知らないままではいられない
ぽた、と赤い雫が地面に落ちて赤黒い染みをつくる。鼻から生温い液体が滴り、それが血だと気づくまでに時間はかからなかった。
「え」そう小さく呟くと、近くにいた真田が俺の方を向いた。そして一気に驚きの表情に変わる。すぐそばにあったタオルをつかみ、あわてて俺のもとへ駆けつけ、俺の顔面にそれを押し付けた。その勢いに思わず小さく声が漏れたけど、真田は気にしない。
「座って少し休め、幸村」
ん、と返事をして言われたとおりにベンチに座った。タオルをそっと外して見てみると、怖いくらいに真っ赤に染まっていた。
10分ほどそうしていただろうか。鼻血は依然止まる気配はなく、最初にもらったタオルは血まみれ。真田から2枚目のタオルを受け取ったが、それにも同じ染みができていた。
「保健室に行った方がいいのではないか?」
鼻血が止まらないこと以外に不調はない。たかが鼻血くらいで大げさな、と思ったけれど、真田に言い返したら2倍にも3倍にもなって返ってくるから、おとなしく保健室へ行くことにした。
保健室の扉をノックする。返事はない。放課後だから先生がいないのだろうか。扉にかけた手に力を入れると、いとも簡単に開いてしまって拍子抜けする。開いた隙間から中を伺うが、人の気配はなさそうだった。開いた扉の隙間から、ひやりとした空気が流れ込んでくる。もしかしたら少し涼むことで鼻血も止まるかもしれない、と思ったので中で休ませてもらうことにした。
保健室に入って数歩、手前のベッドにカーテンが引かれていることに気が付いた。誰かがいるのなら無言で入るのもどうか、と思い、声をかけるかどうか迷っていると、カーテンの向こうから声がした。
「誰?」
先生の声ではない。女子生徒のようだ。まさか話しかけられると思わなかったので、驚きで声が詰まる。彼女は返事がないのを不思議に思ったようで、「先生?」と続ける。カーテンがちらりと開いて、俺と目が合う。
「え、幸村精市?」
突然名前を呼ばれて驚く。返事もせずただ立ち尽くす俺を見て、彼女は不審な人でも見るような目つきになる。そして、俺が持っている血の付いたタオルに気づき「え、けが?」と尋ねた。
「あ、いや、鼻血。止まらなくて」
「そうなんだ」
え、それだけ? 別に処置してほしいとは思っていなかったけど、自分から聞いておいてそれ? と戸惑っていると、カーテンが開いて彼女がベッドから出てきた。眠そうに目をこすりながら、たった今起きましたと言わんばかりの様子だ。
「そこの椅子、座って」
彼女が指さした方向に、パイプ椅子があった。どうして、と思ったけれど言われたまま素直に座る。彼女は戸棚に向かい、何かを探して物色し始めた。ああいうのって生徒が勝手に触っていいものなのか、と考えているうちに、いつの間にか彼女の手には氷のうが握られていた。そして次は冷蔵庫へ向かい、氷のうに氷を入れる。彼女の手によって出来上がった氷のうを俺に差し出し、首のうしろを指さした。
「冷やしたら?」
「え……うん」
彼女の言うとおり、首のうしろに氷のうを当てる。ひんやりとして気持ちいい。部活で火照った身体が徐々に冷やされていく。
「あと、新しいのあげる」
そう言って差し出された彼女の手には、真新しいタオル。それを黙って受け取る。血で染まったタオルは、彼女によって手洗い場に置かれた。
「少し下向いて、小鼻を押さえたら早く止まるよ」
「詳しいんだね」
そう言ったが、俺の言葉には答えず、彼女はそのまま手洗い場に行ってしまった。言われたとおりにやや下を向き、小鼻のあたり? を探り探りで押さえる。
水の音だけが、静かな保健室に響いていた。タオルを洗う彼女をぼんやりと眺める。時々、きれいなストレートの髪がひらりと揺れていた。
遠くからはボールを打ち合う軽い音と、ざわめきが聞こえる。みんなは真面目に練習しているだろうか――そう思いながら、目を閉じて遠くの音に耳をすました。
「ねえ、ちょっと」
突然話しかけられ、驚いて顔を上げた。目の前には彼女の顔。思ったより近くて、ドキッとする。思わず目をそらしてしまった。
「よかった。動かないから、気失ってるのかと思った」
「……まさか」
「……でも、顔色悪い」
そう言われて、手洗い場にある鏡で自分の顔を見る。確かに顔色は良くない気がするが、いつも通りと言われればそんな気もする。
彼女はいつの間にかまたベッドに戻っていた。浅く腰掛け、カーテンの陰から俺に話しかける。
「そういえば、鼻血止まった?」
鼻に当てていたタオルをそっと外す。垂れてくる感覚はもうない。タオルに付いた染みも、さっきよりだいぶ小さい。止まったみたい、と伝えると、よかったね、とぶっきらぼうな声が返ってきた。
手にも顔にも乾いた血がこびりつき、口の中は鉄の味がする。俺は立ち上がって手洗い場へ向かった。手と顔を洗うついでに、彼女からもらったタオルも洗ったが、血の染みはきれいに落ちなかった。
「タオル、きれいにならなかったんだけど……」
「別にいいよ、保健室のやつだし。捨ててもいいんじゃない?」
「それは、えっと……いいのかな」
「わかんない」
「なんだよ、それ」
あいまいな返事に、思わず笑いがこぼれる。彼女は相変わらず眠たそうな目をしていたけれど。
廊下からあわただしく走る音が聞こえ、保健室の扉がノックもなしに乱暴に開けられた。真田だ。時計を見るともう部活が終わる時間だった。きっと戻らない俺を心配して、迎えに来てくれたのだろう。
「幸村! 大丈夫なのか」
もう大丈夫だよ、と伝えると、真田はほっと顔をほころばせる。彼女に助けてもらったことを伝えようとしたが、いつの間にかカーテンは閉じられていた。あえて話す必要はないだろう。
真田が持ってきてくれた荷物を受け取り、そのまま一緒に保健室を出る。少し歩いて、そういえば彼女にお礼を言ってないことに気づいた。足を止めた俺を見て真田は怪訝な顔をしたが、忘れ物をしたかも、と真田に先に行くよう伝えて俺は保健室に戻った。
カーテンはさっきと同じ、隙間なくきっちり閉められている。俺はカーテン越しに彼女に声を掛ける。
「あの、さっきはありがとう」
「……別に。たいしたことじゃない」
言い方はそっけないけれど、声色は優しい。なんとなく彼女の顔が見たくなって、カーテンを開けてもいいかと尋ねると「ちょっと待って」という声と、もぞもぞと布団から這い出る音が聞こえた。音がやみ、カーテンがゆっくりと開く。
隙間からのぞいた彼女の目は変わらず眠たそうだった。
「そういえばきみの名前、聞いてなかった」
「……名前?」
「俺は幸村精市。知ってると思うけど」
「……知ってる」
「きみの名前も教えてよ」
彼女は少し考え込むように黙り、そして口を開いた。
「……教えない」
「え、なんで?」
「別に知らなくていいこと、じゃない?」
そう言うと彼女はカーテンを閉めてしまった。
「教えない、か」
思わず笑ってしまった。彼女がそう言う理由も気になったが、何よりも彼女自身のことを知りたくなってしまった。
俺を拒否するように閉められたカーテンに向かって「また来るね」と伝える。返事はもちろんない。少しだけ名残惜しさを感じながら、俺は保健室をあとにした。