呼び出した悠樹が教室へ来るまでの間、謙也は緊張した面持ちで忙しなく室内を見渡していた。
何度も悠樹とセックスをし、もう見飽きたはずのいつもの空き教室だ。久しぶりに来てみると、乱雑に扱われていたトイレットペーパーは棚の上に置きっぱなしで、それを見るといつかの日の悠樹との行為を思い出した。
「ごめん謙也。待った?」
ガラリと教室のドアが開き、声を掛けられる。音に反射して入口の方を振り向き、謙也は腰を掛けていた机の上から降りた。
「いやっ、別に。全然」
「そっか」
こんなふうに二人きりの場所で悠樹を見るのが、もう随分懐かしいことのように思えた。ここで何度も悠樹を抱いたんだと、意識が少し逸れそうになる。
悠樹は手頃な場所に学生鞄を置いた。制服のボタンに手を掛け、俯きがちに謙也に尋ねる。
「あのさ、今日は……ここで?」
「え?」
「だからその……セックス、今日はここでするのかなって」
ガツンと頭の後ろを殴られたような気分だった。けれどなんとなく、分かっていたことでもあった。
こんな関係にしてしまった自分が言う言葉は、きっと全てセックスのついでに聞こえたり、性行為ありきの言葉に聞こえてしまうんだろうと、どこかで予感していた。
「ちゃうねん。今日は、そういうんやなくて。悠樹に聞いてほしいことがあんねん」
いつもより大きく息を吸い込んで、悠樹を見つめる。
「俺ら、もうセックスすんのやめよ」
悠樹は僅かに目を見開いて、それからすぐ、俯いて表情を隠した。
好きな人が今どんな顔をしているのか分からない。けれど、どんな顔をしていても謙也はまず謝らなければいけなかった。今までのことを謝り、そして、自分の気持ちを伝えるのだ。
「わかった」
けれど謙也が次の言葉を聞かせる前に、悠樹は床に置いておいた鞄を奪うように拾うと、謙也の方を見向きもせず教室を出て行ってしまった。声を掛ける間もなく終わってしまった一連の出来事に、音を立てて閉められた教室のドアを眺め立ち尽くす。
明日、もう一度話を聞いてもらおう。
謙也はそう決意すると、無造作に後ろ髪を掻き、足元で倒れている鞄を持ち上げて教室を後にした。
そしてその晩、謙也はすぐに悠樹に連絡を入れた。『明日また今日と同じ教室に来てほしい。話したいことがあるから』と、スマホの画面に文字を打ち込んで送った。
返事はすぐに来て、通知音が謙也の心臓を跳ねさせた。
『ごめん。行けない』
悠樹が謙也の言葉を断るのは、本当にこれが初めてのことだった。まさか断られると思っていなかった謙也は焦って、電話を発信しかける。けれどボタンを押す数秒手前で思い留まり、画面に近付けていた指を離した。
謝るのも、想いを伝えるのも、直接じゃないと駄目だと思った。画面上の文字でも、電話越しでも伝わらない。
だから謙也は翌日の学校でもう一度悠樹に声を掛けることにし、その晩は寝付けない自分を無理やり寝かせて夜を明かした。
*****
「悠樹、あのさ」
体育の授業前の更衣室で、謙也は悠樹の着替えが終わるのを見計らって声を掛けた。ふと見ると、短パンの下に見えている膝にあったはずの痣はもうほとんど消えかかっていた。そういえば、今日はあの「花倉の裸見ちゃう」と宣言していたクラスメイトは休みで、心底ホッとする。
「あ……俺、先生に授業の準備頼まれてるから。ごめん」
謙也の方はほとんど見ないで、悠樹が急いでその場を去っていく。謙也は肩を落とした。話しかけても上手くいかなかったのは、これで何度目だろう。一昨日から、ずっとこうだった。
話がしたくて悠樹のことを呼んでも、すぐにどこかへ行ってしまう。なんなら、声を掛けるのもままならないことだってあった。教室では目が合わないし、休み時間も昼休みも避けられていると感じる。
「……はあ……」
好きと分かった途端にこうも上手くいかなくなるなんて、皮肉なものだ。
溜め息を吐いた謙也は、怠惰そうに歩き出し体育館へと向かった。
避けられていることが決定的になったのは、二日後にあったHRの時間でのことだった。三年に上がって以来初めての席替えが行われることになり、クラス中の興奮が高まっていた。期待せず引いたクジは前回の白石の席だった。一番後ろの、窓から二列目の席だ。
悠樹は前と同じ席の番号を引いていた。ツイてる、と最初は思った。席が隣同士になるのだ。単純に、好きな人と隣の席というのは胸を躍らせたし、席が近くなれば話せる回数も増える。
(よっしゃ、よっしゃ……!悠樹と席隣とか俺やるやん!)
けれど有頂天でいられたのは、本当に、ほんの一瞬のことだった。
謙也が自分の机を持って悠樹の隣へ移動すると、悠樹は驚いて暫く目を泳がせていた。そして不意に立ち上がり、担任の元へと何かを話に行く。見ていると、次に一番前の席の生徒に話しかけた。悠樹に色気を感じると言っていた、あのクラスメイトだ。謙也はムッとした。今どんな下品な思いでクラスメイトが悠樹を見ているのかと思うと、否が応でも苛々が募る。
(あいつ、悠樹と何話して……)
次に驚いたのは謙也だった。クラスメイトが席を立ち、机を移動し始めたのだ。それも向かっているのは、どうやら謙也の隣の、つまりいま悠樹の席になっている場所だった。
「よー謙也!なんか花倉のやつ目悪くなったとかで、一番前の席がええんやってー」
悠樹は何も言わず自分の机を移動させると、クラスメイトと交換した一番前の席に座り、それから決して謙也の方を振り返ることはなかった。
(……さすがに俺……、嫌われすぎやろ……)
謙也はクラスメイトの話し声も無視し、机に突っ伏し項垂れる。俯く前に視界で捉えた悠樹の後ろ姿が脳裏に浮かび、切なさと、抱きしめたい思いに駆られた。
――悠樹は。
悠樹は、謙也の隣の席を離れられたことに安堵していた。目が悪くなったなんて嘘をつくのには些か抵抗があったが、それでもこうしたことが自分にとって一番良かったのだと思う。
だって謙也から好きな人の話でもされた日には、きっと悲しさでどうにかなってしまうからだ。
一番前の席なら、謙也が他の誰かと話す姿が視界に入らないのもよかった。話し声も、意識しなければ聞こえてこない。見たくないし、聞きたくなかった。謙也にいくら自分に対する気持ちがないと分かっていても、悠樹はどうしようもないくらい謙也のことが好きだった。
『――好き?俺が?あいつを?』
謙也に好きな人がいると分かってもなお、好きでいることがやめられないのだ。この想いは後は死んでいくだけなのに、と悠樹は何度も苦しむ胸を抑えた。
盗み聞きをするつもりはなかった。たまたま、教室の前を通った時に謙也の声が聞こえてきて、たまたま耳に入ってきた言葉がそれだったのだ。謙也の話相手だったテニス部の友人が「思い返してみたら、好きだったからだと思うようなことがあるんじゃないのか」と聞き、謙也は、「そうかもしれない」と答えた。
そして、悠樹はその場から逃げた。これ以上自分の恋心が殺されていくのは、あまりにも苦しかった。
『俺ら、もうセックスすんのやめよ』
そう告げられたのは、翌日すぐのことだった。
その頃、行為の回数が目に見えて減っていたのは事実だ。謙也の気持ちを知って、セックスをやめると言われて、どうして彼が自分を呼びださなくなったのかを知った。好きな人ができたからだった。その人のことを考えて時間を使うために、無益な相手とのセックスを遠ざける、ただそれだけのことだ。
(わかった、なんて、全然思えないよ)
自分達にはセックスしかなかった。それが絶たれると、後には驚くくらい、何も残らなかった。あるのは結局、最初の頃から抱き続けている謙也への想いだけだ。
気持ちの整理がつかないまま謙也のことを避けるようになった。
彼の話を、今は何も聞きたくない。もう少し、時間がほしかった。いつかこの気持ちを誤魔化せるようになったらどんな話だって受け止めるから。それがもし、好きな人がいるんだって話だって、笑って「上手くいくといいね」って言えるように、きっとなるから。
悠樹は宛もなく黒板の前を見つめ、教室の喧騒に消えていくくらいの小さな音で、そっと息を吐いた。