隣を歩く花倉を見て、白石は油断すると零れそうになる溜め息を押さえ込んだ。恋愛が人を悩ませ、こうも覇気のない息を吐かせようとするものであることを白石は初めて知った。

二人は理科のノートを持って職員室へと向かっていた。昼休みの廊下には友人らと話し込む生徒たちの姿があり、各教室からは昼食中の雑談が賑やかに聞こえてくる。
花倉が日直で、一人でノートを持っていこうとしていたところを白石がさり気ない仕草で手伝ったのがつい先程のことだ。手伝うという名目があれば、周りの目を気にせず堂々と花倉の近くに行ける。職員室までの短い時間であっても白石にとっては嬉しいことだった。

(でも、せっかく花倉くんとおるのに)

花倉に好きな人がいると聞いてから、白石は一緒にいる時も上の空になることが増えた。彼が何か話すたび、何かに触るたび、その口や指はいつかあの子のものになってしまうんだろうかと、考えたくない想像が思考を侵食して気分を落ち込ませる。そうなってしまうと白石の口数は減り、花倉と過ごしているというのに沈黙でいる時間が増えた。

今日も、同じだ。花倉が隣に歩いているというだけで、いつかこうやって彼の隣を歩くのは……と、また嫌な想像が脳裏にちらつく。落ち込む白石には、せめて彼の前で溜め息を吐き出さないようにするのが精一杯だった。

「先生いるといいね」
「……っえ?」
「ほら、理科の先生って職員室にいないこと多いから。いるといいなあって」
「あっ、う、うん。ほんまに」

理科の先生って職員室に行ってもあんまり見かけないよね、とそんな話をしたのはいつの朝の図書室でだったろう。過去に二人で話したことのある話題を不意に振られると、これまで一緒に過ごしてきた時間を味わうことができて白石はいつも嬉しかった。あの日花倉くんと一緒に過ごしてその話をしていたから今の会話があるんだ、とそんなふうに思えた。
けれど、今はどうだろう。彼との会話にも満足に集中できず、気の利いた返事もできない。喜ぶどころか、自分の至らなさにまた気分が落ち込んだ。

「失礼します」
「お、白石と花倉か。どうした?」
「ノートを届けに来たんですけど……」

職員室に入ってすぐクラス担任の教師が二人に声を掛けた。ふたりが抱えているノートの表紙に『理科』と書かれているのを見て、すぐに担当の教師のデスクの方を振り返った。
視線を追うと珍しくデスクに着座している姿が見える。担任もそれを見るなり、二人にノートを渡してくるよう促した。

「先生、ノート持ってきました」
「ああ〜……いや本当申し訳ないんだけど、それ理科室に持っていってくれないかな?」
「理科室にですか?」
「そう。本当ごめんね。お願いできる?」
「わかりました」
「助かるよ!鍵はこれだから」

鍵はまた職員室に持ってきてほしい、ということを最後に付け加えると教師は二人を見送った。鍵の返却までお願いするなんて、頼みごとを重ね過ぎだと思っても良さそうな場面であったが、引き受けた張本人の花倉は少しも嫌な顔をしていない。
職員室を出ると、花倉が白石を呼び止めた。

「ここまで手伝ってくれてありがとう。もう少し時間かかりそうだから、白石くんは先に教室に戻ってていいよ」

穏やかに小さな笑みをたたえた口元が、白石を気遣うような言葉を紡ぐ。花倉は、近くにあった落し物入れのガラスケースの上に一旦ノートの束を置いた。そして、白石にも同じようにノートを置くよう促す。
白石は慌てて首を振った。

「ううん、俺も最後まで手伝うから」
「でも……」
「花倉くん優しいから気になるんやろうけど、俺が好きでやってることやから気にせんでええよ」

花倉は逡巡した様子を見せた後に、暫くしてから「じゃあ、お願いしようかな」と遠慮がちに言葉を発した。
花倉くんはやっぱり優しいなぁ、と、この瞬間は恋の悩みなど忘れて好きな人の温かさに甘く胸を締め付けた。


理科室へ着くと、預かっていた鍵を使って中へ入った。もちろん誰の姿もなく、授業中とは違って静かな教室に多少なりとも違和感を覚える。
ノートを置く場所はどこでもいいと言われていたので、黒板近くの机の上にまとめて置いておいた。これで今度こそ用事は終わり、二人だけの時間も終わる。
寂しい思いを我慢して、白石が理科室を出ようとすると、珍しく急いだ声色の花倉の言葉が後ろからかかった。

「あのさ!白石くん」

白石が振り返ると、花倉は少し躊躇した様子で言葉を選んでいた。息を吸い込んでから、ええっと、と会話に助走をつける。

「俺の、勘違いかもしれないんだけど」
「……」
「……白石くんが最近、元気がないような気がして」

話しながら、花倉が手をぐっと握ぎる。

「もしかしたら俺に原因があるのかなって思ったんだ。俺といる時が、一番元気がないような気がしたから」
「……え……っ?」

黙って聞いていた白石だったが、思わず声を上げた。急に核心を突いた言葉を言われ、発した声が少しだけ掠れる。話している花倉の緊張した雰囲気が白石にまで移り、白石の心臓も耳の裏で警鐘のように鳴った。
何を言われるだろうと思ったが、静かに後悔したような声で続けられる花倉の話はずっと花倉自身のことを責めているようだった。

「きっと俺、気付かない間に白石くんを傷付けてしまったんだと思う……。でも自分じゃ、どうして傷付けてしまったのか分からなくて。謝りたいのに、自分の非が分からなくて……」
「……花倉くん」
「情けなくてごめん。でもちゃんと心を込めて謝りたいんだ。だから……」

白石くんさえよかったら、原因を教えてほしい、と花倉は続けた。
打たれる思いだったのは白石だ。自分で勝手に気まずくなって、元気のない姿を見せて、そして花倉のことを悩ませていた。
優しい彼は、きっと事の真実を伝えても責めたりしないんだろう。振り回された、なんて少しも思いはしない。けれど白石が自分自身を責めた。上手に誤魔化せないなら、本当のことを伝えようと、そう思った。

「俺……、花倉くんに……好きな人がいるって、わかって、そのことでずっと悩んでた」
「……」
「図書室で見た後輩の子なんかなぁ、とか、なんで、俺やないんやろう、とか」

視線が俯く。
振られると分かっているのに、どうして真っ直ぐに告白なんてできるだろう。

「俺、花倉くんが、好きやから」

言ってしまったと思った。
けれど、自分の余所余所しい態度のせいで彼のことを思い悩ませてしまうくらいなら、いっそ清々した関係になれる方がいいとも思った。

「白石くんが……、俺を……?」

驚いた声が全てを物語っているように聴こえた。
誰だって、眼中になかった相手から告白を受ければああやって反応するのが精一杯だ。ましてや、同性の相手からの告白なんて。
白石はまるで死刑宣告を待つような気分だった。花倉の立てる僅かな衣服の擦れる音だって、全部が自分を追い立てるように聞こえる。
次に花倉が息を吐いたように呟いた時、白石は耳を塞いで蹲りたかった。

「信じられない……」
「……っ」
「好きな子から、告白されるなんて」

だから本当に、花倉の言った言葉が、初めはまるで耳に入ってこなかったのだ。
彼の言った言葉の意味を理解するのに、とてと、とても長い時間を要した。

「…………え……?」

顔を上げて花倉を見る。前髪の奥からわずかに覗く瞳が自分を捉えていることに気付き、じわりと胸の奥が熱くなった。
細められた瞳がうそじゃなく幸せそうで、嬉しそうで、緩く弧をつくる唇と一緒に優しい表情を描いている。そんな顔をさせているのがまさか自分だなんて、どうしても夢みたいで、何度瞬きをしても目の前の現実が本当のこととは思えない。

「白石くん」
「……花倉く、ん」

花倉が歩き出し、二人の間に空いていた距離を埋めた。近い場所で、花倉の声が白石の鼓膜を揺らす。

「俺も白石くんが好きです。俺と、付き合ってください」

想い焦がれていた、初めて恋をした人。ずっと聴きたいと思っていた、好きな人からの『好き』という言葉。
白石は泣きそうになるのをぐっと我慢して、花倉がそうしているように小さく笑みをこぼした。

「はい。よろしくお願いします」

笑いあって恋人同士となれたことがやっぱり夢みたいで、ふんわりと明るい幸せの感情に包まれるのを、白石はただただ享受していた。