも無く、男は私の手を強く握り直した。汚れたメスを部下の一人に渡して、銀に光る新しいものを胸へ仕舞いながら告げる。それはもう、憎らしい程の笑顔で。

「──私の名は森鴎外。ポートマフィアの首領だ。これから宜しく頼むよ。"殺戮の異能者"、みょうじなまえちゃん」

 この男──ポートマフィア首領に従えば、これから私は追われずに生きていけるのだろうか。そんな疑問も一瞬で消えてしまう。
 この暗い世界に平穏など存在しない。何時殺されるか解らないし、駒として捨てられるかもしれない。一度足を踏み入れてしまえば、もう元には戻れないことは明白だ。

 けれど、もう逆らえる気がしない。

「戻れば先ず君の資料を作らなければいけないね。それが終われば幹部の元へ行こうか。君を上手く使える人を探そう。忙しくなるけど身体は平気かい?」
「……はい、首領」
「その様子だと大丈夫そうだね。……嗚呼、それからエリスちゃんにも合わせないと。きっと若い女の子が来れば喜ぶだろう」

 されるがままに手を引かれて、暗い方へ暗い方へ歩いていく。
 滴る水は錆びたように濁り、見たことのない不気味な生き物が走り抜けるそんな道。

 自分の心が着実に支配されていくのを感じながら、私は微かに見える明るいヨコハマに小さく別れを告げた。


 ──あとはただ、染まるだけ。


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