夕暮れ時、部屋には水が流れる音や、包丁の音が響き、晩御飯の香りが漂い始めていた。

「もうそろそろできちゃうけど、サイタマさん何時頃帰ってくるかな」

 手際の良くフライパンを振りながら名無しは呟いた。空中に抛られた食材は再びフライパンに着地する。

「さあな」

 ジェノスは調理器具を洗いながらぶっきらぼうに答えた。
 二人でこうして台所に立つのは偶のことである。そもそも名無しがこうしてこの部屋に来ること自体多くない。そして料理を作ろうという気になることも実にきまぐれだった。
 普段ジェノスが着けているエプロンを、今日は名無しが身に纏っていた。長い髪は上の方で結われ、彼女がフライパンを振る度に、毛先が白い項の辺りで揺れ動く。少し伏せられた目元は優しげで美しく、形の良い唇は潤いを含み、弧を描いていた。調理器具を洗いつつ彼女をチラリチラリと見つめるジェノスの身体は微かに熱をもった。だが彼はそれには気付かないフリをした。

「ジェノスくん」
「なんだ」
「はい、あーん」

 呼ばれてそちらを向く。彼女は菜箸をジェノスの口元に寄せた。どうやら味見をさせるつもりのようだ。

「自分で食べる」
「いいから」

 ほら、と更に箸を寄せられる。ゴム手袋を外すのも蛇口を閉めるのも面倒だと感じたジェノスは言われるがままに口を開けた。舌に乗っただけで美味しいとわかる。咀嚼をすればその味はより口に中に広がる。そう、彼女は料理が上手いのだ。「美味しい」とジェノスが呟くと、名無しは嬉しそうに微笑んだ。

「私も食べよ」

 そう言って彼女は自らの口にも箸を運んだ。赤い舌が覗く。艶やかな唇が、柔らかそうな頬が形を変える。色白な喉が微かに動き、食べ物がそこを通過するのがわかる。「食べる」という、ただそれだけの行為なのに、どうしてこうも目が逸らせないのだろう。はあ、とジェノスはひとつため息をこぼし、おもむろにゴム手袋を外した。

 その姿を見た名無しは「どうしたの」と声を発しようとした。だがその言葉は彼の唇によって喉の奥に引っ込んだ。突然後頭部に手が回され、ぐい、と引き寄せられた。そして息をする暇もなく唇を押しつけられたのだ。
 啄むような口づけに、名無しは思わず気持ちの良さを感じた。だが、束の間、その口づけは深さを増し、甘ったるく、そして熱をもったものになっていった。脳の奥、体の芯が疼く。酸素を求めて少しでも口を開けばその隙に彼の舌が入り込んでくる。行き場のない名無しのそれは簡単に絡めとられる。丁寧に、形を確認するようにジェノスの舌は名無しの口内を動きまわる。

「んっ……ふ…」

 苦しい。頭がとろけそうだ。ジェノスくんは苦しくないのだろうか、と名無しは疑問に思ったが、彼がサイボーグであることを思い出すのに何秒もかかった。機械の身体であるとは思えないほど、柔らかく、熱く、優しかった。

「く、……るし…ジェノッ…」

 逃げようと彼の胸を押すがビクともしない。もがこうとするが、後頭部と腰に回された腕はそれを許してはくれない。小さな水音が台所に響く。紛れもなく自分の口元から聞こえるものである。それがとんでもなく恥ずかしくて名無しは耳を塞ぎたくなった。
 腰が砕けそうだ。このまま足の力を抜いて床に座り込んでしまいたい。だが、そうしたところで彼の力強い腕が名無しの身体を支えるだけだろう。

「はっ……はぁ…」

 ドン、と名無しがジェノスの胸を叩くと、唇は名残惜しそうに離れた。解放された瞬間、名無しは息をたっぷり吸いこんだ。じんわりと涙が滲む。

「すまない、苦しかったか」

 どう見ても申し訳ないとは思ってなさそうな顔ではある。だが、これはいつものことだ。彼の表情はほとんど変わらないのだ。

「……死ぬかと思った」
「キスで死ぬことはないだろう」
「……そ、そうだけど」

 真っ赤になった名無しの頬に、冷たいジェノスの手が添えられる。ひんやりとした感覚に彼女は目を閉じてうっとりとした。それをキスの合図と思ったジェノスは再び唇を寄せた。ふわりと重なる。思わぬ口づけに少し驚いた名無しだったが、それに応えるようにジェノスの首に腕を回した。

 キスをしながら、ジェノスは以前名無しが言っていた言葉を思い出していた。「こうやって二人で料理するのって、なんか新婚さんみたい」そう彼女は冗談のように、そして少しだけ真面目に呟いた。その時は軽く流したが、こうして彼女に触れる度、彼女との将来に対する期待が膨らみ、心の中を満たす。だがそれに対して脳は冷静で、サイボーグである自分は彼女を幸せにすることはできないと言う。
 こうした時間がいつまで続くかはわからない。言いようのない不安は常にある。だが今はただ、サイボーグとなったこの身でも彼女の料理を美味しいと感じ、それを伝えられることが幸せなのだと思う。
 ジェノスは彼女の身体を抱きすくめ、耳元で名前を囁いた。そうすれば彼女もそれに応えて名を呼んでくれる。それだけで満たされる。それだけでいいのだ。



20181120.