空白のつづき


「財前くん、今日一緒に帰らない?」

 七草さんが俺のことを誘ってくれた。本当は飛び上がるほど嬉しい。だけどそれを悟られたくなくて、そっけなく「いいっすよ」と返事した。
 二人で並んで校舎を出る。今日の授業、難しかったね、とかそんな他愛もない話をしながら二人で歩く。俺のしょうもない冗談で七草さんが笑い、その顔を見てやっぱり好きだなあ、と思った。
 駅に着く。七草さんが手を振りながら「また明日ね」と笑う。俺も手を振り返し「また明日」と言ったところで目が覚めた――夢だった。

「……なんだ、夢か」

 ため息をついて、また机にもたれかかる。さっきまでの夢を反芻し、これが現実になったらいいのにな、と思った。
 ふと窓に目をやると、雨が降っていた。天気予報では降らないはずだったのに土砂降りだ。窓を伝う雨粒を眺めながら、傘のことを考えていた。確か折り畳み傘があったはず――。
 突然部室のドアが開いて、誰かが入ってきた。驚いて身体を起こすと、白石部長の姿があった。

「あ、財前。ここにおったんか」

 俺のことを探していたのか。そういえば部室の鍵を預かったままだった。それに雑用も頼まれていた。まあ結局何をすればいいのかわからなかったから、何もしていないが。

「いやー、さっきはいきなりごめんなあ。しかも詳細伝え忘れるとか、ほんまに申し訳ない!」

 そう言って白石部長は手を合わせて謝る。確かになんで自分が、と思ったことは否めないが、そんなに困ることではなかったので「大丈夫っすわ」と返す。俺があまり気にしていないことがわかって、白石部長もほっとした表情をしている。

「てか自分、真面目やなあ」
「え? いや何すか、急に」
「雨降っとるから、今日は部活休みやで? なのに部室来とるなんて、真面目以外の何者でもないやんか」

 「早よ帰りや」そう優しく言って、白石部長は俺を部室から追い出した。そして俺から部室の鍵を受け取り、施錠する。カバンを持っていないので、俺が5限をサボったことは明白だったが、白石部長は何も言わずにいてくれた。「また明日な」と白石部長に見送られ、俺は教室へ戻った。
 もうすでに放課後の時間になってだいぶ経っていたので、教室には誰もいなかった。まっすぐロッカーへ向かい、カバンを回収する。そういえば机の中に教科書を入れたままにしていたな、と思い出し、自分の机へ向かった。
 教科書を机から出したときに、紙切れが落ちた。4つ折りにされたノートの切れ端。何だろう、と思う間もなく無意識に開いていた。そこにはかわいらしい字で「財前くん大丈夫? 体調悪いなら無理しないでね。今度ノート見せるね! 七草より」と書かれたメッセージと、ねこ? のようなイラスト。七草、と書かれたところを見て、一気に顔が熱くなった。
 きっと5限目に俺がいないことを心配してくれたのだろう。そんな些細な優しさですらも嬉しい。俺はそのメッセージを丁寧にたたみ直し、とりあえず制服の胸ポケットに入れた。
 カバンを背負って、そのまま玄関へ向かう。残っている生徒はまばらだ。その中に、今一番会いたいと思っていた人を見つける。さっきの夢を思い出し、一気に心拍数が跳ね上がった。周りに聞こえているのではと思うほど、心臓がうるさく鳴り、緊張で震える手を抑える。その瞬間彼女が振り返り、あっと声を上げた。

「え、財前くんだ!」
「七草、さん」

 緊張で声がかすれる。意識しすぎて変になってないかな、と不安になったが、彼女は気にしてもいないようだ。ふにゃっと笑いながら話し続ける。

「まだ学校にいたんだ。5限目いなかったから、てっきり帰っちゃったのかと思ってたよ」
「あー……いや、ちょっと部活で頼まれ事されて」
「そうだったんだ。体調が悪いとかでは、ない?」
「体調はもう、全然、なんともなくて」
「そっかあ、ならよかった。心配したんだよ?」

 そう言って七草さんは笑った。夢で見た笑顔と同じ、かわいくて愛おしい。と思ったところで、本人を目の前にこんなことを考えている自分に恥ずかしくなった。
 そういえば、もう下校時間をだいぶ過ぎているのになぜ七草さんはここに……? と考えたところで、外を見て納得する。

「もしかして傘、ないん?」
「あ、うん。天気予報、今日に限って見るの忘れちゃってね」
「いや……天気予報でも今日は降るって言ってなかったな」
「えっそうなの? なのにみんな傘持ってるとかすごいなあ。勘ってやつかな」

 困ったように七草さんが笑った。傘なら、俺が持ってる、だから一緒に帰ろう――そう言おうとした瞬間、外を見ていた七草さんがあっと小さく呟いた。俺も七草さんの視線につられて外を見る。

「……あれ、さっきより小降りになってきたかも」

 確かにさっきまでは、地面に打ち付ける雨の粒が目に見えるほどだったが、今は少し落ち着いている。

「……今のうちに駅まで走っちゃおうかな」
「え、走るん?」
「だって、もたもたしてたらまた雨降ってきちゃうかもだし」

 そう言って七草さんは、まるで体育の準備体操のように軽くジャンプをした。よし、と気合いを入れてから、こっちに振り向いた。にこっと笑い、手を振る。

「じゃ、財前くん、また明日ね」

 走りだそうとした七草さんの手を思わずつかんだ。かくん、と七草さんの身体が引き留められる。「えっ」と七草さんが小さく漏らした。

「あ」
「な、何……?」
「いや、え……っと、その」

 傘持ってるから、一緒に帰ろう――自然に誘える絶好のチャンスだと思った。好意とかではなく、これは善意。だから、言え。誘え。勇気を出せ、俺!
 いきなり引き留められたのに嫌な顔は一切せず、七草さんは不思議そうな顔をしてこちらを見ている。その目を見ていると、心臓が口から出そうになるくらいドキドキする。この鼓動が、つかんだ手を通して七草さんに伝わってしまいそうなくらいだった。一息ついて、俺は覚悟を決めた。

「あ、あの……俺、傘持ってるから……一緒に帰り、ませんか」

 自分でも恥ずかしくなるくらい、緊張で声が震えていた。一方の七草さんは、目をぱちくりさせて俺をじっと見つめている。

「いいの?」
「…………はい」
「ふふ、なんで敬語なの? 嬉しい、ありがとう」

 七草さんは嬉しそうに笑っていた。そして、俺がカバンの奥底から折り畳み傘を出すのを見て一言、「私も今度から折り畳みの傘、持ち歩こうかなー」と呟いていた。別に持ち歩かなくてもいい、と言いたかったが、そこまで言うと”善意”ではなくなるから、言わなかった。

「折り畳みやから狭くてごめん。濡れそうになったら言ってくれると助かる」
「全然! むしろ入れてくれてありがとう。財前くんは大丈夫?」
「ん。大丈夫」

 七草さんと一つの傘で歩く帰り道。心臓は相変わらずバクバクと音を立てているし、息が詰まりそうだ。でも一度勇気を出したおかげか、さっきよりは緊張も多少ほぐれ、普通に会話できるくらいまでになっていた。肩が触れるか触れないかの微妙な距離だけど、今はそれが心地よい。
 ふと、さっきの机の中のメッセージのお礼を言っていなかったなと思い出した。

「そういえば、机に手紙入れてくれてたやろ」
「あっ見てくれた? 心配だったから、思わず」
「そうなんや」
「財前くんなら、ノート見せてくれるお友達がいるんだろうなって思ったんだけど……迷惑だった?」

 そんなことない、と首を振ると、七草さんはほっと胸をなでおろしたようだった。

「よかったあ。もしかして、ありがた迷惑だったかなって思ったから」
「むしろ、見せてくれるんなら嬉しいわ。あと、ねこ? の絵もかわいかった」
「……ねこ? あれはねこじゃなくて犬だよ」
「い、犬? だってひげが」
「犬にもひげはあるよ」

 むっと口をむすんだ七草さんが俺の方を見る。あまりにもわかりやすい拗ね方で、俺は思わず笑ってしまった。七草さんがそれを見て驚く。

「な、何?」
「財前くんって……笑うんだね」
「え、今笑ってた? 俺が?」
「しかも無意識だったんだ」
「…………恥ず」

 思わず空いた方の手で顔を隠す。指に触れる頬が熱い。バレてたらどうしよう――そう思う俺とは裏腹に、七草さんは全然俺のことは気にもしていないようだった。ただ俺だけが意識しまくりで、本当に恥ずかしい。
 そんなやり取りをしているうちに、駅に着いた。雨は変わらず降っているが、学校を出たときよりもさらに小降りになっていた。厚い雲の隙間から太陽がのぞき、うっすらと日が差す。それが水たまりに反射して、きらきらとまぶしい。

「財前くん、本当にありがとう」

 七草さんはそう言ってぺこりと頭を下げた。どこまでも真面目な人だ。俺もつられて頭を下げると、七草さんはふふっと笑った。

「また助けてもらっちゃったね」
「……まあ、困ってたら助けるのは当たり前やから」
「前も言ってた、それ」

 そう言われて、そんなことを言ったのを思い出した。言った本人すら忘れていたことを覚えているなんて、やっぱり真面目な人だな、と思った。

「財前くんって優しいね」

 七草さんが微笑む。そんなことない、優しくするのも助けるのもきみだけだ、って――でも彼女が俺をそう思ってくれているなら、今の言葉は胸にしまっておくことにした。
 「何かお礼したい」そう言う彼女に、別にいらないと伝え、改札へ送り出そうと背中を押す。礼はいらない、という俺の言葉を聞いて、七草さんは困った顔をした。なんでお礼する側が困るんだよ。何かないか、と考えを巡らせ、ふと彼女からもらったメッセージのことを思い出す。

「あ、じゃあ今日のぶんのノート、見せてほしい」
「え……そんなことでいいの?」
「だってノートがないと困る。授業に遅れたくないし、赤点も取りたくない」

 七草さんはうーん、と目を閉じて悩んでいたが、諦めたように口を開いた。

「財前くんがそう言うなら……明日ノート持ってくるね」
「ん、よろしくお願いします」

 時計を見ると、電車の時間が迫っている。そのことを七草さんに伝えると、あわてて改札へ向かっていった。改札を抜けて、七草さんが振り返る。「また明日ね!」そう言って軽やかに電車に乗り込んでいった。
 雨はすっかり上がったようで、傾きかけた夕日が俺の顔を照らしている。傘を閉じ、家に向けて歩き出した。空を見上げると、オレンジに染まった空がまぶしい。明日が楽しみだな、そう素直に思える自分が嬉しかった。


top