もしもあの時


「……如何したんですか、こんな時間に呼び出すなんて」

 日付がそろそろ変わるだろうと云う頃に、マフィア領内の部屋のひとつ──太宰幹部の部屋に私は居た。
 室内には、本と資料こそ高く積み上げられているものの、物と云えば其れだけで、生活感は感じない。尤も前に、太宰幹部は「此の部屋を使うのは仕事だけだね」なんて事を云っていた覚えが在るから、其の所為だろう。

 時計の針が静かに時を刻む。点いているのは机上の橙の灯りだけで、雲がかった今宵は月光も頼りに為らなかった。
 仕事用の椅子に腰掛けた侭、太宰幹部は私の方へ振り返る。

「態々呼び出して御免ね。でも、直接君に伝えようと思ったんだ」
「御構い無く。……其れで、御用件はなんでしょうか」

 どうにか私は普段の調子で返答する。深夜に呼ばれたのは此れが初めてで、普通じゃ無い何か特別な用だと云う事位は容易に想像出来た。

「君に別れの挨拶をしようと思ってね」

 何時もの太宰幹部だった。まるで今日の夕餉を話すかの様に、淡々と、唐突にその言葉は告げられる。

「……其れは如何云う意味でしょうか?」
「其の侭だよ。私はマフィアを抜ける」

 何処かで感じていた厭な予感が、ほら見ろ、と私に囁いた様に聞こえた。
 ──此のポートマフィアから抜ける、つまりは逃げると云う事だ。

 太宰幹部の言葉は何時も突然で、突飛だ。けれど今回は洒落にはならない。
 確かに、前列は在る事だ。但し幹部級の人間がマフィアから逃げ切れた話等存在しない。
 況してや太宰幹部は今現在ポートマフィアで最も利益を上げているのだ。其の彼が居なくなったとなれば、皆が血眼になって探すのは明白だろう。

「意外と驚かないんだね。疑いもせず、そんなに簡単に信じちゃって好いのかい?」
「……態々呼び出して冗談を云う時間では無いでしょう」

 太宰幹部なら遣り兼ねない。

 ポートマフィアで得た地位、名声、金、其の全てを捨ててまで成したい事が在るのか、そう問おうとして喉元で飲み込む。屹度、目の前の彼は──私の恋人は何も教えてくれない。
 そう云う人なのだ、太宰治と云う人は。

「……何も聞かないのかい? 聡明だよ、君は。──矢張り私が選んだ女だ」

 太宰幹部は含み気な笑顔を浮かべた。椅子の音を鳴らして立ち上がり、そして扉の方へ歩いていく。
 其の背中を、私は振り返って見つめる事しか出来なかった。何も言葉が見付からなかった。

 ──行って欲しく無い。其れが率直な感情。
 五大幹部の一人と普通の構成員、そんな地位の差が在っても、太宰幹部は私を恋人としてくれた。抱きしめて愛を囁いてくれた。本心か偽りかは解らないが、私が其れを解らない程に、太宰幹部は私を大切にしてくれていた。

 私は本気で愛していたのだ。そして今、其の愛する人から告げられた別れの言葉を、疑う事無く受け入れようとしている。
 ──我ながら其れが滑稽だった。

「それなら、ひとつ聞かせて下さい」

 自分の声は少しばかり震えている様に聞こえた。

「何故、其れを私に報告するのでしょうか。誰にも云わずに此処から居なくなれば、少しでも時間稼ぎになるのではないですか?」
「何故って……君は私の恋人だろう? 別れの挨拶も無しに消えるのは私の柄じゃないよ」

 数秒の沈黙を経て、気が付いたら私は太宰幹部に抱き締められていた。
 嗚呼、屹度解っているんだろう。私が只、其の言葉を受け入れる事しか出来ない事に。

「──でも、君には止めて欲しかったね」

 ふわりと漂った太宰幹部の香りに、何時もよりも冷たい体温が私の鼓動を煩くする。
 溢れそうになる涙と言葉を必死に抑え込んで、私は其の大きな背中にしがみついた。

「狡いです、本当に」
「……自覚はして居るよ」

 どうも実感が無い。もう太宰幹部と会う事は二度と無いだろうと云うのに、交わす言葉からはまた会える様な、そんな気がしてならない。

 少しずつ弱まっていく橙の灯りは、互いの顔を陰らせる。暫くの間、時計の針音だけが静寂の空間を司っていた。

「君の事を愛してたのは本当だよ、なまえ」
「私も、本気で太宰幹部を愛していました」

 だからどうか、まだ少し、貴方の事を好きで居させて欲しい。

 愛していました、なんて嘘だ。今この瞬間も、そして屹度これから先もずっと、貴方の事を愛している。
 けれどそんな事を伝えてたとしても貴方は行って仕舞う。私には止められないのだ。
 其れならば此処で貴方を離して、貴方の中に少しでも永く残って居られれば其れで好いと思って仕舞う。私も大概だ。

 そっと腕が解かれ、温かい体温が離れていく。
 此方を向いた太宰幹部は笑ったんだろうが、見つめる事は出来なかった。そんな笑顔を見たら、私は屹度泣いて仕舞う。
 目を伏せた侭の私に、太宰幹部はくるりと扉へ歩んで行く。

「さよなら、なまえ」
「さようなら。……お元気で」

 最後に交わした言葉は至極単純だった。
 戸の閉まる小さな音が響いた後、私はその場に踞った。
 ぽたりと絨毯に落ちた雫を皮切りに、其の侭涙は溢れ続けた。何度拭っても、貴方の姿が私の中から消える事は無かった。





 一言で云えば、それは大雨の日。
 真昼から雷鳴が轟き、閉め切った部屋にも雨風の激しい音が響き渡る。
 寝間着の侭、私は外を見やる。昨日の一日任務の所為か、つい先程目覚めたばかりだった。

 不鮮明な外の景色に、不意に浮かんだのは嘗ての恋人の姿。こんな天気でも愉しげに私を連れ出そうとしていた姿が在ったからなのか、それとも私の心が澱んだ理由が貴方だからのか。

 あの夜は確か晴れていた筈なのに、何故こんな時に。

 あれから二年経って、彼の足取りは今も解って居ない。もう殆どの構成員は忘れて仕舞っているだろう。其の存在はもう一時の幻だ。

 如何してあの時、私は目を逸らしたのだろう。もう会う事は屹度無い、だからこそ忘れる事が出来ない。
 若しあの時──なんて考えても無駄だ。けれど若し、目を逸らさずに居たとしたら、私は今こうして悩む事は無かったのだろうか。

 雨音が強くなり、彼方で雷が鳴り響いた。窓を叩く風がより一層騒ぎ立てる。
 無意識に溢れ出す涙を止めようと必死に両手で顔を覆うも、零れ落ちる雫は留まるところを知らない。

 其れと共に、ぽつりと零れた言葉。

「……どうか、赦して」

 未だ貴方を想う私を。

 吐き出した言葉は、風の音に掻き消されて誰にも届かない。
 雨は一層強くなるばかりだった。


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お題メーカー (https://shindanmaker.com/669359)より

(もしあの時眼をそらさずにいられたのなら この眼はまだ彩の鮮やかな世界を見ていたのだろうか)
雷が鳴る昼、(名前)は両手で顔を覆い呟いた。(…ゆるして)
あと何度後悔したらいいのかな。

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