かすかな綻び


 6限目の美術の授業で、美術室に忘れ物をしたことを思い出した。今日は美術部の活動日だから、部活が始まってからでは美術室に入るにも入れないだろう。だから部活前に取りに行くことにした。
 帰りのホームルームが終わるとすぐ美術室へ向かう。ドアの小窓からこっそり中を伺い、美術部員がいないことを確認してから中に入る。自分が座っていた席に向かい、忘れ物を無事に回収する。そのまま踵を返して戻ろうとしたとき、ドアのところに見慣れた後輩が立っているのを見つけた――赤也だ。赤也も、まさかここに俺がいるとは思ってもいなかったようで、驚いた顔をしていた。

「えっ幸村部長……なんでここに?」
「ふふ、赤也こそ。俺は忘れ物を取りに」

 そう言って回収した忘れ物を振って見せる。筆箱についたキーホルダーがカシャカシャと軽い音を立てた。赤也はにやにやと冗談めかして言った。

「完璧人間の幸村部長でも、忘れ物とかするんっすね」
「俺だって普通の人間だよ」

 ところで、と俺は赤也になぜ美術室に来たのかを尋ねた。やばい、とにやけ顔がさっと青ざめる。

「あー……いや、えっと……そのぉ……」

 歯切れ悪く言いよどむ赤也。赤也の目に視線を合わせると、うっと息を詰まらせる。そして観念してぽつぽつと話し始めた。

「実は、外でスケッチをする課題があったんすけど……外に出たらあったかくて、つい寝ちゃって……気づいたら授業終わってて……それで提出できてなくて……」

 明らかに動揺している。自分の指先をせわしなく弄び、視線を泳がせている。視線の泳いだ先で目が合い、赤也は目をぎゅっとつぶった。

「本当すみません! だから部活に遅れるっす! ちょっとだけなんで許してください! あ、あと真田副部長には内緒にしてください!」

 赤也は手を合わせて、ぺこぺこと頭を下げる。勢いがありすぎてこのまま土下座までしそうな勢いだ。美術室のある廊下は人通りは少ないものの、ゼロではない。傍から見たら後輩を怖がらせている、嫌な先輩に見えるかもしれない。俺は赤也の肩に手を置いて、身体を起こしてあげた。

「真田には言わないでおいてあげるよ」

 そう言うと、赤也はぱっと目を輝かせ「本当っすか? ありがとうございます!」と大きな声で礼を言った。本当に嬉しそうだ。
 赤也は軽い足取りで美術室に入り、スケッチブックが保管されている棚へ向かった。自分のスケッチブックを見つけると、ぱっと取り出す。
 純粋に気になった。赤也がどんな絵を描くのかを。思えば赤也が絵を描くところなんて見たことがない。だから興味があった。

「ねえ、赤也」
「なんすか?」

 俺の呼びかけに振り向き、赤也はきょとんとした顔で俺を見た。

「赤也が描いた絵、俺に見せてくれない?」
「……え?」

 赤也が目を丸くして俺を見つめる。なんで? とでも言いたげな表情だ。確かに、いきなり絵を見せろなんて言われたら驚くだろうな。

「い、嫌っすよ。下手ですもん」

 そう言って赤也はスケッチブックを持つ手に力をこめた。絶対に見せない、渡さないの意志を感じる。そんなことをされたら、どうしても見たくなる。俺も意地になって言った。

「いいの? このこと、真田にばらしちゃうよ」

 自分でも意地悪だと思った。でも、そもそも授業中に寝てしまう赤也も悪い。だから少しくらい、いいじゃないか。
 真田にばらすと言われ、赤也の顔は一気に青ざめた。そしてふるふると震え、うめき、身体にめり込んでいるのではと思えるほどスケッチブックを強く抱きしめる。そして、覚悟を決めたようだ。スケッチブックを俺に差し出した。

「……本当に下手なんで、笑わないでくださいよ」
「笑わないよ」

 そう言って俺は差し出されたスケッチブックを受け取った。ぱらぱらとめくり、赤也が今日描いたであろうスケッチを探す。本当は一枚一枚じっくり見たいけど、スケッチブックを見られている赤也がまるで叱られている小さい子みたいになっているから、やめておいた。
 ぱらぱらと見た絵はざっくりとした大胆な線で、赤也の性格を思わせるようなものだった。だけどページの最後にあった、今日のスケッチはやわらかくて繊細なタッチ。それまでとは別人が描いたような、丁寧に描き込みされた絵だった。

「え……これ、赤也が描いたのかい?」
「当たり前じゃないっすか」
「すごく上手じゃないか。驚いたな、赤也がこんな絵を描くなんて」

 俺が褒めると、赤也の緊張した表情がふっとほぐれた。スケッチブックを閉じて赤也に戻す。それを受け取ると、赤也はにこにこと嬉しそうにしていた。

「じゃあ、俺は部活に行くよ」
「俺、これ出してきます。あと、その……たぶん授業サボったこととか言われると思うんで……」

 赤也がじっと俺を見る。言いたいことはわかるよ、とうなずくと、赤也はにこっと笑って美術室から出ていった。その姿を見送って、俺も部室へ向かった。

 部室へ向かって歩きながら、さっきの赤也の描いた絵を思い出す。あのとき、絵の上手さばかりに気を取られていたけれど、微かな違和感はあった。今日描いたあの絵だけが、目を惹くくらい上手なことについて。
 俺も絵を描くからわかるけれど、いきなりここまで上手くなるということは、まずありえない。何事も地道な練習の積み重ねが上達への一番の近道だから。
 ――まるで、人が変わったみたいだ。
 妙な感じが脳裏を掠めた。その妙な違和感を振り払うように、俺は逃げるように部室へと向かった。


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