meeting in the basement


(シリーズ化しようとして没になったもの
夢主は作家で探偵社員と接点がある設定です)



 地下の空気は暗いものかと思いきや、案外人々で賑わっている。それが夜だからか此処がバーだからか、はたまた地下だから遠慮なく騒げるからか。ヨコハマに来て日の浅い私には知る由も無い。

 入口で聞こえた小さめの音量で響く音楽は、後方の新入社員の様な青年達の話し声に紛れもう殆ど聞こえない。
 明るい時期に一度通って気になっていた、ヨコハマの外れにある地下のバーに初めて訪れてみた。酒を飲み交わす友人や愚痴を聞く上司や部下もいない私にとって、こうした場所は今まで無縁だった。けれど此処は、意外にも若い人が多いように思う。最近は若者もバーに通う時代なのか。今回の小説にそんな場面を組み込んでもいいかもしれない。

「初めて見る顔ですね」
「ええ」
「うちは高級なワインも沢山揃えておりますので……では、ごゆっくりどうぞ」

 こういう場では先ず何か頼まないといけないのかと思っていたが、私の様子を見てかマスターはくるりと背を向けて向こうのお客の元へ向かった。
 並べられた見た事のない色のワインボトルが淡い照明に照らされている。これを文章で表せば素敵かもしれない。そう考えるとこれも一種の取材になるのだろうか。

 店をぐるりと見渡すと、先程の賑やかな若者達や、スーツを少し着崩した会社勤めであろう男性客の集団、派手なドレスで着飾った二人組の女性……客層は実に様々だった。それだけ幅広い人々に愛されている証拠だ。ただ、少しばかり高級な店、と言う印象も受ける。こんな機会でさえなければ、到底一人で来ることはないだろう。

「……隣、失礼してもいいか?」

 そんな考えに耽っていた私を引き戻した突然の声の主は、マスターではなく店へと入って来た青年のものだった。
 突然の事でただ見つめるだけの私に、彼は穏やかに笑ってみせた。





「初めて見る顔だな。一人で来たのか?」
「ええ、まあ。誰かと行きたいですけど、生憎一緒に飲みに行くような友人もいないもので」
「そうか? 俺はむしろ一人で飲みたい派だな。部下達と飲むのも良いが、一人の方が楽に飲める」
「大人数も楽しそうですけどね」
「それは最初だけじゃないか? 一人の方が楽になるぜ、そのうち」

 そう言うと青年はまた一杯口にする。
 見知らぬ相手にもこうして普通に話せるのは、此処がバーだからなのか。

 常連さんだと言うこの彼も一人で訪れたようだ。高そうな外套を纏い、帽子が特徴の青年。歳は同じ程か。
 私の隣に座り優雅にワインを飲む姿を見ていると、不意に目線が交わった。けれど青年は不思議がる素振りもなく、むしろ上機嫌とも言える様子だった。

 マスターが届けた二杯目のワインは、照明のせいなのか淡い黄色に見える。
 本当、美味しそうに飲む人だ。

「飲まないのか?」
「あ、いえ……こういう場は初めてなので」
「なら尚更飲めば良いじゃねえか。厭な事があっても大半は忘れられる」
「色々大変なんですね」
「ま、そうだな。仕事で溜まってたり……でも皆そうだろ?」
「そうですね……でも私は仕事は一人なので、あまり人間関係には困りませんね」
「それは羨ましい限りだな」

 先程彼は「部下達」と言っていた。私には会社に馴染みが無いが、同じ歳に見えるこの彼が部下を率いる様な立場にあると言う事は、相当優秀な人なんだろう。
 私と同じ歳の会社勤めなら、普通はまだ新人で、雑用や上司の愚痴を聞きながら慣れようとしている頃ではないだろうか。
 人の上に立つ者は何歳でも苦労するのだろう。私にはきっと経験する事のない話だが。

 作家と言う職業柄、どうしても一人での仕事になるが、それ故会社で働く人々の姿には詳しくない。そんな人達を描く時はじっと観察してみるが、やはり経験しないと解らない事は多い。

 バーを再び見渡す。ドレスの女性客は何時の間にか姿を消していて、その席ではカップルであろう若い男女が談笑していた。
 何処からか感じるオーラは、此処のお客達が普通の会社ではなく良い所勤めだと語っている様だった。外套やバッグのブランドは解らなかったが、私には到底買えない良い物だと言うのは解る。
 この青年も立派な外套を纏っているし、お気に入りなのか大切そうに抱える黒い帽子も良い物に見える。
 新しいグラスを受け取った青年は私の視線に気付いたのか、それとも漸く目を向けたのか、そのままグラスをこちらに差し出した。

「……ほら、乾杯だ。折角来たなら飲まなきゃ損だろ」
「そうですね。それでは、乾杯」

 私から差し出すのに一瞬躊躇ったが、青年はまだ飲み足りないらしく、早々にグラスを鳴らして一気に飲み干す。
 私も続くようにして早々にグラスを空にした。
 何時の間にやらカウンターには私達以外誰も居なくなっていたが、今日ばかりはそれも気にならなかった。





 月が隠れてしまっては、普段歩く道も何処か知らない場所の様に感じる。元々真夜中は慣れない感覚だが、光が殆ど無いとなるとまた違う道だ。
 バーの席を隣にした青年は、やはり大分酔っているようだが、足取りが乱れる事も誰かに絡んでいく事も無く、時折私を気にかける様に一瞥しながら歩いている。

 結局一時過ぎまで飲み交わした後、青年は自分が付き合わせたからと私の家まで送ってくれる様だった。
 勿論最初は断ったが、ヨコハマは確かに危険な街だ。ただでさえ夜に一人で歩くのは危ないが、此処は多数の地下組織が徘徊している。皆が皆無差別に人を襲う事はないと思うが、そう説得されては断れない。

「そういや、さっき作家だって云ってたな」
「ええ。あ、でも知名度とか全然ですよ。でも前に出した本が予想より人気になったので、今作は少し焦っていて」
「作家には会うのは初めてだな……嗚呼、俺みたいな素人が言える事じゃないけどな。焦って書いた本より調子の良い時に書いた本の方が面白いんじゃねえか? ま、〆切や何やあるだろうが」
「そうなんですけどね……やはり一日でも書かないと大事なものを忘れてしまいそうで」
「それなら何か息抜きが必要だな。俺にとっては酒だが、何か無いのか?」
「息抜き……あ、行き着けの喫茶店でこの間知り合いができたんです。何時も外で執筆するんですけど」
「へえ、喫茶店なんか行くんだな」
「はい。ヨコハマのビルの一階で。上に探偵社さんがあるんですが、其処の社員さんがよく来るので仲良くなって」

 青年は段々素を出した様で、きっとこれが普段の彼なんだろう。
 自分の声が少しずつ大きくなるのを感じて、其処で言葉を止めたのと同時に、青年が何かに気付いた様に小さく言葉を溢す。

「それって若しかして"武装探偵社"か?」
「ええ、そうです。ご存知なんですね。矢張り有名なんですか?」
「……さあな。ま、問題ある社員も居るしそれなりに名はあるんじゃねぇのか」

 青年はそう答えると、興味を無くした様にまた空を仰ぐ。雲間から僅かに月が覗いていた。
 ヨコハマには馴染んできたと思っていたが、まだまだ解らない事も多いみたいだ。実際、探偵社がどのくらい知られているかなんて想像した事もなかった。……問題の社員が誰なのかは聞かないでおく。

 会話に一区切りついたのを見て、今度は私が青年の仕事について聞いてみようかと考えたが、思えばバーでも青年が自分の職の話をしなかったので、あまり深く聞かない方がいいかと遠慮した。何時も仕事が上手くいっているとは限らないし、酒の席でくらい仕事を忘れたい人も多数いるだろう。

「此処じゃねえのか?」

 青年の声で顔を上げると、右手に私の住むアパートが目に入った。
 何時も通る道なのに、違う道を歩いてきた様な感覚だった。自宅の近くにも全く気が付かなかった。

「そうです、此処です。流石ヨコハマの事には詳しいですね」
「仕事柄だろうな。ヨコハマで歩いてない場所は多分無いぜ」
「それは凄いですね、結構広いのに……」
「ま、俺はずっと住んでるからな」

 青年は帰る心算だった様で、私の数歩先から振り返って答える。
 少し、この青年と別れるのが名残惜しいと思った。景色の綺麗な場所や他に良いバーなど、ヨコハマについて沢山の事を教えてくれた。こんな人が友人なら毎日楽しいだろう。

 帰宅を渋る様な私の内情に気付いたのかそうでないのか、青年は何かに気付いた様に「そう言えば」と呟いた。

「良い酒のお礼に、ひとつ教えてやるよ」

 数メートルの距離がある侭、先程までの酔いを全く感じさせない瞳で話し出す。なんですか、と問おうとしたが、急に真剣な青年の様子に、私は思わず言葉を飲み込んだ。

「あのバーは裏社会の人が集まる処だ。確かに良い酒だったろうが、次からはもう二度と来ない事を薦める」

 慣れた言葉なのか、青年はさらりと言ってのけたが、勿論私には引っ掛かる言葉だった。
 今、この青年は何と言った?

「…………裏社会?」
「ヨコハマには沢山地下組織があるって、帰りに言ったよな。そんな奴等が彼処で取引したり密会したりと集まっている訳だ」

 突然に詰め込まれた情報に、私は聞き返す事が精一杯だった。
 地下組織。探偵社の人達が何時も戦っている、異能力等で事件を起こし利益を得る犯罪集団だ。その危険さについて、私は何度も探偵社の皆さんに教えられた。
 つまり、私が見た若い客やカップル達はすべて、危険な組織の一員だったと言う事だろうか。

 困惑を隠しながらも必死に理解しようとする私の目を見据えて、青年はそのまま言葉を続ける。

「ま、知らなかったなら仕方ねえがな。一般人が入り込んで組織のバーだと気付かずに通ったりすると、スパイかと疑われ殺されたりする事だってあるからこうして忠告してんだ」

 怖いという感情よりも、驚きの方が大きかった。
 そんなに危険な場所だとは気付かなかった……いや、気付けなかった。確かに位の高い様な、偉い人達が多いとは感じたが、それが裏社会の人間とはとても想像がつかなかった。青年にこうして言われなければ、私はまたあのバーに通うところだっただろう。
 けれどそれよりも気になって仕方のない事がある。あのバーは組織の人が集まる危険な場所だ。

「……あなたも、そうなんですか?」

 ……なら、この青年は?

 裏社会の人間が集まるバー。其処で出会った青年。
 問うたら私は消されてしまうのだろうか。今までの私ならそそくさと立ち去っただろう。けれど今の私は、うずまきで一度、地下組織の襲撃に遭って危機感覚が鈍ってしまったか、それともこの青年がどうしても自分を殺すと思えなかったのか。どちらにしろ取り返しがつかない問いだった事は明白だ。

「ああ、そうだが」

 その答えは至極単純だった。
 けれど心の奥底で一瞬感じた恐怖は、青年と過ごしたバーでの思い出で殆ど上書きされて消えてしまう。

「思ったより反応が薄いな。まあ、知ったからと言って処分したりとかはしねえから安心しろよ。さっきも言ったが、これは酒のお礼ってやつだ」
「……良かったんですか、私みたいな一般人に教えても」
「組織と言うより、これは俺個人からの忠告だな。それより作家さんよ、そっちこそもう完全に逃げる機会を失ったけど良いのか?」

 帽子を被り直し、試すような鋭い目で私の反応を伺う青年。けれど、全然酔っていないじゃないか、なんて考えてしまうくらいには、私はこの彼に危機感を持ってはいなかった。

「でも。私にはどうしても、あなたが私を殺すとは考えられなくて」
「……おいおい、そんなに簡単に他人を信用しちまって大丈夫なのか?」

 呆れた様な口調に、ようやく青年の口元が緩んだのが解った。先程の緊迫した雰囲気は何処へやら、これが彼の素なのだろうか。

「そうだ、確か探偵社の奴等と仲が良いとか云ってたな。誰と関わろうが文句ねえが、彼処の太宰って奴だけは絶対信用しちゃ駄目だ。息する様に女を口説くが、ただ一緒に死にてえだけで嘘を吐く最低野郎だからな、甘い言葉かけられても騙されんなよ」
「嗚呼、そこまでご存知なんですね」

 裏社会の人間に、探偵社員の忠告をされたこの状況がなんとも不思議だった。
 あながち間違っても無いの事なのだが。地下組織の情報収集力が優秀なのか、それとも太宰さんが悪い意味で有名なのか。

 ここまで聞いても、本当にこの人が地下組織の人間だろうか。なんて言う疑問が頭に染み付いて離れない。
 もしかしたら、私はもう既に組織の人間に囲まれていて、今から捕らえられる可能性だってある訳だ。あるいは目を付けられて、これからの言動を監視されたりするかもしれない。そんな危険な組織だって居るだろう。
 けれどこの青年が先程見せた人間らしい表情は、私にはどうしても偽りに見えなかったから。

 だから私はこの彼を信用する事にしたのだ。

「じゃ、後は好きにしろよ。あのバーの事はもう忘れることだな」
「…………あの!」

 路地の方へ歩き出そうとした青年を、私は考えるより先に呼び止めていた。

「最後に、お名前聞いても良いですか?」

 その言葉に青年は、驚いた様な視線を此方に向けたが、それも束の間、にっと口角を上げてくるりと私に向き直った。
 組織の人間だと知って、それでも聞くのかとでも云いたげに。

 何時の間にやら雲は晴れていたようで、星々が姿を現して、真夜中の月の光が辺りに降り注いでいた。

「中原だ。……所属はポートマフィア。聞かなきゃよかったなんて云うんじゃねえぞ?」

 声のトーンに合わない内容に驚くが、私は極力それを出さないように青年――中原さんの瞳から目を離さなかった。きっと怖がる状況なのだろうけれど、私は全て飲み込んでただ見つめていた。
 ポートマフィアと云えば、探偵社の皆も度々口にする、この辺りで一番大きい組織。私でも名前を覚えているのだからそれは確かだ。
 私が思っている以上に中原さんは凄い人なのだろう。それでも私は、怖いという思考は持ち合わせていなかった。
 それどころか、道の向こうの開けた景色、満月を背景に外套を揺らしながら立つ、様になったその姿を、美しいとさえ思ってしまう。
 
「私はみょうじなまえです。あの、もし良ければあなたにも私の作品を読んで貰いたくて」
「へえ、中々肝の座った作家さんじゃねえか」

 そんな私の反応が予想外だったのか、中原さんは少し驚いたような表情を見せる。けれどすぐに余裕を含んだ笑みを浮かべた。

「まあそのうちな。もしも、だ。次に会えたらサインのひとつくらい頼むよ」
「……はい! 私のペンネームは……」

 私がそれを言い終わるより先に、彼は黒い外套を翻したかと思うや否や、その後ろ姿はもう既に見えなくなっていた。
 それはあまりに一瞬で唐突だった。

 敦君が危険だと私に忠告したのもポートマフィアだった。その幹部となると、青年は……中原さんは相当強い人なのか。若くして部下をたくさん持つほどとなれば、彼もきっと敦君達と同様に何らかの異能力者なのだろう。

 冷酷な組織だと聞いていたが、どうもその固定観念が揺らいできてしまいそうだ。
 けれどマフィアが危険だと言う話に変わりはない。この感じた事のない複雑な心境を振り払う様に、私は部屋への階段に早足で歩き出した。

 前に太宰さんから聞いた話をふと思い出したが、ポートマフィアの本部は此処からは随分離れた所にあるそうだ。
 私の家の場所からは遠いから、一人の時に巻き込まれたりする可能性は低いと。確かそんな事を言っていた。

「……わざわざ、送ってくれたんだ」

 深夜の月は依然として輝いている。今日くらいは夜更かししても良いだろう。
 部屋に戻った後も、私は暫くの間開けた窓から路地の先を眺めていた。
 ペンネームを伝えられなかったと少し後悔するのは、昼過ぎになって目覚めてからの事だった。

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