影がおちる
『なあ、ちょっと聞いてくれんか……?』
『何言ってんの? お前、さっきからずっと一人だったじゃん』
さっき一緒に購買に行ってから、仁王の様子がおかしい。誰もいない場所を指さして、「赤也がいた」だの「声をかけたのに反応がなかった」だの、よくわからないことを言っていた。最初はいつもの悪ふざけかと思っていたが、仁王の様子を見る限り、そういうわけではないらしい。教室に戻ってからも仁王は何か言いたそうな顔をしていたけど、俺が真面目に取り合わないからかそれ以上は何も言わず、そのまま昼休みが終わった。
五限が終わり、トイレに行こうかと席を立った。仁王の方をふと見やると、窓際の席のあいつはいつものように昼寝をするでもなくスマホをいじるでもなく、ただぼーっと窓の外を眺めていた。また変なことを言い出さないか心配していたが、さっきよりはだいぶ顔色もよくなっているようだった。とりあえずひと安心して、俺はそのままトイレへ向かった。
トイレへ向かう途中、見慣れたふわふわの頭が視界の端に映った。あ、と思う間もなくすぐに視界から消える。さっきまでのビビりっぱなしの仁王を思い出し、ここは先輩としてビシッと言っておかなきゃだめだよな、と妙な使命感に燃え始めた。わざわざ追いかけるもあれだが、思い立ったらなんとやら――ということで、赤也を捕まえることにした。
赤也の姿が見えなくなった廊下の角まで、早足で歩く。見えなくなってからそんなに経ってないし、すぐに見つかるだろうと思ったら本当にすぐそこにいて拍子抜けした。赤也は、角を曲がってすぐそこにある美術室の、美術部が描いたであろう絵の前に佇んでいた。その表情は真剣そのもので、テニスをしているとき以外でもそんな顔ができるのかと妙に感心してしまった。赤也は集中しているのか、こちらには気づいていないようだった。
「赤也?」
声をかけると、赤也がゆっくりとこちらに視線を投げた。目が合うとへらり、と笑う。よかった、いつもの赤也だ、となぜかほっとする自分がいた。
「丸井先輩。奇遇っすね」
そう言って笑う赤也は、いつもよりやけに落ち着きがある。テニス一筋、テニス以外に興味ないと思っていた赤也が、絵画を目の前に佇むなんて想像がつかず、俺は思わず絵を指さして赤也に尋ねた。
「お前、こういうのキョーミあんの?」
「キョーミ……というか、よくわかんないけどすげーって思って見てたっす。幸村部長、こういうの好きじゃないすか。だから俺もちょっと勉強してみようかなって」
「勉強? お前が?」
赤也の口から似つかわしくない言葉が出てきて、思わず吹き出す。そんな俺を見て、赤也はふくれっ面をして抗議した。
「ちょっと丸井先輩ひでーっす! 俺だって勉強しますよ! たまには!」
たまに、ってところが赤也らしい。ひとしきり笑わせてもらったあとで、そういえばと本来の目的を思い出す。
「さっき仁王が変なこと言っててさ……仁王のやつ、自販機のとこでお前に声かけたらしーじゃん? なのにうんともすんとも言わないって、めちゃくちゃビビってたんだぜ?」
ウケるよな、と仁王の醜態を話しながらおかしくなってつい笑ってしまった。ふと、赤也に目を向けると赤也は絵を見つめたまま、微動だにしない。思わず言葉に詰まった。ざわめきが遠く聞こえる。ひやりとした空気が流れ、夏なのに薄ら寒く感じるほどだった。
きっと幾秒も経ってないはずなのに、一分も二分も経ったように感じる。「赤也?」と呼びかけようと口を開いた瞬間、
「なんちゃって」
赤也はぱっとこっちを向き、にやりと笑う。いつもと変わらない赤也の姿に、さっきまでの気味悪さが一気に吹っ飛ぶ。なんだよ、ビビらせんなよと少しムッとしたが、まあそこはノリのいい後輩のことだから許してやろうと思った。そう一人で納得し、頷いていると「あ、でも」と赤也が続けた。
「俺、自販機のとこなんて行ってないっすよ。昼休みは北階段の鏡の前でうんたら〜っていう噂を確かめてたんで……あ、ジャッカル先輩に会ったから、本当っすよ!」
北階段? 噂? そういえばけっこう前に、柳が言ってたような――。いやそれよりも、自販機のところへ行ってないってどういうことだ?
絡まり始めた俺の思考をよそに、赤也はあっけらかんと「じゃあまた部活で」と言い残し、ぱたぱたと走り去っていった。
一人残された俺は、赤也がさっきまで見ていた絵画へ視線を向けた。鏡と向かい合わせに立つ少女の絵。鏡の前に立つ少女は笑っているのに、鏡の中の少女は泣いている。ただでさえ描いた人の意図が見えなくて気味が悪いのに、さっきの赤也の話も相まっていっそう不気味に思えた。自販機のところへ行ってない、なんて――。
「……じゃあ仁王は誰を赤也だと思ったんだ?」
俺の問いに答える人は誰もいない。ただ、授業の始まりを告げる予鈴だけが、俺を急かすように鳴り響いていた。
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