ながい時間をかけて準備した資料はゴミ箱に投げ捨てられた。「あ」と思う間もなく、努力の結晶はその一瞬でゴミと化したのだ。本当にこんなことをする人がいるのかと驚愕した。飛んでくる上司の罵声が呪文のように体にまとわりついて、一日中消えなかった。同僚や先輩、後輩の視線が痛かった。
 日が沈んでから何時間経っただろうか。もうフロアに人影はなかった。それもそのはずだ。時計を見ると、もう最終電車が出発した時間だった。

「最悪だ」

 重い足を引きずりながら建物の外へ出る。纏っていた温かさは一瞬で冷気に攫われた。雪が降っていた。どうりで寒いはずだ。
 終電はない。タクシーを拾えばいいのだが、そんな気分ではなかった。徒歩1時間半かかるアパートへ向かって足を踏み出した。
 ただでさえ人通りが少ないこの道には、こんな時間とあって、人の姿が見当たらない。

「さっむ……」

 寒いと人肌が恋しくなるというのは本当だと、名無しは今強く感じた。彼の声が聞きたくなった。一言でもいいから聞きたかった。
 名無しはおもむろに携帯電話を操作し、通話履歴にいとしい人の名前を見つけた。その日付はもう一ヶ月前のものである。名無しが忙しいということで、ずっと連絡を取り合っていなかったのだ。
 彼の名前をタップし通話ボタンを押す。呼び出し音が静かに響いた。

「もしもし、名無しさん?」

 聞きなれた彼の声が鼓膜を揺らした瞬間、喉からなにかが込み上げてきて、目元がカーッと熱くなった。唇が震えて声が出せなくなった。仕事の悔しさや彼への気持ちが堰を切ったようにどんどんと溢れてきた。

「名無しさん?どうかしましたか?」
「…あ、ううん。なんでもない…っ何してるかなって…思っただけ。それじゃ」

 駄目だ。これ以上話すことは出来ない。名無しは無意識に通話終了ボタンを何度も押していた。画面に雪と涙がたくさん落ちた。
 別に恋人なのだから、今日のことを愚痴として聞いてもらってもよかった。きっと真面目な彼のことだから、一生懸命励ます言葉を探してくれるだろう。だが、彼よりも年上ということ、いつもの姿とはかけ離れているということが、それを難しいものにした。









 しばらくぐずぐず泣きながら名無しは雪道を歩いた。もう何が悲しいのかわからなかった。泣いていることが悲しいのかもしれない。
 ふと、人の気配を感じた。前方に目を向けると駆けてくる姿があった。

「なんで来るかなあー…」

 そんなことは思っていない。電話をかけたのも、彼が来てくれるかもしれないという淡い期待が心のどこかにあったからだ。

「名無しさん」

 かなりの距離をかなりの速さで走ってきたはずだが、息は乱れていない。サイボーグだから当たり前のことではある。だが、それに対して微かに乱れる金の髪を見て、名無しはどうしようもなくなった。湧き上がる涙が彼の姿を歪ませる。

「見ないでよー…もう〜…」

 涙で濡れた顔を隠すように、名無しはジェノスの硬い胸にそっとくっついた。初めて彼女の泣き顔を見て少し戸惑った様子のジェノスだったが、胸と同じく硬い腕で名無しの身体をやんわりと包み込んだ。けして温かくも柔らかくもないこの懐かしい感覚に、名無しの胸はきゅっとなった。

「……仕事、お疲れ様です……頑張りましたね」

 慎重に言葉を選んでいるのがわかった。それがとてもいとおしかった。その言葉は雪が肌に降りそそいで溶けるように、心に溶け込んでいった。

「もっと…」
「はい?」
「……強くして」
「……加減が難しいんですよ」

 名無しの言葉の意味がわかったジェノスは、彼女の背中と腰に回した腕に力を込めた。彼女の熱がじんわりと伝わってくる。心地よかった。苦しくはないだろうか、と心配するジェノスを余所に名無しは「もっと…もっと…」と呟きながら泣き続けた。
 しばらくして、涙がおさまった名無しは、真っ赤になった目をジェノスに向けて「ありがとうね」と小さく呟いた。

「いえ。風邪ひかないうちに帰りましょう」
「うん」

 ジェノスが名無しを担ぐか背負って駆ければあっという間に着くかもしれない。だが、そうしなかった。自然な流れで手を繋ぎ、深々と雪が降り積もる道を歩き始めた。

「俺の手、冷たいですよね」
「そんなことないよ」

 名無しが少し手に力を込めると、それに応えるようにジェノスはそっと握り返した。それがとても嬉しかった。
 名無しは今日の出来事や、会えなかった間の出来事を話し続けた。時折笑顔を見せる彼女の姿を見て、ジェノスは安心したように話に耳を傾けた。



20181120.