私はある種の運命じみたものに導かれて、こうして今この高度育成高等学校を目の前にしている。今日は、入学式だ。私は嬉々として門をくぐった。
初めての景色。初めての建物。初めて見る人達。初めて通る道。見るものがたくさんあって、気付けば私は────。
「えーっと。ここ、どこ?」
迷子癖を発動し、ものの数分で見事にロストしていた。目の前にはテニスコートが広がっている。まあ、学校内であることは確かだ。
「えーっと……。どーちーらーにーしーまーしーよーうーかーなーてーんーのーかーみーさーまーのーいーうーとーおーり……こっちか!」
「待て」
私が当てずっぽうで進む方向を決めて歩き始めると、後方から声が聞こえた。誰に向けられた言葉かは分からないがとりあえず振り向くと、一人の男子生徒が立っていた。彼は眼鏡越しに私を見ている。本当に私を見ているのか確かめようとキョロキョロしてみるが辺りには人っ子一人見当たらない。丁度良いので道を尋ねてみることにした。
「あの、私新入生で、道に迷ってしまって。ここどこですか?」
私が首を傾げると、彼は見間違えかと思うほど微かに微笑んで「ついて来い」と言い踵を返した。どうやら私が今さっき選んだ方向は正解とは真逆だったらしい。何はともあれ助かった。別に迷子なんて慣れているけれど、一人じゃないだけで心細さは全くなくなって元気が出てきた。
「私、苗字名前といいます。あなたは何年生ですか?」
「三年、生徒会長の堀北学だ」
「え……えーーーっ!?」
「煩いぞ」
「すみません」
まさかまさかの生徒会長との邂逅に大声で驚きを顕にすると、鋭い眼光で睨まれてしまったので身体を縮めて即平謝りした。どうりで自信に満ち溢れている様が見てとれるわけだ。この存在感も雰囲気も、生徒会長と言われれば納得してしまう。長い物には巻かれろ。故人が残した処世術は活用しなくては損なので、私はこれから彼には逆らわないようにしようと思った。
私がいそいそと付き従っていると、あっという間に一年生用の昇降口に着いた。
「おー! ……えーと、あっちがこっちで、あっちから来たから、つまり明日からはあそこから右行って……」
「……俺の連絡先だ。また何か困ったら連絡していい」
「おお……! ありがたき幸せ!」
私がさぞ不憫な子に見えたのか、堀北先輩は私に連絡先を書き記した紙を手渡してくれた。アナログな方法でちょっと笑うけど、私は入学初日にしてこの学校の生徒会長の連絡先をゲットしてしまった事実に恐れおののいた。私が感激して小刻みに震えているうちにいつの間にか背を向けていた彼に届くよう、少し大きめの声でお礼を告げた。
「あった。D…Dクラスか」
へえ、一学年四クラスしかないのか。昇降口に張り出されたクラス分け名簿を全クラス分写真に収めてから、周囲の流れに乗って階段を登った。みんなが廊下を進んでいく階より上にもまだ階段があって、気になるので後で探検してみようと密かに心に決める。
教室の開け放たれた扉を見てごくりと一つ嚥下する。小学校の入学式なんて覚えてないし、中学は小学校の同級生が殆ど一緒だったから、これほどの緊張はなかなか味わったことがないぞ。それでも私は平静を装いながら教室の敷居を跨いだ。
ざわり、と既に居たクラスメイトが私を見てざわつく──なんてことはなく、教室内が一瞬静寂に包まれ私を凝視する──なんてこともなく、私は特に注目の的にはならないまま教室内に馴染んでしまった。というか、まずどこへ座ればいいのか分からず教室の後ろでぼーっと立ち尽くす。やがて教室の前の扉から入ってきた生徒が教卓に近付いて何かをじっくり見た後、教室を見回すのを見て合点した。私は一度廊下へ出てから前の扉から入り直し、教卓に近付いていけばなるほど、その上には座席表が置いてあった。私は自分の名前を探した。
「……」
見当たらなかった。もう一度探してみよう。
「そ、そんな馬鹿な」
またしても見当たらなかった。私は思わず宇宙猫の目になってしまう。
「どうかしましたか?」
そんな私に鶴の一声がかけられた。教卓から顔を上げると、杖をついた女の子が私と目が合う。学校の近所の女の子だろうか、と一瞬考えてしまうほど背が小さくて華奢だ。だが彼女はこの学校の制服を身にまとっており、発する雰囲気はただならないものだった。ニヒルな微笑みがそうさせるのか、思わず
「え……と、名前が無くて。でも、無いはずないよね。見当たらないの」
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
「苗字名前だよ」
「苗字さんですね。私も探してみましょう」
そう言って彼女は座席表を手に取って目を滑らせた。やがてそれを元の場所に戻し、「ありませんね」と私にすげなく告げる。可憐な少女の口から聞かされた残酷な事実に私は唖然として硬直した。しかし、続けられた彼女の言葉を停止しかけた脳内でゆっくりと噛み砕いていくと、やがて冷や汗が流れ始める。
「もしかすると、苗字さんはAクラスではないのかもしれません」
「……え。Aクラス? ここ、Aクラスなの?」
「はい、ここはAクラスです」
「……!」
私は羞恥心と申し訳なさで取り乱しながらもなんとか自分がDクラスであることと謝罪と感謝を伝えきり、「大変お騒がせしました失礼します」と深く頭を下げてAクラスを後にした。
残念なことに、廊下を走ってはいけない。そんな絶対的なルールが、日本の学校にはある。羞恥心で真っ赤になった顔を俯かせながら私は走り出したいのを我慢して一心不乱に廊下を端から端まで歩いた。
Cクラスの教室とDクラスの教室の境目に辿り着いたところで立ち止まる。深呼吸。それから私は一のDと記載された看板を目視で確認し、その看板が示す教室の開け放たれた扉を見て、ごくりと一つ嚥下してみた。緊張を装いながら正しい敷居を跨ぎ、教室内を見回しながら教卓へ歩き進んで行く。二度目なので自信満々で先程と同じことをするだけだ。教卓の上にある座席表に目を通し、自分の名前を発見した時の安堵感は筆舌に尽くし難い。私が本当にこの学校に受け入れられたのだと初めて実感出来た瞬間である。
指定された席は、窓際の最後尾から二つ目だ。非常に当たりだ。一番後ろの席というのは案外目立つのだ。それに比べて後ろから二番目というのは教師の目に付きにくく最適。加えて窓際とは、なんと最高の席か。もう三年間席替えはよしてもらいたい。
殆どが周囲をそれとなく窺ってそわそわしている教室に、大人の女性が一人厳格そうな雰囲気と所作で入ってきた。
「新入生諸君、私はDクラスを担当することになった茶柱佐枝だ」
彼女は名乗りつつもすらすらと次から次に情報を並べ立てた。初っ端から情報精査が追いつかない。え、クラス替えも、担任交代も三年間無いだと? 初っ端から情報が核爆弾並みにデカ過ぎるんですが。
「この学校の特殊なルールについて書かれた資料を配らせて貰う」
前方から回ってきた二つの冊子の片方を手元に確保して、もう片方を後ろの席の男子生徒に渡す。ちらりと顔を見ると、割と端正な顔立ちだった。タレ目だし私のタイプではないけれど。今のところ、堀北生徒会長が私の中では一番アリだ。迷子で困ってたところを助けてくれたし、眼鏡男子だし、年上だし、生徒会長だし。あれ? あの人、欠点無くない?
「学校内においてこのポイントで買えないものはない。学校の敷地内にあるものなら、何でも購入可能だ」
私がこれからの高校生活を彩る恋愛相手を脳内で見出していると、茶柱先生がとんでもないことを口から発した。
ちょっと待って。は? 「ポイントで買えないものはない」、確かに先生はそう言ったの? あまりに衝撃的で、思考回路がフリーズしてしまった。茶柱先生は更に説明を続けるが、耳半分にしか入ってこない。そのくらい、ポイントの定義が予想外過ぎた。世の中、金銭で買えないものはたくさんある。それは愛とか友情とかいう話ではなくて、他人の所有物や施設の設備などの単純に売り物ではないものだ。しかし茶柱先生は、学校の敷地内にあるものならば何でもと言いきった。それは、明らかに通常の金銭の価値を越えている。もしかすると、金銭では買えないがポイントで買うべきもの、買わなければならないものがある程度存在するということではないだろうか。つまり、金銭のような使い方以外にポイントの使い道があるかもしれないということ。だとすると、一ポイントが一円と同等だなんて鬼畜だ。少し抗議したい。
続いて茶柱先生は、四月分の十万ポイントが各々へ振り込まれていることを説明した。要するに、受験を突破したことに対する評価と、四月分の生活費ということだろう。生活費に十万円は多すぎる。だが、私の中で一円イコール一ポイントのレートが成り立っていないので、ポイントに換算すれば多いとも少ないともいえない。何より、今後の学校生活に対する不安がどんどん膨らんでいく。
説明を終えたらしく茶柱先生が教室を見渡した。私は思わず手を挙げて質問の許可を求めた。
「茶柱先生、苗字です。いくつか質問いいでしょうか?」
「いいだろう。質問内容によっては答えてやる」
「……」
つまり答えてくれない質問もあるのか。予めそんな釘を刺すなんて、まるで生徒に開示出来ない情報が明確に定められているみたいじゃないか。随分と不親切な学校だな。
「まず、一円一ポイントのレート、これは最後まで変わらないのでしょうか? 市井では物価の上昇もありますが」
「問題無い。その差分は国が税金によって賄っている。店で売られている商品はお前の言うところの市井から取り寄せている物だが、この学校は外界と隔絶されていると考えていい」
「分かりました。次に十万ポイントに関してですが、受験合格に対する評価のようなものであるならば、入試の採点結果で与えられるポイントに違いはありますか?」
「ないな。お前達Dクラス全員、また、他クラスの新入生全員一律十万ポイントが支給されている」
「分かりました。それから先生は好きに使えと仰いましたが、ポイントの使い方によってマイナスの評価になることはありますか?」
「ない。ルールに反したり犯罪に手を染めない限りは、な」
先生の回答によって疑問点が解消されていくにつれ、私が考えるこの学校が生徒に許す自由範囲が広がっていく。それはそれでなんだか恐ろしい気もする。まるで、一つの国のようだ。
「最後の質問です。ポイントで買えないものは無いというのは本当ですか?」
「嘘を言ってどうする。まあ、疑いたければ好きにするがいい」
「嘘ならどれほど良かったか……」
「ほう?」
つまりこの国──高育──は、ポイントが絶対的な価値だということだ。なんて恐ろしいシステムを考え出したのだろう、大人達は。それを実行に移し、こうして実現しているなんて一体何が目的なんだと問い詰めたくなってしまう。その表向きは未来ある若者を育成するため。だけどその目的のためだけにここまで大胆なシステムを息づかせることがはたして今の日本に出来るだろうか。
「では、過去のポイント用途別一覧みたいなのを貰うことは出来ますか?」
「質問はさっきのが最後のはずだろう?」
「あ……」
しまったー! 私は無言で静かに着席し、頭を抱えた。慎ましい動作だが、傍から見ても私の落胆ぶりが雰囲気から察せられただろう。まさかの失態である。あれは質問のつもりではなかったのに、「本当ですか」などと無駄な確認をしてしまった自分を殴りたい。
「ふふふ、苗字、お前は面白いやつだな。特別に答えてやろう。答えは、ノーだ」
なるほど、ノーか。つまり、無償で教えてやるつもりはないということかな。ポイントで買えないものは無いという話だから、依頼すれば資料作成してくれるのだろうけれど、高額ふっかけられたら別の方法を探そうかなぁ。
私の独壇場の質問タイムが終わり、茶柱先生が退室して行く。実質ホームルームが終わった途端、「みんな、ちょっといいかな」という一声に続いて素晴らしい提案をした平田くんの顔に泥は塗りたくないけれど、頃合を見計らって私は席を立ち茶柱先生の後を追いかけた。私の自己紹介ならさっきので充分だと思ったし、今茶柱先生を見失えば私が職員室へ自力で辿り着ける可能性は限り無く低いだろう。私がクラスメイトの名前を覚える機会は失ってしまったけれど、有難いことに、誰も私を引き止めようとはしなかった。
「茶柱先生っ、待ってください」
「苗字か。いいのか? 平田が何か提案していただろう」
なんとか見失う前に呼び止めることに成功し、彼女は立ち止まってくれた。
「すぐ戻りますよ。それよりさっきの、過去のポイント用途別一覧のことですけど」
「ああ、お前なら訊きに来ると思っていた」
「ポイントで買うとしたら、いくら必要ですか?」
「そうだな……今、一万ポイントを払えば一週間後に渡してやる。ただし、学校側が把握している情報に限るがな」
「たっか!!!」
つい口をついて出た私の文句は廊下に響き渡った。それを聴いて慌てて口を押さえる。
「そうか。なら諦めろ」
「えぇー」
私は結局悩みながら茶柱先生の後をついて歩き、職員室に着いたところで「買います」と宣言した。室内にいる教師全員にガン見されたことは言うまでもない。
入学式も始まっていないのに早々に思わぬ大金を使ってしまった私は、軽く道に迷いつつも奇跡的に一人で自分の教室に戻ってこれた。幸い、まだ自己紹介の途中のようだ。何故か一部の生徒は離席しているけれど、大半は着席して順番に起立しては自己紹介していた。
「あ、苗字さん戻ってきたんだね。丁度君の番だよ。良かったら自己紹介頼めるかな?」
おっと。これはタイミングが悪かったかもしれないぞ。あと一分長く道に迷っていれば免れたかもしれないのに。自己紹介なんて考えてないよー!
「参ったなぁ……Dクラスの皆さん初めまして。さっき茶柱先生に質問責めした苗字名前です。迷子になりやすいので、辺鄙な場所で見かけたら助けてくれると嬉しいです。青春は一度きりだし、みんなのこと大好きになって一緒に楽しい三年間を送りたいので、よろしくお願いしますっ」
簡単だが、自分としては上手く出来たと思える自己紹介に、クラスメイトも拍手で応えてくれて、なんだかとても嬉しかった。
「えっと、綾小路清隆です。その、えー……得意なことは特にありませんが、皆と仲良くなれるよう頑張りますので、えー、よろしくお願いします」
私の後に順番が回ったのは、私の後ろの席のタレ目くんだ。なんともつまらないオブつまらない自己紹介を披露して、私がせっかく暖めた場の空気を凍らせてくれた。
***
「ねえねえ綾小路くん、さっきの自己紹介じゃ名前しか分からなかったんだけど、好きな女の子のタイプは?」
入学初日、俺がクラスでの自己紹介を失敗した直後、前の席の女子が振り向いて話しかけてきた。確か名前は、苗字名前だったか。茶柱先生相手に臆さずずけずけと質問責めにしていたのが印象的だった。しかもその質問の着眼点の鋭さには驚いた。俺は少し気がかりだった程度だし、逆立ちしても手を挙げて質問するという行動なんて取れない。意図してか図らずかは分からないが、彼女は入学式が始まる前からクラスメイト全員に自らの優秀さを見せつけたわけだ。
というかこれは、ナンパでもされてるのか? いや、違うだろうな。女子の話題提供の常套句のようなものだろうか。それとも苗字特有の、初対面の男への接し方とかだろうか。例えばクラスの男子の好みのタイプの統計を取ったり……いや、ないな。苗字がどういうつもりで問い掛けてきていようと、どのみち俺には女の好みなんて自覚したことがないので答えられない。そもそも、誰かに対して恋愛感情を抱いたことすらないのだから。
「藪から棒だな。初対面のクラスメイトにそんなことを聞いてどうするんだ」
「だって、私の一番の興味関心事が恋愛なんだもん」
「そうなのか。だが生憎、俺はその質問に答えられる材料を持っていない」
「わお。斜め上の回答」
けらけらと楽しそうに笑う苗字。笑った顔はまあまあ可愛いな。入学初日から楽しそうで何よりだ。朝からよほど良いことがあったと見える。
「そう言うなら模範解答を提示してくれ」
「ふむ、そうだねぇ……私は、好きになった人がタイプ、かな」
「なるほどな。じゃあ俺も次からはそう答えることにする」
「好きな人ができたら教えてね」
「……お前はいるのか? 好きなやつとか、気になってるやつとか」
「私ね、実は惚れっぽいんだよね。すーぐ一目惚れしちゃうの。話したことがなくても」
ふと気になって問い掛けてみれば、急に深刻そうな表情をする苗字。なんというか、表情がコロコロ変わるな。俺なんかに話しかけてきて明らかに陽キャだし、陰キャでポーカーフェイスな俺とは正反対だ。自己紹介でみんなのこと大好きになってとかなんとか言っていたが、本人が一目惚れしやすいと言っているし、人を好きになりやすい性質なのかもしれないな、苗字は。なるほど、陽キャと陰キャの違いはそういうところにあるのかもしれない。
惚れっぽくて一目惚れをし易いと聞いて、じゃあ俺のことはどうなんだろう? とふと思ったが、こうして話している今現在一目惚れをされた様子は見受けられない。つまり俺の第一印象としては彼女のお眼鏡に適わなかったらしい。
「そういうことなら入学式は大変なんじゃないか? 今日は何人に一目惚れしたんだ?」
「失礼な! 私けっこう一途なんだよ?」
「惚れっぽいのと一途って、矛盾している気がするが」
「あれ、言われてみればそうかも。でもね、好きになったら一途なんだよ? 最長では五年間片想いし続けたことだってあるんだからね!」
「それはすごいな」
「棒読みじゃん」
「まあ、俺は恋愛がどういうものなのか分からないし、苗字が俺に一目惚れしなくてよかった」
「……えっ?」
「え?」
一拍おいて張った声で聞き返され、思わず反射的にオウム返しをしてしまった。二人で顔を見合わせながらも妙な沈黙が流れている。そこで驚くのがどういう心理なのか、俺には検討もつかない。
「……」
「苗字? ……おい、苗字」
「え、なに?」
教室の端っこでこのまま女子と無言で見つめ合っているわけにもいかないので俺から沈黙を破ることにしたわけだが、まるでさっきまでの会話が無かったかのような返事をされて内心戸惑う。だが苗字の方も、俺が名前を呼んだのを皮切りに視線が定まらず、どこかそわそわとした様子で胸元に掌を当てている。
「いや、何だと問いたいのはこっちなんだが。どうかしたのか?」
「あ、いや、別に、なんでもない、よ」
そう言ってしばし思い詰めたような表情で俯いた後、不意に立ち上がって「ちょっと探検してくる」と言って教室を出ていった。明らかに様子が豹変したが、一目惚れでもされたのか? ……いや、まさかな。
***
居たたまれなくなって席を立った。なんと言って会話を終わらせたか思い出せない。それなのに綾小路くんが視界に収まっている視覚情報だけはやたら網膜の記憶から提供されてくる。雑踏音と雑談で賑わう廊下を無心に進みながら、脳内では綾小路くんの言葉や声が録画再生のように鳴り響いて鼓膜を擽る。自分でも自分が分からない。待って、つまり、やっぱり、私───。
「っ……(どうしようっ……! 好きになっちゃったみたい……!)」
春の風が吹き抜ける誰も居ない渡り廊下でしゃがみこんで頭を抱えた。
私はどうやら、綾小路くんに惚れてしまったらしい。
幸い、入学式の為今日の下校時刻は早くやってきた。部活見学も兼ねているのだろう。けれど私はそれどころではなかったので、校舎の一角で思う存分黄昏ていた。
「綾小路、清隆くん……」
一目惚れをした。中途半端なタイミングだったから一目惚れの定義や概念について協議の余地があるかもしれないけれど、そもそも恋心とはいついかなる時に生まれるかは千差万別なものだ。とにかく、私が綾小路清隆という男の子に恋愛感情を抱いていることは、私がそれを自覚した時点でこの世界における確定事項なのだ。
「苗字が俺に一目惚れしなくてよかった」
綾小路くんがそう言った時、私は強烈な既視感に襲われた。前にも同じことを言われた気がする。けれどそれはおかしい。何故なら私と彼はその時が初対面だったのだから。
「あ、夢だ」
そうだ、確か、夢で見た。ような気がする。それもやけにはっきりした夢だった。夢の中でも、私は確か綾小路くんに恋してしまった自覚を味わっていた。
そういえば前にもこういうことがあった。あれはこの学校を受験すると決める前だ。夢の中の私は、まるでそうするのが運命で定められているかのように当たり前の顔で淡々と、この学校の願書を提出していた。そして、夢の自分に倣うように現実の私もそうした。
今考えれてみれば不思議で奇妙だけれど、そうしなければならないような使命じみたものを感じ、更に必ず合格するのだと前から知っているような気がした。
事実私は合格し、こうして今この学校に居る。まるでこうなることを前から知っていたような奇っ怪な気分だ。今見ているこの景色も、ずっと前に見たような気がするのだ。
入学初日の夜、私はかたい表情で床に就いた。
***
入学式の次の日。昨日のあれから苗字はずっと思い詰めたような表情でどこか心ここに在らずという感じだ。そのせいか、昨日はあんなに気さくな雰囲気だったのに、未だ特定の連むような友達が出来ていないらしい。つまり、俺と同じぼっちだ。ああ、俺の隣にもぼっちが居たな。教室のこの一角はぼっちの聖域か何かか?
「苗字」
「っ、……何? 綾小路くん」
俺が後ろから声をかけると、苗字はお化け屋敷にでも居るような警戒した顔をしてゆっくりと振り返った。笑顔だが、片頬が引きつっている。昨日変な感じで会話が終わったから、放課後堀北に論破された時も苗字のことを友達だと自信を持って言えなかった。席も近いし現状俺の中で一番友達に近いのは苗字だ。だからあわよくばと思ったのだが、この様子だと難しいかもしれないな。
「友達は作らないでいいのか?」
「とも……だち?」
「ああ」
カタコトのような覚束無い口調の問い掛けに頷けば、苗字は徐ろに表情を極端に変化させていった。それはまるで悪魔が巣食う魔界から一気に苦痛のない天界へ行く兆しが見つかったかのように。
「……そっか! 友達!」
悩み事が解決したかのように合点した様子の彼女が理解出来ず、俺は首を傾げた。
思考に集中して周りを気にしている余裕が無い様子の苗字は昨日と同じように俯いて何かを考え込み、やがて意を決したような覚悟を秘めた表情でまた顔を上げて俺を見据えた。そしてひそひそ話をするように手で口の周りを囲んで声を潜め、悪魔の囁きで俺を誘惑してきた。
「綾小路清隆くん、私とセックスフレンドになりませんか?」
真面目くさった真剣な表情で、苗字はそう言った。
「……断る」
危ない。逡巡したせいで返答が瞬き二つ分ほど遅れてしまった。だがよくぞ断った、俺。了承していたら、人生初の彼女を作る前に、それどころか人生初の友達を作る前に、人生初のセックスフレンドを得てしまうところだった。
「えー。友達になろうって言ってるのにぃ」
苗字は今度は声量を抑えず、大袈裟に拗ねた。友達は友達でもセックスフレンド。もとい、セックスフレンドを友達とは呼べないだろう。体裁は悪いし常識的には隠匿するような関係性だ。
「じゃあ彼女にしてくれる?」
苗字が通常の声量で少し不貞腐れたまま大胆なことを言うものだから、周囲のクラスメイトがざわついて視線をこちらへよこした。隣の堀北は聞いていられないとでも言うように逆に席を立って教室を出ていったが。会話が聞こえていた彼らからすると、俺が苗字の友達になりたがらなかったので苗字が俺と付き合いたいと言い出した、そう捉えただろう。なるほど、客観的に聞いても主観的に聞いても意味不明だ。俺は周囲を気にとめつつ、苗字に問う。
「周りに丸聞こえなんだが。それは冗談か?」
「本気だよ。でもダメ元かな」
なるほどダメ元か。俺に指摘されて周囲を見回してもなお平然と告白を続ける苗字はどうやらフられるだろうことを見越していたらしい。フられる前提で誰かに告白するなんて、俺には逆立ちしても出来っこない。改めて俺と苗字の隔たりを実感してしまう。
「好きだよ、清隆くん」
まるでここが人目につくことを意に介していないかのように、真正面から改めて明確に告白された。再びざわっと先程より大きくクラスメイトがどよめくのを感じつつ、俺は突然名前呼びに変わった意味を考える。フられる前提で、ここまで真っ直ぐ気持ちを伝えて、あまつさえ名前で呼ぶ意味。恐らく苗字は、俺が断ったとしても俺との関係を友達として一から築いていくつもりなのだろう。というかなんだ、その表情は。まるで、逃がすつもりはないとでも言うかのような。それにしても、本当に昨日のあの時一目惚れされていたのか、俺。
「ごめんね、困らせた? 昨日、私に好かれなくてほっとしてたもんね。告白されたのは、初めて?」
「そうだが」
「やったぁ、好きな人の初めて、一個ゲットだぜっ!」
苗字は腰に手を当て、Vサインしたもう片方の手をこちらに突き出してドヤ顔でそう言った。それは年頃の乙女が好きなやつに告白するテンションではないだろう。空元気、というやつだろうか。
「苗字、返事は後で──」
「ああ、聞かなくても分かってるから、気を使わなくてもいいよ。その代わり、最初の提案に対する再考を求めます。ただし、拒否されても友達にはなるから!」
やけに押しが強いな。これが陽キャの自己肯定ってやつか。
「……じゃあ友達で」
「やった! これからよろしくね、清隆くん」
「はぁ」
握手された手を見つめて、ミーハーや野次馬が盛り上がっている周囲のざわめきを聞きながらため息をもらした。事勿れ主義としては、選んではいけない友達を得てしまった気がする。