月が綺麗ですね
満月が、世界を照らしていた。
社員寮の階段を登る。腕時計の針は十時を指して居たが、秋のこの頃にしては随分明るい。昨日で云う八時位だろう。
まだ明るいからと、つい仕事の手を休めて仕舞いそうになったのは数十分前。本日限りの報告書をうっかり見逃していて、結局、社を出たのは私が最後だった。
外に設けられた螺旋階段から見える景色は、真夜中の地平線の様に綺麗だ。踊り場から少し身を乗り出す。そうして、私は無意識の内に自階を通り過ぎていた。脚は屋上へと進んでいる。
規則的な歩みは次第に早くなっていく。薄暗い階段でも踏み外さなかった。
何十段と続いた段差は漸く終わり、私の目の前には鍵の開いた扉が静かに佇んで居る。
何の躊躇い無く一気に開いた。瞬間、こちらに向かって強い風が吹き抜ける。
思わず目を閉じて仕舞い、次に目を開いた時、その景色に私は思わず息を呑んだ。
遮る壁は無い。光も影も風も、何にも隔てられない。鉄の柵が黒く翳っていた。
目線を上げる。終わりの見えない、果てしない空が其処には有った。
ほぼ真上に位置した月が、不思議な程蒼く辺り一帯を彩っている。小さな星も、今日ばかりは殆ど見えなくなって仕舞う。
柵の向こうからは町の灯りが僅かに漏れていた。
そして其の柵の手前には、良く見知った先客が。
音で気付いたのだろう、こちらに振り返って、私に微笑んだ。夜風に靡く髪や外套は、何時にも増して綺麗だと思う。
「やあ、みょうじちゃん。お昼以来だね。そろそろ来る頃と思っていたよ」
「……驚きました、太宰さん。此処に居たんですね」
何時もの服装。
何時も通りの声。
だけど、後ろに纏う景色は何時もとは比にならない。
極力驚きの表情を消して、私は笑顔で言葉を返す。
目の前には、お昼過ぎに仕事を放り出して、散々国木田さんを困らせた先輩の姿があった。此処で会うとは完全な予想外だ。
仮面の如く完璧な笑顔からは、彼の考えは読み取る事が出来ない。其れを気に留めない振りをして、私はゆっくりと太宰さんに近付いた。
地面を踏み鳴らしても、少し強めの風が其の音を掻き消していく。
一歩手間で脚を止めた私に、太宰さんは相変わらずの笑顔で、くるりと背を向けて「此方だよ」と自分の隣を示す様に振り返る。
「なんで、私が来るって解ったんですか」
同じ様に、私は柵の際へ立つ。
見下ろした世界は思ったより小さい。ネオンはぽつぽつと見えるだけだ。
柵に身を預けた太宰さんに問い掛ける。
「解るよ。社で敦君と月の話をして居ただろう? でもみょうじちゃんの仕事量を考えると、外に出て景色を眺めるなんて機会無かったんじゃないかな」
「……其れで解るものですかね?」
「こんな時間に此処に来る人なんて居ないからね。こうして一緒に月を見られて嬉しいよ」
にこりと微笑んでそんな言葉を掛けられれば、屹度、大抵の女性は惚れて仕舞うだろう。心中のお誘いさえ無ければ、太宰さんはモテるのだ。……多分。
態々此処に来なくとも月は見えるだろうと思うが、反論は喉元で留めておく。太宰さんの事だから、確信が在ったのは確かなのだろう。
本当、どんな意味でも凄い人だ。
ふっと空を見上げた。先程までは一歩離れて見ていた様だったが、今は自分も一緒に月に照らされている様な感覚に陥る。
普遍では到底有り得ない蒼い月に、異常気象だとか異能の暴走だとか慌てる人も居るが、私としては只々幻想的だった。
「今宵の月は綺麗ですね。こんなに蒼いのは、私初めてです」
「そうだね。……私死んでもいいわ?」
「……あっ、口説いた心算はありませんけど」
純粋に月の美しさを告げたものだったが、どうやら告白の方と捉えられたらしい。
月が綺麗ですね。I love youの隠れた意味も持つ有名な語だ。尤も、現代でこんな伝え方をする人が居るのか疑問に思うが。
死んでもいいわ、は確か、私もです、の意。普段こうして女性を落として居るのだろうか。太宰さんなら云いかね無い。その辺りの言葉は網羅して居そうだ。
……それに、太宰さんが云うと洒落にならない。
そんな否定の言葉に少し不満気な顔を浮かべ、太宰さんはじっと私を見つめた。
「その云い方は期待して仕舞うじゃないか。みょうじちゃんとなら、私大歓迎だよ?」
「それは自殺のお誘いでしょう? 一緒に死ぬなんて御免ですよ」
「そうかい? こんな夜になら、美しく逝って仕舞いたいと思わないかい?」
「思いませんよ」
壮大な景色の下も、太宰さんにとっては心中の舞台に見える様だ。
相変わらず私には理解し難い思考だけれど、其処にはまだ介入する事が出来ない。
触れられない、と云うより、なんだか触れてはいけない様な気がするのだ。それこそ谷崎兄妹の様に。
「太宰さんは、この蒼い月を如何思いますか?」
軌道修正する様に、私はそう問うた。
蒼い月。こんなものは、生まれて此の方一度も見た事が無い。携帯で検索してみても、前列が無い事は明白だった。
太宰さんなら、限り無く正解に近い事を云うのだろう。もしかすると、全て解って居るのかもしれない。
「私は誰かの異能だと思うよ」
「……異能、ですか?」
一呼吸置いて問い返す。驚いて太宰さんを見上げた。
端正な横顔は何処か遠くの景色を見つめている。此処では無い、其れこそずっと、遥か彼方の様にも思えた。
そんな私の視線を気にする事も無く、宙に目線を留めたまま、言葉を続けた。
「そう。天文学的なものか、それとも光の異能が暴走したか。いずれにしろ、常識を逸脱した力だね」
「それなら、政府とかは大騒ぎですね」
「だろうね。その内政府直々に依頼が来たりしないかな」
何処か愉しげな声が屋上に響いた。
私達にとっては美しい月だが、確かに研究者などには一大事だ。それに異能の仕業と云うのならば、政府の特務科が黙ってはいない。屹度今頃は、急遽残業を命じられているのだろう。
太宰さんの云う通り、国から直接の依頼が在るのかもしれない。そうなれば大仕事だ。
「私が付け加えるとするなら……此の異能は人体に影響を及ぼすものでは無いね。只純粋に、気象を操る能力だよ。私達が心配する事じゃない」
無いと思う、では無く「無い」と明言する辺り、矢張り見抜いているのだろう。
太宰さんにそう云われれば安心出来た。気象を操る異能、一般の方々に被害が及ぶ事が無いなら何よりだ。
「……でもね、感謝はしているよ。こうしてみょうじちゃんと一緒に月を見ることが出来たから、私は嬉しくて堪らないんだ」
安堵した私の心情を悟ったのか、突拍子も無く甘い台詞を囁く太宰さん。
端正な容貌の彼にこんな事を云われて、少しもどきりとしない女性等居るのだろうか。私だって時折、落ちて仕舞いそうになるのだから。
暫しの沈黙を経て、私は口を開いた。どうだろう、私は今、頬を染めているのだろうか。
「……私を落としたって、何もありませんよ?」
「何も要らないよ。其れが私の本心だからね」
そう云われれば誰だって嬉しい。太宰さんが幾多の女性を射止める理由が解った気がする。流石、手慣れている。
其の姿は何処までも美しい、幻想的な言葉を追い求めて居る様で。いつか私も、こんな言葉を云う様になるのか、それとも云われる側なのか。近くない未来に、期待を馳せる。
「そろそろ、寒くなってきましたね」
見下ろした街の灯りが少しずつ消えていく様を眺めていた。月は明るいけれど、もう深夜なのだろう。
「じゃあ今日はもう帰ろうか。部屋まで送るよ」
「……では、御好意に甘えて」
遠くで雲が星を覆って居たが、月は依然として明々と光を振り撒いている。冷たい風は小さな葉をひらひらと踊らせた。
この景色は暫くの間続きそうだ。
「行くよ」
そうして何の躊躇いも無く、私に差し出された左手。だから取ってよ、と云わんばかりに見つめられる。
握り締めた手をそっと伸ばした。
重なった私の右手を握って、太宰さんは歩き出す。私も隣に並んだ。
「ねぇ、みょうじちゃん」
「なんでしょう」
立ち止まらずに零れた言葉。月の所為かそれとも星の所為か、太宰さんの横顔が鮮明に私の双眸へ映った。
「"暖かいね"」
少しだけ、手を握る力が強くなった。暫く訝しんだものの、繋がった手は確かに熱を帯びている。
──嗚呼、太宰さんも私も、矢張りロマンチストだ。
何時も通りに、私は微笑んで答えた。
「はい。暖かいですね、太宰さん」
私の其の返事に、太宰さんも満足げに微笑んだ。
満月は、変わらず空に昇って居る。
──貴方が傍に居てくれて、幸せです。