甘さを知る日



 昨日はなかなか寝付けなかった。ひとつの傘で一緒に歩いた帰り道を繰り返し思い出し、七草さんとのやり取りを反芻する。今までの空白を埋めるような時間に、いつまでも俺の心臓は高鳴りっぱなしだった。おかげで今朝はこのざま。目が覚めたときにはいつも家を出る時間はとっくに過ぎていて、大慌てで飛び起きた。洗面所で寝癖だけ一応確認して、カバンを引っ掴んで家を飛び出す。家を出てしばらくしてから弁当を忘れたことに気づいたが、戻る時間なんて当然なかったのでそのまま学校へ行くことにした。
 遅刻ギリギリの時間に玄関に飛び込んだ。靴を履き替えながら、全力ダッシュして乱れた呼吸を整える。廊下にはまだちらほらと生徒がいたが、ホームルーム開始のチャイムが鳴ったのを皮切りに一斉に教室に戻っていった。その波に乗って俺も教室へ滑り込む。
 席に着くと七草さんが「遅かったね」とこそりと話しかけてくれた。あんたのせいで眠れなかった、と心の中で思いながら「まあ」と本当の理由をごまかした。
 ホームルームが終わり、七草さんがうしろからすっとノートを差し出してきた。

「財前くん、昨日の約束。ノート、貸してあげるね」

 そう言って七草さんは微笑む。俺はありがたく受け取り、お礼を言った。七草さんを見ると、まだ何か言いたそうな顔をしている。

「どしたん?」
「あ、えっ……とね」

 七草さんがちょいちょい、と手招きする。その手の動きにつられて、彼女に顔を近づけた。七草さんが「あのね」とこそっと俺に耳打ちした。

「今日のお昼、空いてる?」
「え、昼?」

 耳打ちされた衝撃で、思わず質問をオウム返ししてしまった。顔が一気に熱くなるのを感じる。赤面しているところを見られたくなくて思わず手で隠したが、当の本人はきょとんとしていた。俺だけが意識をしていて恥ずかしい。
 確認するわ、と伝えてスマホのカレンダーアプリを確認する。図書委員の当番ではないし、部活の集まりもない――大丈夫だ。予定はすぐにわかったけれど、顔の火照りが収まるまで確認をするフリを続けていた。
 少し火照りが収まったところで「昼、大丈夫」と伝えると、七草さんは嬉しそうに笑った。まったく、こっちも気も知らないで――。

 昼休みになった。授業が終わった瞬間、七草さんの方を振り返る。七草さんはもうすでにランチバッグを用意していて、準備万端のようだ。何も用意していない俺を見て、七草さんが尋ねる。

「財前くん、お昼ご飯は?」
「忘れた。購買で買うつもりやった」
「えっそうだったの? じゃあ早く行かなきゃ!」

 そう言って七草さんは俺の手を取り、購買へ走り出す。突然のことで理解が追い付かず、流されるままに俺も走っていた。
 なぜか俺よりも七草さんの方が張り切っていた。購買に集まる人だかりを見て驚き「早く買わないとなくなっちゃうよ!」と俺を人だかりに向けてぐいぐい押す。七草さんは人の波にのまれた俺を見て「よし!」と呟いていた。何が「よし」なのかはわからないが、なぜか七草さんの得意げな顔だけは想像できた。
 適当に引っ掴んだパンをなんとか買ったあと、人だかりを抜けて七草さんのもとへ戻った。俺の手にあったのはあんぱんと焼きそばパン。放課後部活が控えていることを考えると頼りないメンツだが、とりあえず今腹が満たせればなんでもよかった。七草さんはなぜか俺が持っているパンを見て、満足そうに笑っていた。
 七草さんが「屋上に行ったことない」と言うので、昼食は屋上で食べることにした。屋上に続く階段を上りながら、七草さんの顔を盗み見ると、今までにないくらいわくわくした顔をしていた。そんなに楽しみだったのか、と口元が緩んだ。

「わあ、いい天気」

 屋上の扉を開けて、七草さんが一言。昨日の大雨は嘘のように、どこまでも青い空が広がっている。そよそよと緩やかに吹く風と、やわらかな日差しが心地よい。ここで昼寝をしたら最高だろうな、と思った。
 屋上には俺たち以外誰もいない。ぽつんとひとつだけ置かれたベンチに座って、空を見上げた。本当にいい天気だ。
 七草さんが隣に座り、持ってきた弁当を広げた。動物のイラストが描かれたかわいらしい弁当箱に、きっちり隙間なく詰められた彩りのよい中身。俺の普段の弁当を思い出し、なんてカラフルで女子らしい弁当なんだと思った。じっと見てると、ふいに話しかけられる。

「財前くん、それだけでお昼足りる?」
「え、いやー……どうやろな。部活もあるし」

 購買で適当に買ったパン二つ。今は大丈夫かもしれないが、部活のことを考えると――まあ足りないだろう。でも元はと言えば、寝坊して弁当を忘れた自分が悪い。

「よければ、おかず少しわけよっか?」

 七草さんはそう言うと、こちらの返事を待たずに弁当のふたにおかずを並べ始めた。たまご焼き、ミートボール、プチトマト、きゅうりにハムを巻いたやつ――ふたの上が一気にカラフルになる。それをこちらに差し出した。

「これだけじゃ足りないかもだけど……はい、どうぞ」
「ええの?」
「遠慮してる?」
「……や、そういうわけやないけど……じゃあ、ありがたくいただきます」

 礼を言って、さっそくたまご焼きをつまんだ。ふわっとやわらかくて、ほんのり甘くておいしい。
 七草さんがたまご焼きを食べるところをじっと見てくるので、少し気まずくなって目をそらす。

「……うまいっすわ」
「本当?」
「うちのたまご焼きはしょっぱいからなあ。甘いの、なんか新鮮やわ」
「あっ確かに、関西は出汁の味っていうもんね」
「これが東京の味ってわけですか」

 そう言うと、七草さんは「お気に召したようで何よりです」と笑った。

「……七草さんは、いつも弁当なん?」
「うん、そうだよ。財前くんは?」
「うちも基本弁当。今日は忘れたけど」
「そうなんだ! 財前くんちのお弁当、気になるなー」
「別にフツーやけど」
「えーでも、たまご焼きの味付けは違うでしょ?」

 今度おかず交換しようよ、と七草さんが無邪気に笑う。今度っていつ? またお昼一緒にしてええの? たくさん聞きたいことがあったけど、ぐっと言葉を飲み込んで「ええよ」とだけ答えた。
 そういえば、と言って七草さんは思い出したように手をぽんと叩く。そしてランチバッグから、小さな容器を取り出した。

「これ、渡そうと思ってたの! 昨日のお礼にって」

 そう言いながら七草さんは容器のふたを開ける。中にはいろんな形のクッキーが入っていた。一番上のクッキーはねこ型で、チョコペンで顔が描いてある。

「え、クッキー?」
「私が作ったのなんだけど……嫌じゃなかったら、食べてほしいな」
「全然嫌やない。むしろ嬉しい。え、ほんまにもらってええの?」

 そう言ってから、少し食い気味すぎたことに恥ずかしくなる。でも七草さんの顔を見ると、ぱあっと目を輝かせ、嬉しそうにしていた。

「今、食べてもええ?」

 尋ねると、七草さんはこくりとうなずく。顔の描かれたねこ型のクッキーを手に取る。かわいい。ふと昨日のことを思い出し、七草さんに尋ねた。

「これは……ねこでええんよな?」
「え、ねこだよ? だって、耳がとがってるでしょ?」

 そう言われて、ねこクッキーの耳をじっと見る。まあ、見るからにねこだよな。チョコペンで描かれたひげもある。

「まあ……ねこやな」

 ねこの耳の部分をかじる。ほろっとした食感とバターの風味が広がる。クッキーは普段それほど食べないが、これがおいしいということだけはわかる。まるで店で売っているやつみたいだ。

「うま。これ、ほんまに七草さんが作ったん? 天才やわ」
「天才はさすがに言いすぎ」
「でもケーキ屋とかで売ってるやつみたい。すごいなあ」
「そんなに褒めてくれると思わなかったから嬉しいな。ありがとうね」
「こちらこそありがとう。めっちゃ嬉しいわ」
 
 七草さんはにっこり笑い、それを見て俺も笑う。そんな俺を見て、七草さんが「あ、笑ってる!」と嬉しそうに言っていた。
 昼休みを終えるチャイムが鳴り、二人で教室へ戻る。残りのクッキーは部活の前に食べることにした。そう七草さんに伝えると「財前くんが部活を頑張れますように!」と念を送っていた。よくわからんけど、かわいかった。

 この日の部活はクッキーのおかげで絶好調。白石部長や師範に褒められて嬉しくなったので、金ちゃんに仕掛けられた勝負も受けて立つことにした。負けたけど、清々しい気分だった。金ちゃんに「なんや財前、負けたのに笑っとるで! 変や!」と言われたけど気にもならなかった。
 部活を終えて荷物をまとめているときに、七草さんから借りたノートがふと目に入った。今日のうちに写して返そうと思っていたのにすっかり忘れていた。ノートがないと困るだろうと思って、連絡を取ろうとスマホを開いてから気づく。そういえば彼女の連絡先を知らなかった。
 連絡先、聞いてもいいだろうか――でも、彼女ならきっと快く教えてくれるだろう。明日にでもさっそく聞いてみよう。そわそわする気持ちを抑えながらも、足取りだけはやけに軽い。空を見るときれいな夕焼け。それを見てなんだか七草さんみたいだ、と思った。