好きな人に愛される世界はこんなにも綺麗に彩どられるのだと、窓から吹き込む囁かな暖かい風に前髪を撫でられながら、白石は隣で座る花倉の細く長い指を眺めた。

手は、まだ繋いでいない。付き合って一週間でそれが遅いのか早いのか、誰かと付き合うことが初めての白石には分からなかった。けれどきっと、あのしなやかな指に自分の指が包まれたら、絡みとられたら、そこから二人分の想いが一緒に混ざって幸せでどうにかなってしまうんだろう。
考えるだけで、かあっと耳が熱くなった。花倉は今お弁当を食べていて、白石の方は見ていない。気付かれる前に風が熱を冷ましてくれるといいな、と白石は一人恥ずかしげに花倉から視線を逸らした。

「そうだ、白石くん」
「わっ、な、なに?」
「次の土曜日、部活が休みだって言ってたよね」
「う、うん……」
「どこかに遊びに行きたいなって思ったんだけど、予定は空いてる?」

それは、つまり。
花倉の言わんとしていることが分かって、白石は答えるよりも先に頬を赤らめた。

「あっ、空いとる!ぜんぜん、一日中!」
「本当?よかった。じゃあ白石くんのその日、俺がもらってもいい?」
「〜っ、う、うん。もちろん……!」

花倉の口元が優しく弧を描く。前髪の向こうで細められた瞳が、愛おしそうに自分を見つめていることに気付き、白石は体中に感じる幸せと甘い締め付けで死んでしまいそうになる。

「あ、チャイム鳴っちゃった……戻らないとね」

昼休みの終わりを告げる鐘が鳴り、花倉が手早くお弁当を片付ける。昼休みの逢瀬のために見つけたこの数学教室にはもちろん他の人の姿はなく、二人だけの教室にチャイムの音は嫌というほど大きく響く。

「今日は俺が先に戻るよ」
「……ん、わかった」
「それじゃあ、また放課後」
「うん」

花倉は一人で数学教室を出て行った。残された白石もお弁当箱を片付け、少し間を置いて教室を出て行く。
恋人同士となった翌日からこうして二人きりでお弁当を食べるようになったのだが、その昼休みが終わって教室に戻るときに、「別々に戻ろう」と言い出したのは花倉だった。
白石には、ありがたい申し出だった。だってやっぱり、花倉が注目されてしまうようになるのは怖い。だから二人は同じ教室にいても以前と同じように然程会話を交わすことはないし、放課後も少し話をするくらいで帰りは別々だ。前と変わったのはこの昼休みのお弁当くらいだった。
もっと堂々と一緒にいたい、という気持ちもあった。男女のカップルのように人前で腕を抱き合ったりはしなくてもいいから、普通の友人同士のように他愛無い会話をもっと交わしたい。

「でも花倉くんが目立つんは……いや、やし……」

ジレンマだ、と白石は溜め息をついた。
けれど今自分は、とても贅沢な悩みをしている、とも思う。何も学校が遠く離れた遠距離恋愛をしているのではない。会おうと思えば会える距離にいるし、二人なりに会える時間を見つけて過ごしているのだ。
それに、今度の土曜日には記念すべき初めてのデートが待っている。白石は一瞬しぼみかけた気持ちを咲かせ、さっき吐き出した溜め息を取り戻すように息を吸い込んだ。


*****


土曜日の午前10時、待ち合わせ場所の駅前に着いた白石は自分を待つ花倉の姿に気付いて一瞬息を呑んだ。
雑踏の中で自分のことだけを待つ彼。遠くから見ても彼の姿だけ特別な配色をされたようにキラキラで、初めて見る私服姿に胸がキュッと甘くなる。

「花倉くんっ……、ま、待った?」

花倉は白石の姿に気付くと口元を微笑ませ、「今着いたところだよ」と穏やかに返事を返す。花倉の格好は、シンプルながらに垢抜けていて、身長もあるから傍目には高校生にも見えそうだった。

「花倉くんて……すごい、お洒落なんや……」
「え?そうかな。服は従兄弟の影響受けてるから、お洒落だったら、従兄弟のお陰かな」
「へえ、花倉くん従兄弟おるんや」
「うん。……白石くんもさ、私服すごくいいね」

白石は自分の姉に感謝した。蔵ノ介は変なTシャツ買ってくるから、と白石の服のほとんどは姉が見立ててくれているのだ。珍しく真剣な面持ちで出掛ける服に悩んでいる弟にコーディネートを決めてくれたのも姉だった。

「私服を見るの初めてだから、なんだか緊張するな」

同じ気持ちだったことが嬉しくて、白石は俯きがちに頷きながら「おれも」と呟く。

「じゃあ、行こうか」

花倉がそう言い、二人は歩き出す。

初めてのデートは、中学生らしく、映画を観てお昼を食べてお店を回って少し買い物をするだけの、至って普通のデートプランだった。本当は夜ご飯も二人で食べて、遅くまで一緒にいたい。けれどお小遣い生活の中学生に一日に二度の食事の出費は厳しく、夕飯前には帰ろうということで二人の話は落ち着いていた。
それでも二人は心底満足していた。一緒に過ごせる時間が短い代わりにめいっぱい楽しもうと二人で決めていたし、何より今日までのことを思い返すと、もう何日も前からデートをしているような気分になるのだ。
デートの約束を交わした日から、夜寝る前に観たい映画を話し合って、寄りたいお店を言い合って、お昼に食べたいものを相談して、約束の時間を決めて。そうやって電話越しに一字一句やり取りした時間を想うと、心がぽかぽかと温かくなって満たされていく。

「花倉くんていつもポップコーン買う?」
「俺はいつも買っちゃうかなあ。白石くんは?」
「俺も、いっつも買うてまうねん。けど、あれ全部食べると結構お腹苦しいねんなぁ」
「だったら今日は一つだけ買って二人で食べようよ。お昼ご飯が入らなくなったら残念だし」

飲み物を二人分と、ポップコーンを一つ買って館内へと入る。午前中の上映だったが、今人気の映画だけあって座席はほとんど埋まっていた。
白石は薄暗い館内で確かに居る花倉の存在に見惚れた。
幸せだ、本当に。彼の恋人として隣にいられるこの時間が、とても。
もし今日、彼の指先と触れ合うことができたらどんなに特別な日になるだろう。ちょっとだけでいい、触れさせてくれないだろうか。触れて、くれないだろうか。
そのうち、館内の暗さが一層濃くなり映画が始まった。映画が始まっても白石の気持ちはずっとふわふわとしていて、頭で話を追いながらも、意識はずっと隣の花倉に奪われていた。


*****


映画を観て食事をし、店を見て回るとあっという間に時間は過ぎていった。夕方になり、そろそろ帰宅する時間だ。
白石は駅前でわかれるのかと思っていたのだが、花倉が送ると言うので、今二人は白石の自宅の方向に向かって一緒に歩いていた。

「花倉くん、ごめんな?わざわざ送ってもらってもうて……」
「俺が好きでやってるんだから白石くんが謝ることないよ」
「でも俺、女の子ちゃうから送ってもらわんでも平気やのに」
「女の子とか、関係なくてさ。俺が、好きな子ともっと一緒にいたいだけなんだ」
「……花倉くん」

花倉のことを呼び呟く白石の声は少しだけ掠れていた。愛情に溢れた言葉を向けられ、指の先まで甘い感覚に痺れる。

花倉が、前髪越しに白石の顔を見つめる。風が吹いて前髪が揺れ、少しだけ、目が合った。周りには人の姿がなく、まるで世界に二人だけになったみたいだ。ゆっくりとしたリズムで歩みを進めながら、二人の間の距離が少しずつなくなっていく。
夢心地の指先に、愛しい人の体温が触れた。はっ、となって少し体を緊張させると、意を決したように向こうが自分の手のひらを白石の手のひらと重ねた。指先に優しく力が込められ、二人で二人の体温を分かち合う。

二人の間に言葉は出てこなかった。
それでも、お互いの全てが幸せだと伝え合っていた。空気が、表情が、呼吸が、嬉しくて泣きそうだと言っている。

(ずっと、ずっと……このまんまがええなぁ……)

いくら歩いても家なんて見えてこなければいいのに。気付いたら誰も住んでいないような、静かな不思議な場所へ辿り着いていたらいいのに。

「……――でさぁ、そんとき俺がぁ」

夢を抱いていたような気分だった白石を、花倉以外の誰かの声が現実へと引き戻す。しかもその声は、白石にはとても聞き覚えのある声だった。
驚いて足を止め、思わず手を離した。
一人分になった体温は寂しいはずなのに、それよりもまずは目の前のことをどうにかしたくて頭がいっぱいになる。道を真っ直ぐ行った少し先の曲がり角で話し込んでいるのは、部活仲間の謙也とユウジだった。花倉とデートをした帰りに、まさか部活仲間に会うなんて。白石は抑えた声量で花倉を呼ぶと、慌てて道を左に曲がって自宅までのルートを変えた。

「ごめん花倉くん……俺、ちょっとビックリして……」
「……ううん、大丈夫だよ。こっちからでも家に着けるんだよね?」
「あっ、う、うん。それは大丈夫」
「じゃあ急ごうか。晩ご飯の時間も近付いてきてるし」

また二人並んで、家路を歩く。白石の家の玄関に着くまで手を繋ぐことはもうなかったけれど、わかれる直前まで花倉の声を聞いて楽しい話をするだけで、白石は満足だった。一度だけとは言え、あんなに幸せな時間の中で、彼の手の温もりを感じることができたのだ。今日は、本当に特別な一日だった。

「それじゃあまた月曜日、学校でね」
「うん。花倉くん、帰り、気を付けてな」

大好きな人の背中が見えなくなるまで、白石は玄関前で後ろ姿を見送った。角を曲がる前、花倉が一度振り向いてくれて、名残惜しむように手を振ってくれた。そのやり取りでさえ、なんだか夢みたいな、ファンタジーみたいな出来事だと感じる。

自分の指先を見つめると、それだけで今日一日の全部の幸せが蘇ってくるようで、白石の心臓はいつまでもトクトクと心地良い高鳴りを響かせていた。