静かな朝の時間。
二人だけの、ゆっくりとした場所。

朝早い図書室に、この日いたのはHR開始20分前になっても白石と花倉の二人だけだった。普段ならもう少し早い時間に誰かの訪問があり、白石はそれをきっかけに図書室を出ていくのだが、今日はそんなこともなく居たい時間まで傍にいられそうだ。花倉がもう10分程で教室に戻るというので、白石はそれより先に図書室を出ることにした。一緒に教室のドアをくぐったりすれば、好奇心旺盛な謙也が花倉に絡んでしまうかもしれない。

「白石くんの家にカブトムシいるんだ」
「今朝も可愛かったんやで。指から離れなくて」
「あはは、可愛いね。小さい家族がいるっていいなぁ」

ペット、ではなく、小さい家族、と言ってくれて、その何気ない温かな価値観が白石の胸を締め付ける。こうして話をしてみると、彼が本当に素敵な人間性を持つ人ということがよく分かった。考え方や言葉がいつも温かくて、一緒にいると優しく穏やかな気持ちになれる。

こんな時間がずっと続けばいいのに、そう思いながらふと図書室の時計を見上げると、花倉が教室に戻ると言っていた時刻が迫ってきていた。
そろそろ図書室を出なくてはいけない。楽しい時間ほど過ぎるのはあっという間で、時の流れは残酷だと常々思う。

「あ、あの……花倉先輩いますか……?」

その時、二人だけだった図書室に別の誰かの声が響いた。鈴の鳴るような愛らしい声で、花倉のことを探している。見ると、そこには見覚えのない女子生徒の姿があった。遠慮がちに室内を見渡し、はた、とこちらに視線を止めると途端に頬を赤らめる。呼ばれた花倉は立ち上がると、彼女を安心させるような優しい声で「どうしたの?」と声を掛けた。

ズキ、と白石の胸が痛む。花倉くん、優しい声だ。でもそうか、ああやって優しく声を聞かせてもらえるのは、何も自分だけじゃない。分かってたはずなのに。

女子生徒は、図書室のドア前から先へ入ってこようとはしなかった。花倉を呼びかけた場所で恥ずかしそうに俯いて、持ってきていた可愛らしい紙袋に視線を落としている。
それを見た花倉が彼女の方へと歩み寄った。ついさっきまで隣にいた花倉が遠ざかっていく。そのまま花倉があの子のものになってしまいそうで、白石は怖くて二人から視線を逸らした。

「あの、これ、この間のお礼です」
「お礼?」
「はい……この間と言っても、随分遅くなっちゃったんですけど……」

静かな図書室では、二人の会話は意識しなくてもよく聞こえてきた。花倉を前にして彼女が恥ずかしがっているのが声だけで伝わってくる。

「えっと……俺、お礼をしてもらうようなことをした覚えがなくて……。人違いじゃないかな?」
「……先輩、覚えてないんですか?私のことも、全然見覚えないですか……?」
「いや、君のことは見たことあるよ。雨の日に学校の玄関で雨宿りしてた子だよね」

女子生徒が嬉しそうに顔を上げた。

「そうです。そしたら、花倉先輩が傘を貸してくれたんです。これはその時のお礼です」

彼女は、先輩の名前が分からなくてお礼が遅くなっちゃいました、と申し訳なさそうに言った。
そして花倉が、そんなこと気にしなくていいよ、と言いながら彼女から紙袋を受け取る。
全部の辻褄が合って、白石だけが今この瞬間に世界の全てを恨みたい気分だった。

「わざわざクッキー焼いてくれたなんて……、律儀なんだね。ありがとう」
「いえ、そんな。先輩は、優しいですね……やっぱり優しい」

ほうっと彼女の頬が赤く色づくのが、白石の視界に映る。あんな風にいじらしく愛らしい態度を目の前にして、花倉は何を感じるのだろう。想像もしたくないけれど、なんとなく分かってしまいそうで、油断すると涙が溢れてしまいそうだった。

(俺は花倉くんが好きやけど、あの子は、俺よりも先に花倉くんのことが好きやった)

この間、雨の日、傘。
熱で寝込む花倉を保健室で見た時、保健医は彼が熱を出した理由をなんと言っていたっけ。

『なんでも傘を差さないで帰ったとかで、熱が出ちゃったみたいで』

あの前日、花倉は彼女に傘を貸していたのだ。だから自分は雨に濡れて、翌日になって熱を出した。あの時すでに彼女は花倉の優しさに惹かれていたのだろう。雨の日に傘を貸したことがきっかけの、運命的な出会いを、二人がもう果たしていたなんて。

(俺は……花倉くんの『顔』に一目惚れしたけど、あの子は、花倉くんの優しさを好きになって……)

全部負けてる。何も、勝てない。
白石は劣等感に押しつぶされそうだった。外から入った自分、中身から入った彼女。後から好きになった自分、先に好きだった彼女。比べるものではないと、頭では分かっていても心が悔しくて仕方ない。

「白石くん?」

はっと我に返って顔を上げると、心配そうな顔をした花倉と目が合った。あの女子生徒はもうおらず、花倉の手にクッキーの入った紙袋だけが残っている。

「もしかして具合悪い?」
「う、ううん、そんなんちゃうよ。平気」
「それならいいんだけど……」

話している間も、花倉の持っている紙袋にどうしても意識が行ってしまう。
さっきのやり取りで、あの子のことを好きになったりしたのかな。好きにはならなくても、いいなってちょっとは思ったのかな。
恋愛なんて些細なきっかけで始まってしまうことを、人を好きになるタイミングは本当に一瞬であることを、白石は身を持って知っている。だから怖かった。今から言う質問に「そんなわけないよ」って笑って答えてほしかった。

「あの、さ……花倉くんて、好きな人とか、いる……?」

唐突な質問に、花倉は一瞬動きを止めて驚いた顔をした。
けれどすぐにその顔は困ったような笑顔に変わって、歯切れの悪い言葉が花倉から返ってくる。

「いや、えっと……まあ」

耳が少しだけ赤くなっているのが見えた。
白石は花倉の持つ紙袋を視界の端で捉え、そうして、質問したことを泣きそうなくらい後悔した。