近づきたい、ただそれだけ


 七草さんが転校してきてから、早くも一週間が経とうとしていた。七草さんはすっかりクラスに馴染んだようで、固定ではないもののそれなりに誰かの隣にいる姿をよく見かけた。
 この間――七草さんを駅まで送り届けたあの日。次の日登校してきた七草さんは俺に気づくなり、「昨日は本当にありがとうね」とお礼を言ってきた。ふわりとやわらかく笑う彼女に胸の鼓動が早まり始める。この気持ちが恋なんだと自覚してからも、恋という曖昧なものに感情を振り回されている自分が妙に気恥ずかしい。彼女と仲良くなりたい気持ちはかろうじてあるものの、それを上回る恥ずかしさもあり、返事なのかなんなのかわからない声を出すだけで俺は精いっぱいだった。そんな無愛想な俺にも、七草さんはふふ、と笑ってくれ、その優しさでまた胸が苦しくなった。
 七草さんがクラスに馴染み始めるにつれ、俺との接点はだんだんとなくなり、一週間経った今では以前と変わらぬ日々になりつつある。もちろん席は前後だから挨拶程度の交流はあるものの、他愛ない話をしたり……ということはなく、あのとき感じた感情は何かの気の迷いだったのではと思うほどだった。まあ、相変わらず七草さんの笑顔はかわいいし、その笑顔を自分にだけ向けてほしい、なんて独占欲もあったりして、もやもやとした気持ちを抱えながら俺は過ごしていた。
 昼休み。アホ男は最近やたらと俺に絡みに来る。転校生が一番の目的だということはバレバレだが、当の本人は一切気にしていない。昼飯も、一緒に食べる約束など微塵もしていないのに、当たり前のように前の席にどっかり座り込んで弁当を広げるから、必然的に昼休みを一緒に過ごすことになっている。
 弁当を食べ終わって暇になったアホ男がおもむろに口を開いた。

「なあ財前」
「……なに」
「いやな、最近の財前、ええ顔しとるなーって思うてな」
「は?」
「いやほら、七草さ、うぐっ」

 目の前のアホ男の口を封じるように脇腹を思いきり手刀で刺して、慌てて後ろの席を確認した。どうやら七草さんは席を離れていたようで安心する。前に向き直るとアホ男は俺の手刀がヒットした脇腹をさすりながらも、にやにやとしながらこっちを見ている。

「やっぱそうなんや、バレバレやで自分」
「うっさいねん。そんなんお前に関係ないやろ。つーか場所考えろ場所」
「おーこわこわ。ムキになるとなおさら怪しいで、財前きゅ、」

 腹いせに、みぞおちにも一発食らわせた。痛みに悶えるアホ男、しばらくそうして黙っていればいい。俺は席を立って教室を出た。背中から俺の名前を呼んで謝る声が聞こえたが、無視してやった。
 あてもなく、とりあえず歩みを進める。何も考えず歩いていたら、いつの間にか部室の前に来ていた。このまま教室に戻るのもなんだか気まずいし、少しの間だけ部室で時間をつぶそうか、と考えてドアに手をかけた。ドアを勢いよく開けようとしたががたん、と動きが止まる。鍵が閉まっている。昼休みなら誰かしらいるだろうと踏んでいたが、今日は珍しく無人だったらしい。やけに静かだ。
 午後の授業もあと一コマ、授業が終わったらアホ男の相手なんてせずに即部活へ行けばいい、と潔く諦めて教室へ戻ろうとすると、見慣れたアッシュの淡い髪――白石部長。白石部長は俺を見つけるなり、ぱっと表情を明るくさせて駆け寄ってきた。

「財前、ちょうどええところに」
「どうしたんすか」
「実はな……」

 白石部長は神妙な顔で、顧問に雑用を頼まれたことを話す。しかも放課後は委員会があるから無理だということも。正直面倒だ、と思った。部長という名の雑用係、さすがにかわいそうだと思ったが、俺が請け負う責任なんて微塵もない。

「なんで俺が。謙也さんにお願いしてくださいよ」
「謙也もなあ、委員会の集まりがどーとかで断られてん。だから、な? 頼むわ」

 白石部長が手を合わせてお願いしてくる。普段から白石部長にはよくしてもらってるけど、それとこれは話が別だ。断ろうとしたとき、白石部長を呼ぶ声が聞こえた。声の方へ目をやると、白石部長のクラスメイトらしき男子生徒が身振りでアピールしている。手招きしているが、白石部長が俺と話をしているのに気づくと、階段を指さし、先行ってるからな、とそのまま行ってしまった。
 ぼーっとその様子を眺めていると、白石部長が慌てた様子で付け加えた。

「すまん、俺これから移動教室なんや。だから財前、よろしく頼むわ。この埋め合わせはいつか! じゃ、」

 そう言ってポケットから何かを取り出して俺の手に握らせる。ちゃり、と手の中で小さく鳴ったそれは部室の鍵だった。部室の鍵、と俺が認識した頃にはもう白石部長はぱたぱたと走っていってしまい、俺は廊下に一人取り残された。

「はあ……なんやねん」

 顧問から何をお願いされたのかわからないまま用を頼まれ、俺は行き場をなくしてその場に立ち尽くした。握りしめた鍵を見て、ため息ひとつ。まあ、教室に戻りたくない気持ちもあったからちょうどよかったと思えば悪くない、そう自分に言い聞かせた。
 ちょうど始業を知らせるチャイムが鳴る。その音に急かされるように俺は部室の鍵を開け、中に滑り込んだ。ひんやりとした空気が肌を撫でる。部屋の中央に雑に集められたミーティング用の机のひとつに座る。ポケットからスマホを出して見ると、通知が来ていた。アホ男から「ごめん! からかいすぎた!」と謝罪のメッセージが入っていたが、既読はつけずそのままスマホの画面を消した。
 部室内はやけに静かだ。自分の心臓の音まで聞こえてきそうなほどの静寂。グラウンドで体育をしているクラスがあるのか、遠くから微かなざわめきが聞こえる。時計の秒針の音と、それだけ。
 机に突っ伏して目を閉じる。午後の授業は出るつもりだったのに、結果的にまた授業をサボることになってしまった。まあ、教科書をなぞるだけの授業なんて出ても出なくても変わらない。後ろの席の例の子は、真面目に授業を受けているのだろうか。
 付き合うとか高望みはしない、でももう少しお近づきになりたい。せめてもう少しやり取りできるくらい、には。今の関係のままは絶対、嫌だ――そうぐるぐると考えているうちに、いつの間にか俺の意識は落ちていった。


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