「あれ……白石くん?」
「あっ、えっと……ぐ、具合、大丈夫?俺、保健委員やから今保健室におったんやけど、先生から花倉くんが熱出してるって聞いて」
「ああ、そっか……うん、俺なら平気だよ。心配してくれてありがとう」
彼の声はこんなに魅力的だったろうか、と白石は思った。優しくて、穏やかに鼓膜を震わす心地の良い声。
恋を自覚した途端にそんな風に考えるなんて、あまりに単純かもしれない。今まで白石には恋する乙女というものの気持ちが理解できなかったが、これからはそれも共感できそうだった。
花倉は体を起こし、ぐっと腕を伸ばした。重力に従って長い前髪が花倉の顔を隠すが、白石にはもうそれすら魅力的な姿に見えた。
「あ、花倉くん起きたんだね。体温計を用意するから、もう一回熱を測ってもらってもいいかい?」
「はい、わかりました」
「白石くんも、ありがとね。部活があるのに引き止めちゃって悪いことしちゃったな」
「いえ、そんな!俺ならいつでも委員の仕事しますから、言うてください」
「そうかい?助かるよ、じゃあまた何か頼んだ時はよろしくね」
「はい」
花倉の傍にいたことが自分にとって『悪いこと』だったと花倉に思われるのが嫌で、つい語気を強めて反論した。花倉がそんな風に捉えるかも、そもそもどう思うかも分からなかったが、少しでも嫌な印象を残さないようにする為にはそうするべきだったと白石は思った。
これ以上その場にいる口実が無く、白石は後ろ髪を引かれる思いで保健室を後にした。
もし、花倉くんともう少し仲が良かったら委員という口実が無くても傍で待っていられたのに、と悔しくなる。
*****
その日から、白石の世界は今までよりずっと強く彩られた。
花倉が席に座っているだけで教室は真夏の太陽が差し込んだように明るくなり、授業中に当てられた花倉が静かに教科書を読み上げると、耳の中に美しい花倉の存在が溶け込んできて視界まで恋色で霞むようだった。
白石は、ただチャンスを待つだけの男ではなかった。花倉に近付きたい一心で朝と帰りの挨拶を交わし、本当は分かっている数学や古文の答えを放課後にこっそり尋ねに行ったりした。
アプローチが堂々としていなかったのは、目立つ自分が花倉を気にかけることで、花倉の存在まで目立ってしまうことを嫌ったからだ。
みんな、まだ花倉の魅力を知らない。でも知ってしまったら、花倉の時間を独占したいと考える人が大勢出てくるはずだ。そんなことは怖くて、できることなら花倉にはずっと目立たない存在でいてほしかった。周りの人間は白石をすごいすごいと言うが、白石自身は自分に酔いしれるほどの自信がある訳ではない。だからいつも完璧でいられるよう努力を惜しまず、そんな白石は、自分以外のもっと魅力的な人が花倉に近付いたらあっさりと彼の心を奪われてしまいそうで怖かった。
「おはよう、白石くん」
今日も早いね、と花倉が小さく微笑む。その笑顔と自分を呼ぶ声で、白石は天にも上りそうな思いになった。
花倉は図書委員の委員長で朝早く委員の仕事があるらしく、テニス部の朝練が無い時は必ず彼より早く学校へ着くようにして、心の準備をしながら花倉の到着を待った。
「この間貸してくれた本、ほんまに面白かった。花倉くんて、本選ぶセンスあるなぁ」
「もう読んでくれたの?面白かったなら良かった」
「でも今日、家に忘れてきてもうて。持ってくるの明日でも大丈夫?」
「全然いいよ。いつでも大丈夫だから」
家に忘れたのはわざとだった。そうすれば、今渡さなかった分また会いに行く口実ができる。
二人きりの図書室で、白石はいつも花倉が仕事をする姿を見ながら今日の分の授業の予習をしている。取り組むことが多い教科は理科だ。花倉が理科を得意としていて、傍を通った時に時々教科書を覗いて少しだけ声を掛けてくれる。それが嬉しくて、ほとんど集中できないながらに白石はよく理科の教科書を開いていた。
「白石くん、理科好きだね」
「えっ、あ」
「あれ、違った?よく理科の勉強してるからそうなのかと思ってた」
「ううん、合っとる!理科、好きやで、面白いし……」
「あ、俺と一緒だ。俺も理科が一番好き」
好き、別に自分に言われた訳でもないのに、白石は心臓がきゅうっと痛くなるのを感じた。長い前髪の奥から気まぐれに覗く綺麗な双眼が細められ、それに気付いた白石の頭の中から思考がそっくり抜け落ちてしまう。
「こんな朝早くから開いてるんだね」
「まあ、自習する子もいるし」
ハッと我に帰ったのは、見知らぬ女子生徒が二人、図書室に入ってきた時だった。
あ、白石先輩だ、とそのどちらかが呟いたのを聞いて、白石は慌てて教科書とノートを閉じた。そして席を立ち上がり、花倉から離れる。
「俺、もう教室戻るわ。ほな」
花倉が何か言う前にその場を離れた。女子生徒の会話に耳をそばだてて、彼女たちの興味を確認する。
「白石先輩と一緒にいた人誰?」
「さあ、知らない」
「ふーん、誰だろ……あ、それよりさぁ」
彼女たちの話題が花倉から逸れて、白石はホッと胸を撫で下ろした。
危なく花倉の存在が注目を浴びてしまうところだった。それだけは、やっぱり避けたい。
白石は足早に教室へ戻ると、まだ生徒のいない静かなその場所で、先程見た花倉の微笑みを思い出し一人物想いにふけた。