最後の夕暮れ


「作之助、私もマフィアに入る」

 この台詞は何回目だろう。夕暮れ、帰り際の作之助を見上げて私はお決まりの台詞を発す。何時もは見せない至極真面目な顔で。

「……止めておけ。なまえには汚なすぎる世界だ」

 そして、作之助からの返答も何時もと同じ。私に倣い真剣な顔でそう云うが、直ぐに優しい笑みで私の頭を撫でる。その手で撫でられると、私が拒否出来ないと解っているから。
 沈む日を背にして笑う作之助を見ていると切なくなって、私は言葉を飲み込むしか無かった。

 それは幾度となく繰り返したやりとり。

 此処は裏社会に程近い──と言うよりも最早接して居る街だ。花屋の娘である私は、此の辺りを担当とする作之助にお世話になっている。
 マフィアの構成員達は定期的に街に顔を出し、私達の店の様子を見て回る。もう作之助とすっかり馴染んだ頃に、彼からマフィアの一員だと告げられても、私は存外簡単に其れを受け入れていた。

 何時もなら、名残惜しそうな顔で此の侭去って行って仕舞う。けれど今日はそれがなんだが厭で、私は作之助の外套の裾を引いた。振り返った作之助は訝しむ様な表情で私を見つめていた。

「……どうした? 寂しいのか?」

 私を包むような暖かい言葉に、目を合わせられない侭頷く。言葉を詰まらせた私の耳には、風の音と鴉の鳴き声しか聞こえない。紡ぐ言葉を探す私を、作之助はじっと待って居てくれた。

「……ねぇ作之助。私は貴方を守りたい。嘗て貴方が、私を守ってくれたように」

 ずっと作之助に言いたかった事だった。

 マフィアの領内と云う事で、此の辺りで銃撃戦が起こるのは稀では無い。
 偶々其の場に居合わせて仕舞い、敵対組織に連れ去られそうになった私を助けてくれたのが作之助だった。
 彼方此方に転がる弾丸、血溜まりの裏路地で、私の手を引いたあの温もり。大丈夫だ、そう云って只泣きじゃくる私を抱きしめてくれたあの手。今でも鮮明に思い出せる。
 あの日から作之助は、私の命の恩人。それと同時に、今度は私が助けたい、そんな思いをずっと抱えてきた。

「……だから、貴方と共に戦いたいの」
「その気持ちは十分嬉しいさ。でも、なまえは此方側に居るべきじゃない」

 引き下がらない私に、作之助は先程見せた真剣な瞳でそう云った。
 大人と子供ではなく、マフィアと一般人でもなく、対等に話そうとしてくれる。作之助のそんなところが大好きだ。けれど同時に、其れでも聞いてほしい思いが有った。

「此処は俺の担当だ。店を守るのも、そして其の店の人達を守るのも、俺の仕事だ。だから、なまえを守るのも俺の役目だ」
「……それでも。マフィアに入れば、私だって強くなれると思うの。私にだって作之助を手伝えるし、支える事だって出来る。その為なら私、銃だって持つ覚悟は有る」

 武器を手にしても、此の手を血に染めても、それでも私は作之助の側に居たい。今度は私が、作之助を守る側に立ちたい。
 確かに私は裏社会に少し接しているけれど、マフィアの全てを知っている訳じゃない。屹度私が想像しているより遥かに汚れた世界なんだろうと、理解している。
 それでも、この命は作之助が救い出してくれた。だから作之助に捧げたいんだ。

「どんなに汚れた世界でも、其処に作之助がいるなら私の居場所。マフィアの一員になれば、私は作之助と対等になれる。守られるだけの存在じゃなくて」

 言いたい事を全て吐き出した、そんな感覚だった。
 作之助は遮る事なく私の話を聞いてくれていた。認めてくれるなんて思っていない。これ以上裏社会で生きる人々を増やしたくない、その気持ちは私にも解る。作之助はマフィアで在りながら、マフィアらしからぬ優しい人だ。知っている。

 ──それでも、隣に居たいんだ。

「……なまえ、聞いてくれ」

 一歩だけ、二人の距離が近付いた。作之助の声が辺りに反響する。

「俺はマフィアに長く留まる心算は無い。──何れはマフィアを辞めて、小説家になりたいんだ。海の見える部屋で、物語を書きたい」
「え? ……私、そんな事聞いてないよ」
「ああ。友人以外、誰にも云っていないからな」

 初めてだ、作之助の個人的な思いを聞いたのは。マフィアに居る友人の話等は何度か教えてくれたが、作之助が如何したいかなんて聞いた事なかった。私には聞けなかった。
 マフィアを辞める事なんて出来るのだろうか。率直にそう思った。だってヨコハマ一帯は、既にマフィアの支配下に在る。何処に逃げたって見付かって仕舞うだろう。
 それとも、作之助はマフィアにとって其れ程重要な人物では無いのか。

「マフィアを辞めたら、俺も一般人だ。なまえも立派な大人になるだろう。そうなれば、俺もなまえも対等だ。同じ立場で──そうだな、一緒に酒でも飲もうか」

 未来に希望を馳せるそんな言葉は、裏社会を感じさせない程明るかった。
 作之助が此処まで考えていてくれた。そして其の未来に私が居る。其れが何よりも嬉しくて仕方なかった。
 驚いて見つめる私に、作之助は満足そうな笑顔を見せた。

「俺は誰も殺さない。どんな雑務だって引き受ける。同じマフィアでも、どうせなら良い人で居たいんだ」
「作之助は凄く良い人だよ、だって……私の様な一般人にもこんなに優しいじゃない」
「有難う。……良い人の書いた本とそうじゃない人が書いた本、なまえはどちらが読みたいか?」

 其れは確かに作之助の意思だった。
 夕日が沈む世界で、私の前に立つ作之助は何時にも増して大きく見えた。尤も、大人と子供の差が在るのだろうけれど、大きくて、頼りがいの在る大切な人の姿。

「……どちらでも無いよ。私は、作之助が書いた本が読みたい。何時までも待つよ」

 私の言葉に、作之助は少し驚いた様な表情を見せる。
 例えどんな本だろうと、作之助が書いたと言うだけで、私にとっては十分の価値が在る。それは確かなことだ。

「なら其れまで、なまえは明るい世界で待っていてくれ。こんな汚れた世界じゃない、素敵な所で。俺も何れ、なまえの所へ行くだろう」
「有難う。待ってるから」
「……そうだ、小説が書けたら、一番初めになまえに読んでもらう事にしよう」
「本当に? それなら、私が皆に宣伝するよ」
「それは助かるな。……だからな、なまえ」

 其処で言葉を切った作之助は、再度優しく私の頭を撫で乍ら続ける。私の大好きな、温かい手で。

「──だから絶対、黒に染まったりなんてするなよ」

 風が止んだ。そう私が感じただけかもしれないけれど、其の音すらしなくなった。鴉の鳴き声も、葉の揺れる音も。
 私に願う様な、縋る様な、懇願する様な……私の見た事の無い、そんな表情で作之助は告げた。
 其れはつまり、私には明るい侭で居てと、暗い世界には入るなよと、そういう事だろう。私はそう捉えた。

 だから、只頷いた。頷く事しか出来なかった。

「良い子だ、なまえ」

 次に私が瞬きした時には、作之助は何時もの笑みを浮かべていて。
 また今度来るからな、そんな言葉を残して、作之助はくるりと背を向けた。
 振り返る事なく、其の侭暗い方へ進む。闇の向こうに消えて仕舞っても、私は暫く其の先を見つめていた。

 途端に浮かぶ寂しい感情を抑えるようにして、私は小さく言葉を溢した。

「──無事で居て、作之助」

 微かに聞こえた声は、風に拐われること無く、静かな夕暮れに反響して消えていった。
 ほんの一瞬の其れが、私には何分もに感じられたのだった。

back top