「お、おじゃ邪魔しま、す」
「ああ」
とっちらかりながら入る、初めての清隆くんのお部屋。究極のプライベート空間。五感の暴力が襲った。
「っ……待って!? 自分を律するためにかかる時間を頂戴っ!」
清隆くんの匂いが染み付いた家具、壁、空気。人生初の、男の子の自室。それどころか好きな人の自室。あっ、鼻血出すかもしれない。駄目だ。ちっとも落ち着けそうにないし、どこまでいっても変態にしかなれそうにない。でも、せっかく部屋にあげてくれた清隆くんに嫌な思いなんてさせたくないし、変態だと嫌われたくない。いつかはバレるだろうけど、まだ普通の女の子だと思ってもらいたい。ただの友達としての地位を守り通してみせるぞ。
部屋の隅に座り込み、胸に手を当てて深呼吸を数度行って、瞑想をした。
私の緊張具合を一瞥しても清隆くんはどこ吹く風でいつも通りだ。自分の部屋だからもっと寛ぐかと思ったけれど、清隆くんはそういうタイプではなかったな。
「ベッドだ……」
清隆くんに飲み物をいれてもらっている間、私はベッドに目が釘付けだった。
「清隆くん普段このベッドで寝てるの!?」
「当たり前だろう」
他にどこで寝るんだと言いたげにそう言ってのけた清隆くんから再びベッドに視線を移して私は奇声をあげながら彼のベッドにダイブした。
「他人のベッドで何してるんだお前」
「堪能してる」
「俺のベッドをおかずにしないでくれないか」
「清隆くんこそ、いいの? 清隆くんのことを好きな同級生が清隆くんのベッドの上で無防備に寝転んでるんだよ? チャンスだよ?」
「そんなに襲われたいのか?」
「……」
清隆くんの目がちょっと怖くなったので、楚々として居住まいを正した私だった。
おそらくは男子高校生にしてはあまりに殺風景な部屋で二人、妙な空気を払拭しようと勉強を始めた。
「清隆くんってさぁ、賢いでしょ」
私はふと顔をあげ、難問の解説を終えた清隆くんを見た。罠にかかった鷹はまだ罠にかかったことに気付いていない。それもそうだろう、この後私が問い詰めなければ、罠は罠にはならないのだから。
「別に、普通だ」
「普通の人は、難関大学の赤門を高一の春に解けたりしないよね」
「は?」
清隆くんはなんの問題を尋ねてもすらすら解いてしまう。まるで簡単過ぎると言わんばかりに。かと思えば公式を使うだけの問題を「難し過ぎて分からない」と言い出したりする。どうしてこの人がDクラスに居るのか、不思議でならなかった。そこで私はある罠を仕掛けた。恐れ多くもあの清隆くんにだ。彼がどれほど優秀な頭脳なのかを、私は直感している。それを確かめる、ただそれだけの為に罠を仕掛けたのだ。清隆くんは無警戒だったのか、案外あっさりと罠に引っかかった。呆気ないもので、もしやわざと引っかかったのかと疑ったけれど、その場合の彼の得る利を私には見い出せなかったので思考をそこで放棄するしかなかった。
「私が今教えてもらった問題、一応テスト範囲だけど、先の範囲も混じってる超難関問題だよ」
「そんな問題まで解く必要無いんじゃないか?」
「もちろん、清隆くんの頭の良さのレベルが知りたかったからだよ。清隆くんにしては迂闊だったよね」
「たまたまだ」
「えぇー、そうかなぁ。能ある鷹は爪を隠すっていうし。そうだなぁ、清隆くんが爪を隠してる理由を教えてくれるか、チュウしてくれたら信じるかもしれないなぁ」
あの清隆くん相手に珍しくマウントを取れたつもりでいた私が失言に気付いたのは、顔色を変えないままの清隆くんの顔が十センチの距離まで接近した時だ。清隆くんは私の行動を予測したように逃がすまいと身体を取り押さえ、チュウもとい接吻という行為を実行した。
「これで信じるんだな?」
こんなこと痛くも痒くもないとでも言いたげに涼しい顔をしてそう言ってのけた清隆くんを私は数秒と見ていることが出来ず、思わず顔を覆って途方に暮れた。
「おい、苗字」
「か、帰る」
こんな状況ではとても勉強を続けることなんて無理だと判断し、退室の意思を告げて光の速さで荷物をまとめて無我夢中で部屋を脱出した。
「完、敗……」
どこぞの恋愛漫画のように扉に背を預けてずるずると座り込む。もしかすると腰が抜けているかもしれない。
「ていうか、キス……」
残念ながら、ファーストキスではない。だけど、こんなあっさり、ムードもへったくれもなくキスしてのけるなんて、なんて男なんだ。
私は夕焼けに鼓舞されながらなんとか立ち上がって家路に就いた。今夜は清隆くんの予知夢を視るだろうなと確信した。
はたして私の予想は当たった。その夜視た予知夢は、桔梗ちゃんと清隆くんの屋上への階段付近での出来事だった。夕陽が差し込む様子から考えると放課後だろう。日付はいつのことかな。
「胸、揉んでたな」
受動的にだけれど、清隆くんが桔梗ちゃんの胸を触った。いや、今後触るのか。嫌だな。なんとか阻止出来ないものかな。でも私があの場面に居るのはまずいよね。そもそもいつ起こるのかが分からないから手の打ちようが無い。私はため息を吐いた。
「はぁ。……でも、清隆くんの根暗なとこ、私は大好きだよ」
桔梗ちゃんは「すごく嫌い」といった。正直少し安心した。桔梗ちゃんが事ある毎に清隆くんに健気に可愛い笑顔を振りまくから、こっちは嫉妬心を消化するのにどれほど苦労してきたことか。なのに、実は桔梗ちゃんは清隆くんのことを嫌っていて、それを清隆くんは面と向かって言われるのか。
正直、桔梗ちゃんの裏の顔なんかより胸タッチと嫌いのカミングアウトの方に脳みそもってかれてるよ。というか桔梗ちゃんに裏の顔があって実はそれもホッとしてる。あんな天使みたいな子が下界に存在しているなんて信じ難かったもん。良かった、桔梗ちゃんも完璧じゃなくて普通の女の子みたいで。
「朝一番に清隆くんに言ってあげよう」
時分は丑三つ時。私は欠伸を一つして、二度寝をキメた。
五月も半ばにさしかかった。ここ二週間、クラスの雰囲気はずっとどこかギスギスしている。テストが近いせいもあるけれど、結局話し合いで良い結論が出なかったからだ。
「たうわっ!」
授業中、清隆くんが珍しく大声をあげた。清隆くんの奇声なんて初めて聞いた。一体何が、と振り返ると片腕を押さえる姿。茶柱先生に言い繕った後に鈴音ちゃんを睨み付けている。私はその後もそのことが気になって授業に集中出来なかった。微かに後ろの席から
授業が終わった途端、清隆くんが鈴音ちゃんに掴みかからん勢いで詰め寄って抗議した。清隆くんのいつに無い剣幕。そのシャツの右腕には赤い斑点が見えて、二人の会話の内容を理解するにつれて私は戦慄した。
「やっていいことと悪いことがあるだろ! コンパスはやばいぞコンパスは!」
「ひょっとして怒られているの、私?」
「腕に穴が開いたんだぞ穴が!」
鈴音ちゃんは
「清隆くん、腕見せて」
「俺は見たくない」
「じゃああっち向いてて。────うわ、痛そぉ」
冷静を装って清隆くんの腕を取り、シャツを捲ると真っ赤な血が顔を出した。出血が酷くて傷はほとんど見えない。腕に穴が開いている、としか言い様がない。鈴音ちゃんには後でゆっくり話すとして、ひとまず清隆くんを保健室へ連れて行こう。
教室を出ようとしたところで平田くんがクラスメイトへ向けて勉強会の提案を始めた。あ、これ予知夢で少し視た光景だ。そう、確か今日から放課後五時までこの教室で。希望参加。途中帰宅もあり。こんなところだったかな。
「おい、平田が何か大事そうなこと喋ってるぞ、聞かなくていいのか?」
私が構わず教室を出ると、清隆くんは振り返りながらそう言った。
「大丈夫、何て言うか覚えてるから」
「……それはどういう意味だ?」
あ、まずった。
「えっと、平田くんには予め聞いてるの。今日から放課後に教室で勉強会開く話」
「そうだったのか」
セーフセーフ。納得した様子の清隆くんを見て胸を撫で下ろし、保健室へ向かった。
だが、私はこの学校の保健室の場所を知らない。お察しである。
「えっと……」
「多分こっちだ」
「清隆くん、保健室行ったことあるの?」
「校舎の見取図を見たことがあるだけだ」
「すごーい、流石清隆くん」
「別にすごくもなんともないが」
二人で並んで歩く。私は付き添いのつもりだったけど、私必要だったか? と思うくらいにまるで何も役に立っていない。
「怪我の原因を訊かれたら何て言うんだよ? やっぱり保健室は行くのやめよう」
突如、清隆くんがそう言いだした。それは確かに考えてなかったな。清隆くんはそんなどうでもいいことを考えられる余裕があるのか。
「痛くないの?」
「痛いに決まってるだろ」
「そうだよね。じゃあ、そんな些細な事気にしないでいいよ」
「堀北にやられたとでも言うのか? 刃傷沙汰なんて、Dクラスの評価は間違いなくマイナスになるぞ」
「もうゼロなんだから関係無いでしょ。とはいえ、体裁が悪いなら事故とでも言えばいいじゃん」
「まあ、それもそうか」
「清隆くんって、鈴音ちゃんに甘いとこあるよね」
「は? どこがだよ」
「うーん、まるで成長を見守る親戚のおじさん……いや、家庭教師みたいな?」
「……」
「あれ? 当たってるの?」
「そんなわけないだろ」
そんな会話をしながらなんとか保健室に辿り着いた。昼休みなのに保健の先生はちゃんと在室で、清隆くんの治療をしてくれた。「事故です」の一点張りにもなんとか深く突っ込まれずに済んだ。
「このまま食堂へ行くか?」
確かに毎日のように一緒に食堂で食べているけれど、そんな風に熟練のカップルみたいな台詞を吐かれたら思わずキュンとしてしまうじゃないか。私はしばし清隆くんに見惚れて呆けてしまったけれど、なんとか頭を働かせようと我に返って
「鈴音ちゃんてまだ教室に居る? ──そっか。分かった、ありがとう。じゃあね」
「堀北と食べるのか?」
「うん。三人で食べよ。鈴音ちゃん、学食の方へ出て行ったって」
「いつもは別々なのに、なんで今日は堀北と一緒に食べるんだ?」
清隆くんにそう問われ、私は頭を捻って改めて考えてみた。そういえば、なんでだっけ? 鈴音ちゃんと三人で食べる予知夢を視ただけで、別にそれと同じ行動を取る必要は無い。むしろ彼女の怪しい提案は避けるべきものじゃなかろうか。結局彼女の試みは失敗に終わるのだし。
食堂に着くと、入口で出待ちしている女子生徒が居た。驚くことに、堀北鈴音だった。彼女が誰を出待ちしているか。否、出待ちではなくそれは待ち伏せであり、標的は私達だったのだ。
「偶然ね。もし良かったらお昼、一緒に食べない?」
次いで鈴音ちゃんは私達に昼食を奢ってくれると言い出した。もうそれだけで怪しい。続けて彼女は、何でも好きなものを頼んでいいと言ったのだ。この時点で怪しさ満点だ。私は丁重にお断りしたのだが、清隆くんは訝しがるもののなんだかんだで無料の昼食にホイホイ釣られている。清隆くんがこの調子だと、どうせ私も結局は鈴音ちゃんに何かさせられることになるだろう。何故なら私が清隆くんと一心同体、運命共同体であろうとするからだ。けれど私は自尊心からなんとなく自払でいつものネギトロ丼を選んだ。清隆くんは高めのスペシャル定食を選んでいた。
「清隆くん、本当にそれにするの? やっぱりやめておいた方がいいんじゃない?」
「だよな」
「怪しいって分かってて奢ってもらったの? ……ねぇ、鈴音ちゃんに対してだけ無警戒過ぎない、清隆くん?」
私が「鈴音ちゃんずるい」とぐちぐち呟いている間に、清隆くんは鈴音ちゃんに急かされ、コロッケにとうとう口を付けてしまった。そのたった一口を待ってましたとでも言うように鈴音ちゃんは饒舌に喋り出す。その様子を見て私はやっぱりな、と思った。
「ほらね」
「苗字、ランチ交換しないか?」
私が肩を竦めると今度は私に非難がましい目を向けた清隆くん。
「お生憎様。私、揚げ物は避けてるから」
「助けてくれないのか? 友達だろ」
「嫉妬で気に入らなかったから、少しは痛い目見ればいいなと思って」
「そんなあっさりと裏切るなよ」
女を味方だからと信用し過ぎてはいけない。これは常識だ。清隆くんは少々、常識に疎いところがあるよね。女とは裏切る生き物なのだ。ただ女にだってそれなりの
清隆くんは仕方無しに再びコロッケを口へと運んだ。それを見て、私はとんでもない失敗をしてしまったことに気付いた。清隆くんとランチを交換していれば、清隆くんの食べかけを食することが出来たのだ。いや、まだ間に合う! むしろ、清隆くんが口を付けた物が増えるまで待つのよ、私!
そして私はお預けを食らった犬のように清隆くんの食事に釘付けになりながら待てを実行した。
鈴音ちゃんの依頼は要するに、あの三馬鹿を勉強会に連れてこいというシンプルなものだった。この勉強会は清隆くんと桔梗ちゃんの努力が鈴音ちゃんの傲慢な態度で水の泡になる結末だ。それを私は数日前の予知夢で視たのだ。そんな無駄なものに私は時間を割くのも嫌だけれど、悪戦苦闘する清隆くんを傍で見たいので、協力するフリだけしておくことにしよう。
「きっ、清隆くん!」
「あ? なんだ?」
エビフライに口を付ける直前ににぴたりと静止し、大きく口を開けた状態で返事をした清隆くん。そんな姿にさえ不覚にもキュンとときめいてしまう。
「えーと、私も協力してあげるから、その、そのランチを……」
「なんか息が荒いぞ。大丈夫か?」
息が荒いのは興奮しているからだ。こんなお預け状態で興奮を抑えるなどどうして出来ようか。
「その、食べかけランチを私に頂戴っ!」
私が勇気を振り絞って訴えれば思いのほか大声が出てしまい、食堂内に響き渡った。心なしか山彦さえ聴こえてくる始末。清隆くんが箸で掴んでいたエビフライをポトリと落とした。そこでハッとして周囲を窺うと、同級生も上級生も関係無くみんなが私を見ている。
「ほぇっ!? あのっ……えっと……その────」
混迷しながら弁解の余地を探していると、徐ろに周囲からの視線は減少し始めたような気がした。それを肌で感じて胸を撫で下ろし正面の清隆くんへ向き直る。彼は自分の食べかけランチと私を無表情で見比べていた。
「貴女変態だったの」
「っご……」
蔑んだ目をした鈴音ちゃんに「誤解だよ」と言繕おうと思ったものの、誤解ではないかもしれないと思い至り続きを紡ぐことが出来ない。
「苗字、本気なのか? 俺としては冗談だと言ってほしいが」
「えと、ごめん。喉から手が出るほど欲しい」
とうとうそう打ち明ければ、二人は同時に表情を強ばらせた。────が、清隆くんだけは強めの瞬きをした後、先程取り落としたエビフライを再び箸で掴んで私の口元へと差し伸べてきた。
「ほら、特別にこれをやる」
しかしそのエビフライは未だ一口も齧られていない真新しいものだ。エビフライ以外の食材は清隆くんの口が付けられていたのに。そのことへの不満を視線と表情に出しつつ、私は大人しく清隆くんのアーンを享受しておくことにした。パクリ、と清隆くんの箸から尻尾ごと奪い取ってみせる。尻尾まで咀嚼しかねない私の食べっぷりを眺める清隆くん。相変わらず無表情だ。引いてる? いや、珍しがってる? ちょっと読み取れないな。しかし、清隆くんの箸口が当たっていた尻尾の一部まで平らげる私を見て彼の口が唖然と開いた。
「ごちそうさま」
「揚げ物は避けてるんじゃなかったのか?」
「背に腹はかえられないじゃん」
「……」
「出来ればそっちのサラダとか味噌汁が欲しいなぁ」
目を輝かせながら期待を込めて強請ってみたが、清隆くんはお盆ごと私から遠ざけて食事を再開してしまった。
「それで、どうなのかしら? 協力してくれるの? それとも私を敵に回すの?」
鈴音ちゃんが何事も無かったかのように話を再開する。周囲の人達も、一部始終を見終えたとでも言うようにざわざわと喧騒が戻っていく。客観的に考えてみれば、私の誤解を生みかねない台詞も──誤解でも何でもないけれど──清隆くんが私に完全体のエビフライを分け与えたことで、私が単純にスペシャル定食自体を食べたがっていたという風に捉えることもできる。清隆くんの行動は私が奇異の目で見られないようにという配慮だったのかもしれない。
いくらか押し問答が繰り返されたが、結局清隆くんがしぶしぶ了承し、鈴音ちゃんが結果を持ってこいと連絡先を渡したところで話は一段落。三人とも食事を終え、もう用は無いと席を立とうとした鈴音ちゃんを引き留めるように声をかけた。
「ところで鈴音ちゃん、さっきの件についてだけど」
「ええ、何?」
鈴音ちゃんは真面目な顔を作った私に応えるように顔を引き締めて再び腰を降ろした。
「鈴音ちゃんはもう清隆くんに近づかないで」
「貴女に指図される筋合いはないわ。貴女の言葉には何の強制力も無い」
「むぅ、これは倫理観の問題だから! どんな理由があろうと、人に刃物を向けちゃ駄目だよ!」
「そうね、それは正しいかもしれない。でも、だからといって私が綾小路くんに近付かないのと何の関係があるの?」
「法律と同じ対処だよ。加害者がこれ以上被害者を傷付けないように、二者を遠ざけるのは当然でしょ?」
「たとえ法や警察にその権限があったとしても、貴女には無いわ。つまり、貴女の言うことを聞く言われはないわね」
「本当に減らない口だね」
「全くだ。……なあ、堀北。反省はしてるのか?」
「……少しね」
おや、さっきまでの憎らしい態度が豹変。清隆くんに対しては随分潮らしいじゃないのよ。少しは罪悪感があるらしい。でも、少しってどうなの? 人を刺しておいて罪悪感が少ししかないって、どうなの? 私的には有罪なんだけどな。清隆くんは可愛い女の子には弱いし甘そうだ。もう既に許しちゃおうかなって雰囲気がダダ漏れだもん。あーあ、やってらんないや。私は一人席を立ち、清隆くんの優し過ぎる逡巡と鈴音ちゃんの小さな謝罪を背中で聞きながら食堂を足早に退散した。
階段を駆け下りて中庭のベンチに崩れ込む。やってられないよ、こんなの。こんな……私の想いが踏み躙られるような惨めで悲しい気分。なのに、あれ、どうして私、……笑ってる? いや、何かの間違いだよ。だってほら、涙じゃん。ああ、楽しいな。これだから恋って何度でもしちゃうんだ。
「くふふふ、ふはっ」
はは、笑ったり泣いたり悲しんだり楽しんだり、自分が分かんないや。
だけど、漠然と分かったことがある。私はおそらく、これからどれだけ傷付こうと、清隆くんに恋することをやめられない。
「楽しみだなあ。清隆くんは、誰に恋をするんだろうね」
彼が私に、どれだけの感情を刻み付けてくれるのか。その期待に胸を踊らせている私がいた。
顔を洗って歯磨きや用足しを済ませて教室へ戻れば、清隆くんが律儀にも早速須藤を勉強会に誘っていた。そんな積極性と行動力があるなら他に友達の一人や二人作れたのではないだろうか。ああ、須藤も一応清隆くんにとっては友達なんだったか。
「テスト前日に一夜漬けすりゃなんとかなんだろ」
清隆くんはそれなりに粘ったが、機嫌を損ねて振り払おうとする須藤。なんて友達甲斐の無い奴なんだ。こんな奴と友達でいたいなんて、清隆くんはどうかしてる。他にもっと友達に相応しい男子がいくらでもいるだろうと思う。今度平田くんとかみやっちとかと引き合わせてあげようかなと頭の隅で考えた。
ついでのように池も誘うが最後まで喋らせてもらえず食い気味に袖にされてしまった清隆くんは失恋でもしたのかというような落ち込みっぷりを演じ、鈴音ちゃんに見せつけながら席へ戻ろうとする。が、我らが冷酷無比な雇い主はそれを認めなかった。
「使えない」
「今聞こえたぞ。何て言った?」
「聞こえたんじゃないの?」と清隆くんにツッコミたいのを私は空気を読んで我慢した。鈴音ちゃんと清隆くんの奇妙で愉快なやり取りが始まったからだ。
「使えない、って言ったの。まさかそれで終わりなんて言わないわよね?」
「そんなわけないだろ。まだ俺には四百二十五の手が残されてる」
キメ顔でそんなことを言ってのける清隆くんがおかしくて、私は喉を鳴らして笑った。清隆くんのたまに炸裂するユニークな冗談はいつも私のツボに入るのだ。そして悔しいことに、清隆くんの真顔冗談モードは鈴音ちゃん相手に最大の力を発揮する。
「例えばこういうのはどうだ? もしテストで満点を取ったら、堀北を彼女に出来るとか。そうすれば間違いなくあいつらは食いつくぞ。男の原動力はいつだって女の子だ」
「死にたいの?」
「いいえ、生きていたいです」
「ブフッ」
真面目なテンションで急に漫才を始めないでほしい。好きな人の前なのに下品に吹き出してしまったではないか。私が笑い転げている間にも漫才は続く。
「じゃあアレだ。キス。満点取ったら堀北にキスしてもらえるとか」
「やっぱり死にたいの?」
「ま、まだまだ生きていたいです」
さっきからなんなのこれ。私は何を見せられているの? 必死に笑いを堪えながら私は二人に抗議した。
「ちょっ……私を差し置いてっ……夫婦漫才しな……っいでよ!」
「笑うか怒るかどちらかにしたら?」
鈴音ちゃんにそう言われて一頻り笑い終えた後、再び真面目な顔を作り直す。……あれ? そういえば──。
「ていうか清隆くん、餌に私の名前は出さないんだ? 清隆くんの頼みなら、よっぽど嫌いじゃない男子にならキスくらい出来るよ? 一週間限定で付き合うとかも」
「お前それ本気……で言ってるんだろうな。頼まないから安心しろ。だってお前は俺のことが好きなんだろ?」
「……え?」
「え? 違ったか?」
まず、口が
「そっ……ぅだけど、……っそうだけどぉーーーー──!」
清隆くんの言葉の肯定を精一杯果たした私はその反動で教室から飛び出して無我夢中であてもなく校舎を突っ走り始めた。だって、だって、清隆くんが私の想いを当たり前のことのように語るなんて、思わないじゃないか。そんな、まるでこれからも好きでいて良いみたいな口ぶりはずるいじゃん。くぅっ。
「もっと好きになっちゃってもいいのかよぉおおおお」
***
「……あいつ、あんな一心不乱に走ったらまた迷子になるぞ────どこ行くんだよ、お前? また迷子になっているんじゃないか?」
声の遠ざかり具合を聞いて心配しすぐ電話を掛けてやったのに、出るなり悲鳴をあげて訳の分からない抗議の後一方的に切られてしまった。苗字曰く、「このタイミングでそんな勘違いさせるようなことしないでっ」だそうだ。全く意味が分からない。
「女の子って何を考えてるか分からないな」
「そうね」
「お前も女の子だろう」
「お前って言わないでくれる?」
「……堀北も女の子だろう」
「そのはずだけれど、死にたくなかったら別の女の子を用意することね」
女の子か。餌役として櫛田に頼むのもいいかもしれないが、とりあえず苗字を迎えに行ってやるか。全く、本当に手のかかる友人だ。いや、この場合手ではなく足か。
苗字は未だにどこぞで喚き続けているようで、声がする方へ進めば簡単に発見出来た。そして「気は済んだか? 教室戻るぞ」と声をかけると、俺の胸ぐらを両手で鷲掴んで揺さぶってきた。無言なのがちょっと怖かった。痛くはなかったが、女の子の取る行動ではないんじゃないか? 俺の周囲の女の子だけ乱暴な気がするのは気のせいだろうか?
***
昼休みは色々あってしばらく冷静でいられなかったけれど、放課後にはすっかり普段通りの私だ。早々に部活へ繰り出そうとする須藤の服を鷲掴んで引き止めた。「あ? 離せよ」と振り返って睨んでくるが、しばし私の話に傾聴してもらおう。
「須藤、池、山内も。ちょっと顔貸して」
「んだよ。俺ぁ部活があんだよ」
「へーそーなんだー。私が良くしてもらってる先輩がバスケ部の部長の彼女なんだけど、知ってた?」
「……」
有無を言わせぬ笑顔で三人を引率し、あまり使われない階段の踊り場で向かい合った。隣には清隆くんも一緒だ。
「ねえ、もし私が明日バスケの試合に出ることになって、一夜漬けでドリブル練習だけして行けば良い勝負くらいは出来るって言ったら、どう思う?」
「ああ? バスケ嘗めてんのか!?」
前触れなく沸点を越えたらしい須藤が私の胸ぐら掴んできた。正直こんな男に無遠慮に触られるなんて虫唾が走るけれど、ぐっと堪えて毅然と睨み返す。
「あんたが昼休みに言ったことと同じでしょ? そっちこそ、テスト嘗めてんの?」
「赤点回避すりゃいいだけなら一夜漬けでどーにでも出来んだよ!」
「あんたは赤点を取るよ。掛けてもいい。ろくに勉強してない人がある程度の点数取れるようなテストを、国立の学校が作るわけないでしょ」
「それは……」
自身の考えが甘いかもしれないと気付き始めた須藤の手が私の服を手放す。それを気にせず私は他人事のように聞いている池と山内を指差して追い討ちをかけた。
「池と山内もよ! あんた達の集中力が一晩ももつはずないでしょ。一夜漬けする根性があるなら、今日から毎日二時間勉強しなさい!」
「苗字の言う通りだな。勉強の仕方が分からないというなら、堀北に教えてもらえばいい」
「う……分かったよ」
池が項垂れるように観念したのを見て須藤と山内も視線を落とした。あとひと押しか。仕方ない、一気に最終手段まで使うか。
「まあそう気落ちせず喜びたまえ男子諸君。なんとDクラスのアイドル櫛田桔梗ちゃんも勉強会に参加してくれるってさ」
「おおお! 本当か!?」
「困ってるクラスメイトを助けるのは当然だって。良かったね、可愛くて優しい子と同じクラスで」
喜びはしゃぎだす三人を見て、清隆くんが耳打ちしてくる。
「おい、いつの間に櫛田を誘ったんだ?」
「誘ってないし、誘うつもりもないよ」
「そんな嘘ついて、バレたらどうする」
「バレたら次の餌を使えばいいよ」
「考えがあるならいいが……」
翌朝、私達は鈴音ちゃんに参加人数が揃ったことを得意げに報告した。「最低限の働きをした程度で鼻を高くしないでくれるかしら」と伸びた鼻をへし折られたのは言うまでもないだろう。
そして放課後、私達は図書館へ集った。
「おい、話が違うぞ。櫛田ちゃんは?」
「そうだぞ! 櫛田が参加するっていうから来たのに」
「ああ、用事があるから後から来るって」
私の嘘を信じてしぶしぶ席についた三人。鈴音ちゃんには予め嘘だと伝えてあるので、彼女はふんっと鼻を鳴らしただけで「席につきなさい。始めるわよ」と言った。この高飛車っぷりはもはや赤の女王も感心するほどだろう。かくして、第一回勉強会は開催された。
しかし、馬鹿でも分かるように勉強を教える才能を持っている人は少ない。鈴音ちゃんもまた然りだ。
「分からない問題があったら、私に聞いて」
「……おい、最初の問題から分からないんだが」
早速一問目から三人共手が止まってしまった。国立の高校に通う生徒が三人も連立方程式の問題で手を止める姿なんて、何度見ても頭が痛くなる光景だ。この後の会話の流れも、桔梗ちゃんの不在を除けば概ね予知夢通りに進んだ。
「清隆くん」
「俺は教えられるような人間じゃないからな」
友達が困ってるのにまだ
「はぁ。しょうがないなぁ」
本来役目を担うはずの鈴音ちゃんは教えるどころか暴言を吐く始末、清隆くんは力不足。それならという消去法で私へ視線が集まったので人肌脱ぐか。
「そもそも、方程式って知ってる?」
「え?」
私がごく真面目な顔で赤点組に問いかければ、顔面に「そこから?」と書かれた池が間の抜けた声をもらした。
「いくらなんでも方程式を知らない人が国立の学校に居るわけ────」
「そうだぜ、馬鹿にすんじゃねぇ! 方程式……あー、聞いたことくらいあるけどよ、改めて訊かれるとどんなんだったか答えられねぇな」
「……」
鈴音ちゃんの常識を裏切って須藤が自らの低能レベルを言外にひけらかした。本人にはそのつもりは無かっただろうが。まんまと意表をつかれたという風に鈴音ちゃんが押し黙ったので、私は自分の考えを伝える。
「ほらね。まず中学の復習から始めるべきだよ」
「信じられないわ。こんなことが……」
「鈴音ちゃん、個人塾に通ったことある? 家庭教師でもいいけど」
「それが何?」
「まず先生は、生徒の学力を把握するでしょ? そしてそれに合わせて目標に向けてカリキュラムを組むの。鈴音ちゃんは昨日まで、彼らの為に一生懸命カリキュラムを組んでいたのかもしれないけど、テスト範囲にこだわって、大事な手順が抜けていたんだよ。まず生徒の学力を把握することが大事じゃないかな?」
「確かに、苗字の言う通りだな」
「鈴音ちゃん、どうする?」
「どうすると訊かれても……学力を把握するなんてどうすればいいのか分からないわ。方程式すら理解していない人達の学力なんて、どこまで遡ればいいのか……」
「どこまでも遡るんだよ。確実に『分かる、知ってる』という範囲までね。まあ、今回のテスト範囲を考えると、図形とかをやる必要は無いけど、いつか時間を見つけて教えてあげたいね」
「面倒見の良いことね。だったら、高校の範囲に追いつくまでは貴女に任せるわ」
確かに、私は鈴音ちゃんほどの高得点を取れるような学力は無いから、前半後半で分担して教えるのはアリかもね。まあ、目標点を五十点に据えるなら私が最後まで教えても良いとは思うけど、鈴音ちゃんに教える意志があるなら任せたい。
「了解!」
教師役の交代を経て、勉強モードは再開された。のだが────。
「櫛田ちゃんまだ〜?」
池の情けない声が聴こえて時計を見ると、三十分が経過したようだった。早くも集中が切れてきたらしい赤点組の三人。やっぱりこいつらが一夜漬けなんか出来るわけがない。一夜漬けを甘く見過ぎである。まだたった三十分だ。休憩を挟んででも、あと二時間くらいはがんばってもらわねば。自分に隠れていたらしい鬼教師ぶりを無駄に発揮して、彼らを鼓舞しながら三人同時に数学の講義をした。
そんなこんなで陽もすっかり傾いてきた頃までかろうじて続いた勉強会。赤点組の彼らの姿勢は見る影もなく、スライムに退化を果たしてしまっている。そろそろいいか、と私は清隆くんに目で合図してメールを送ってもらい、通知音を鳴らしたスマホを操作する真似をして、さも桔梗ちゃんからメールが届いたかのように彼らに告げる。
「残念だけど、桔梗ちゃん今日来れなくなっちゃったみたい。明日はなんとか連立方程式に入れそうだから、また誘っておくね」
私の予想通り、その言葉を皮切りに彼らはやってらんねぇという様子であっという間に帰ってしまった。
「お疲れさま、と言っておくわ」
「ありがとう。正直ほんと疲れたよ〜」
「頑張ったな苗字」
清隆くんに労ってもらう機会なんてそうそう無い。私はキュピーンと背筋を伸ばして頭頂部を彼に差し向け、もっと褒めて撫でろと体現した。「じゃあ私も帰るわ」と去っていく鈴音ちゃんに手を振って、なおもぐいぐいと頭を清隆くんの肩口に擦り付ける。数秒後、やむなしといった具合で遠慮がちにぽんぽんと頭を撫でられる感触に心臓が擽ったさを覚える。そういえば、こんな風に清隆くんに触れてもらったことがあっただろうか。そう思い巡らせて行き着いた記憶は先日の、消去法でされたキスだった。思わず顔が熱くなり、姿勢を戻して清隆くんの手から自ら距離を取った。顔を合わせれば、「どうした?」と問い掛けてくる男の子の声。低くもなく高くもない声も好きだし、私を包み込むみたいに見つめてくれる眼差しも好きだ。初めてしたみたいなぎこちない撫で方も、私が変態でも接し方を変えないところも、好意を享受してくれていたことも。そして、優しいキスも。全部。好きだ。夕陽に照らされたせいで顔を出したのかもしれないそんなセンチメンタルを数秒かけて味わいきってから、瞬きの一瞬で心の奥へと閉じ込める。私はニッと悪戯に笑って挑発した。
「思い出してたの。またあんなチュウしてくれないかなーって。図書館でこっそりとかロマンチックじゃない? あっちの奥の本棚の死角で壁ドンされながらされてみたいな〜。キャーっ」
好きな人とのキスの感触なんて数日やそこらで忘れられるはずがない。まだ思い出すだけで唇に熱がぶり返す。私の身体の部位で、唇だけが一番確かな彼の温度を知っている。
「あのな苗字、友達は普通、キスはしないと思うぞ」
「そうだね。でも私は清隆くんと恋愛してるつもりだから。清隆くんに恋愛感情を抱いていて、清隆くんを振り向かせようと躍起になってて、清隆くんがそれに反応してくれるなら、これは私が清隆くんを落とす恋愛ゲームだよ」
「ゲームか。俺がお前に惚れたら俺の負けか。じゃあ、俺がお前に惚れなければ俺の勝ちだな?」
「それはそうだけど、清隆くん、一生このゲーム続ける覚悟はあるの?」
「一生とは?」
「私、どこまでも清隆くんを追いかけると思うよ。清隆くんが誰かと結婚しても諦められないかもしれない。逃がさないよ」
「恐いこと言うなよ」
「なら早めに私を好きになってね」
キスはお預けのようだ。でも二人寄り添い合って帰路につく光景は傍から見たら完全にカップルだと認識して上機嫌になり、時々スキップしてしまいながらオレンジ色の道を帰った。
翌日の放課後も勉強会は開催された。今日の餌も一応桔梗ちゃんを使うことにしたが、それが失敗だったらしい。図書館に現れるなり池達が、すごい剣幕で抗議してきたのだ。
「おいっ! さっき櫛田ちゃんに『今日は勉強会来る?』って訊いたら、『勉強会? 訊いてないけど』だって! どういうことだよっ!」
「ありゃ〜。もうバレちゃったのか」
「ほらみろ」
テヘペロする私を胡乱げに責めてくる清隆くん。そういう目を向けられるのもたまらないのだが、分かってやっているのだろうか。私は空気を読んで清隆くんに抱き着きたい衝動を我慢して、鈴音ちゃんに予め謝罪を入れておく。
「鈴音ちゃん、ごめん。桔梗ちゃん来るかも」
「は? 何故? 貴女昨日は彼女を誘ってないって」
そう、私は櫛田桔梗の名前を餌に使ったが、そのことを本人に伝えていない。彼女の耳に入れば、この勉強会に参加したがることは知っていたからだ。私はこれでも鈴音ちゃんの味方なのだ。
しかし、早くも今日勉強会の存在を知られてしまったらしい。おそらく、それを聞きつけた彼女は今日にも参加しようとするんじゃないかな。
「池、桔梗ちゃん、何か言ってなかった?」
「ああ、櫛田ちゃんも参加したいって」
「やっぱり」
そう話しているうちにも足音が聴こえてきた。軽快で可愛らしい足音だ。足音も可愛いってずるくない? 私も真似しよう。そう思って真剣に足音に耳をそばだてた。
「あ、いたいた、みんな! 堀北さんと、やっぱり綾小路くんと名前ちゃんも居るんだねっ」
餌もといご褒美の登場により、赤点組は色めき立つが、鈴音ちゃんと、彼女の心境を察した清隆くんと私は重い沈黙に包まれた。
「鈴音ちゃん、昨日みたいにならないようにするためには、今日は桔梗ちゃんも一緒でもいいんじゃない、かなー?」
顔色を窺うように説得を試みると、逡巡の末「分かったわ、今日だけよ」とお許しが出た。今日だけも何も、もう次はきっと無いだろう。
「やーめた」
案の定、鈴音ちゃんが教え始めた途端、彼女の傲慢な言動が三馬鹿のなけなしの矜恃を踏みにじった。激しい口論の末、生徒達はやってらんねぇと言わんばかりに全員ボイコットしてしまい早々にお開きとなってしまった。
桔梗ちゃんさえも愛想が尽きたというように帰って行き、鈴音ちゃんが壁を作って私達を追い出そうとする。それならばと清隆くんは帰ったけれど、私はそれより少し長く鈴音ちゃんと一緒に居ようと思った。なんとなくだ。なんとなく、鈴音ちゃんをすぐ一人にしてはいけないような気がしたから。
「鈴音ちゃんが始めた勉強会、二日で終わっちゃったね。どうだった?」
「……ひとに何かを教えるのって、案外難しいのね」
「そうだね。でも、人と関わりたがらない鈴音ちゃんが教えるという方法でクラスメイトと関わろうとしたことは、私すごく、なんていうか、必然的なことだと思うよ」
「だから何?」
「だからどうってわけでもないけど、まず教えることから人に歩み寄ろうとしたことを、覚えててほしいなって」
「貴女は私の保護者にでもなったつもり? 不愉快だわ」
私は目を眇めた。鈴音ちゃんには早く成長してほしいなと思っている。確かに上から目線で、彼女からしてみれば気に食わないだろう。彼女の成長を願うからこそ敢えて無言で応える。彼女はそれすら気に入らないというように眉をしかめ、荷物をまとめて帰ってしまった。
「波瀾万丈だなぁ」
今日までの出来事を思い返して、一人残った図書館の一角で呟いた。それからゆっくりと本棚と本棚の間を歩き回る。
図書館は好きな場所の一つだ。沢山の本と本棚と机と椅子、たったそれだけの空間に囲まれていると、自分が叡智の神様に弟子入りでもしたかのような気分に浸れるのだ。
ふと図書館の窓から夕空を見上げた。すると、私の清隆くんセンサーというか、恋する乙女センサーというか、とにかく視界に入ってきた好きな人を秒で認識する私の驚異的な視力──別に視力自体は良くないのだけれど──。彼は、桔梗ちゃんと一緒に居た。というかまさに、予知夢の構図だった。
「っ……!」
ついに二人の姿が重なり、此処からでは桔梗ちゃんの背中しか見えなくなってしまった。つまり、桔梗ちゃんは今、清隆くんに胸を揉ませているのではないか。私は思わず図書館を飛び出した。走って、走って、走って────。
「はぁ、はぁ、はぁ……。ここ、どこ?」
完全に道が分からなくなって立ち止まり、肩で息を繰り返す。確か、あそこは屋上への階段だ。つまり、上へ登ればいい。しかし、私はまだ校舎にすら入れていなかった。何故だ。そしてこんな場所は来たことがない。また迷ってしまった。図書館に戻ろうにも、無我夢中で走ったので戻る道も自信が無い。あれ、詰んだ? もうすぐ暗くなるし、早く戻らなければ図書館に残してきた荷物が紛失扱いになってしまう。
「どうしよう」
清隆くんへの連絡画面を開いたまま迷う。なんだか掛けにくい。ううん、むしろ一刻も早く電話して桔梗ちゃんとの逢瀬を終わらせるべきではないか。意を決して私は通話ボタンをタップした。
「清隆くん、探しに来てぇ」
「……今どこだ?」
「うーん、どこだろう。普段あんまり使わない校舎と、普段滅多に使わない校舎の間?」
「分かった。そこを動くなよ」
そこで電話が切られた。
「あれで分かったんだ。すご」
***
通話終了ボタンをタップしてスマホをズボンのポケットに仕舞った。
「名前ちゃん?」
「ああ」
苗字からのいつもの捜索願の電話だ。櫛田が当然のように通話相手を当ててくるが、クラスメイトにはもはやお馴染みのコールとなりつつある。それもこれも、移動教室の前あいつが「トイレに行ってから向かうから先に行ってて」と言うものだから置いて行ったら授業が始まってから俺に電話を掛けてきやがったせいだ。あれがまだ四月だったから良かったものの、今やったらクラスメイト全員に睨まれる事案だぞ。先生に説明する間も遠慮の欠片もないほどコールが続きなんとか電話に出る許可をもぎ取って探しに向かおうと思ったら茶柱先生が苗字の首根っこを掴んで現れるし。一体どうやったらあれほどのトラブルメーカーが誕生するんだか。
えーと、櫛田とは何の話をしていたんだったっけ。俺は記憶を遡ろうとするが櫛田は話題を変えるつもりらしくいきなり核心に触れてきた。
「綾小路くんは名前ちゃんと付き合ってるの?」
「別に、付き合ってない」
「ふーん。蓼食う虫も好き好き。名前ちゃんもモテそうなのに、何でこんな暗くて地味な男が好きなのかな?」
「そこまで言うか。……そういえば、この前『根暗なとこが好き』って言われたなぁ」
「……ねぇ、本当に付き合う気は無いの?」
「今のところは無い」
「そっか。綾小路くんも
「そうかもな」
まあ、今後彼女の好意を利用することもあるだろうから、俺は酷い男かもな。でも苗字ならそれすらも「別にいいよ」と許してくれそうな気がする。
「じゃ、約束は守ってね。また明日っ」
普段教室で見せている表の顔の櫛田に手を振られながら、俺達は分かれた。しばらく櫛田の背中を見送っていたが、踵を返して迷子の捜索へ向かうことにした。
苗字名前は一言では語り尽くせない人物だ。計算もあるかもしれないが甘え上手で人目を惹きつけるオーラを持っていて、誰からも好かれやすい。人懐っこく、苗字自身がみんなを好いていることが伝わってくるからだろう。櫛田ほどの人気はなく軽井沢ほどの統率力もないが、何故か人の興味を引きやすい不思議な雰囲気の持ち主で、好奇心旺盛な奴にはよく話しかけられている印象だ。一人で行動することに不安や抵抗は無いようだし他人や雰囲気に流されるということも無い。俺としては好意を向けられている分、都合が良い存在ではある。
それから、彼女はネギトロ丼が大の好物らしい。食堂には何十種類ものメニューがあるのに、まるでそれしか目に入っていないかのように一切迷う様子無く即断で選んでいる。最初こそいくつか他の定食やらを試していたようだが、四月の十日あたりからは毎日ネギトロ丼だ。かれこれ二十三日連続注文記録を更新中である。昼飯だけとはいえ、驚異的な数字だ。来る日も来る日もネギトロ丼を見なければならない俺の身にもなってほしい。
とはいえ、女の子にこれほど一途な想いを向けられるのは男として悪い気はしない。というかもはや友達というより付き合っていると言った方がしっくりくるくらいの関係になっているかもしれない。俺に恋愛感情は無いが、アレだ、友達以上恋人未満とかいうやつかもしれない。むしろ、俺がヤらせてくれと言ったら二言返事で了承してくれるだろうと思えるくらいにはあいつは俺にご執心だ。キスだって、あっちから強請ってくるくらいだし。あれ、もうこれ、付き合っているといっても過言じゃないな? こんなことなら、入学式の日に付き合っておけば良かったかもしれないな。なんて調子に乗ってしまった次の日には、朝一番に顔を合わせるなり「清隆くんの根暗なとこ、私は大好きだよ」とディスってきた。嫌味かと尋ねればそうではないと言う。「そうか」とだけ応えて俺は少し考えてみたが、キスの翌朝にそんな素っ頓狂なことを伝えてくる理由が全く思い浮かばなかった。苗字の考えていることが分かる日は来そうにもないな。
「(居た)」
俺が予想した通りの場所で、苗字は右往左往していた。大人しく待っていればいいのに、今にも校舎の角を曲がって行きそうなほどそわそわうろちょろしている。そんな捨てられた仔猫みたいに不安がらなくても、毎回ちゃんと見つけてやっているだろうに。
「あ! 清隆くん会いたかったよーっ」
口を開けて名前を呼ぼうするも、俺がまだ声を発さないうちにこちらに気が付いて走り寄って来る。
「あれ? 鞄どうした?」
「ああ、えへへ、図書館」
「まじかよ。もう閉館────」
前触れなく苗字が俺の手を取って、まるでさっきの櫛田とのあれこれを見ていたかのように櫛田と全く同じ動作で自らの胸に押し当ててきた。俺の手も、苗字が触らせた胸も櫛田がそうしたのと同じ方。ついさっきのことがフラッシュバックして、思わず息を呑んだ。
「見てたのか?」
確認するしか出来ない俺に何か言いたげな視線を向けて、苗字は真っ直ぐ見上げてくる。あの階段の踊り場には窓があったから、外から見られた可能性は考えられる。やがてさっき俺が撫でた苗字の頭が縦に振られ、手の拘束も徐ろに解けていく。やはり、櫛田とのアレを見られていたらしい。苗字の制服にも俺の指紋が付いてしまったが、まさか「私とセフレにならなければレイプされたって言いふらすから」とは言うまい。しかしまいったな。どう説明したものか。
「あれは、えーと……」
「言わなくていいよ、別に────」
「別に大した意味は無いから」。続けられたその言葉は嘘か建前か。さっき櫛田と相対していた俺としては簡単過ぎる問題だ。前言撤回、苗字は分かりやすい奴なのかもしれない。確証は無いが、今さっきの行動の意味だって、既に俺の中に答えは出ていた。
「そうか」
櫛田の時はそれどころじゃなかったので胸の感触なんてもう思い出せない。しかし苗字の胸の感触ならまだこの手に残っている。それはきっと明日以降も、思い出そうとすれば思い出せる気がした。