悠樹は極度の人見知りである。
初めて会う人には定型文のような挨拶を返すのが精一杯で、何度か会話を重ねても心を開くまでには相当の時間がかかる。少し気を許したと思っても口数は相変わらず少ないままで、悠樹には、友達と呼べる相手と言えば幼馴染みの財前光くらいしかいなかった。
「いたいたー。花倉、先生が呼んどったでー」
廊下でクラスメイトに声を掛けられ、悠樹はビクリと体を緊張させながら振り向いた。声を掛けた相手はにこやかに笑いながらこっちへ駆け寄ってくる。
「なんやっけ、えーと、職員室に来て言うてたわ!」
「そ、そぉなんや」
「そおそおー。ほんで花倉のこと呼んでたんが、んー、あれ?誰やっけ」
クラスメイトが頭を抱える仕草を大袈裟にしてみせる。
「白衣着とって帽子被ってて、テニス部の顧問のオサムみたいな名前の先生なんやけどー……ってそんなんオサムちゃんに決まっとるやないかーい!あはは!そういう訳やから!俺は伝えたでー」
「あっ、うん、ありがと……」
面白いこと、何も返せなかった。
悠樹は一人でに溜め息を吐き出す。せめて一緒に笑えばいいのに。どうしてそんなことも出来ないんだろう。人と会話をしていると緊張でいっぱいになってしまって、他愛ない会話の寄り道を楽しめたことなんて殆ど無い。
「っ、うわ!?」
俯きがちに床を見つめていると、不意に頬に誰かの指先を感じた。驚きのあまり飛び跳ねるように誰かの方向を見ると、立っていたのは見慣れた幼馴染みだった。
「ひ、光かぁ〜!びっくりした……!」
「悠樹にこんなことするん、俺くらいやろ」
「あはは、そっか。確かにそうや」
悠樹は楽しそうに笑い、財前にしか見せない無邪気な笑顔を零す。
「何考えとったん。難しい顔して」
「えっ、そ、そんな顔しとった?」
「してた」
「ええ〜……ほんまかぁ、気を付けよ……」
「で?何考えとったんやって」
悠樹は一瞬言葉に詰まった後、困ったような笑顔を見せた。
「いや、俺ってほんまに人見知りでダメやなぁって。なんでもっと気の利いた返事とかできへんのやろ」
「……別に、そんなん今更やし、俺には気使わんで話せるんやからええやろ」
「それは……まあ、そうなんやけど……」
財前が悠樹の人見知りを責めたことはなかった。これまで一緒に過ごしてきた中で、人見知りの悠樹が財前の傍から離れられなかったり、財前しか頼る相手がいないからと泣きついてきたことがあっても、そのことに不平不満を洩らしたことはただの一度もない。
けれども、悠樹の方がそう単純には事を捉えられなかった。いつもどこかで、『光の迷惑になってる』という思いがあった。そしてその思いは、年齢を重ねるごとに大きくなっているのだ。
「……あ、先生に呼ばれとるんやった」
「そうなん」
「渡邊先生が俺を呼んどるんやって。そういや、光はここで何しとったん?」
「別に何も。教室に戻る途中で悠樹を見かけたから声掛けただけ」
「そっか。……ほな、俺もう行こかな。職員室で先生待ってるやろし」
「飯、教室で食うんやろ。待っとるからはよ戻ってこいよ」
「うんわかった。ほな、またすぐ後でな」
財前と別れ、職員室へと向かった悠樹は来慣れない場所で少し緊張しながら自分を呼んだ渡邊の姿を探した。入口付近からゆっくりと室内を見渡すが、それらしき姿が見当たらない。職員室内を歩いて渡邊を探したが、結果は同じだった。
(来るん遅かったから、どっか行ってしもたんかな……)
一度職員室を出て、悠樹は暫く考えた。ここで待つか、目ぼしい場所に行ってみるか。思案した上で悠樹はここで待つことに決めた。行き違いになっても困るし、渡邊のことをよく知らない自分では渡邊が行きそうな場所の検討もつかなかったからだ。
しかし5分、10分と経ったが、渡邊は一向に姿を現さなかった。こうまで時間がかかってしまうと、教室で待っていると言っていた財前のことが気にかかってくる。
(一回教室戻って光に聞いてみよかなぁ……)
渡邊はテニス部の顧問だ。だからテニス部員である財前なら渡邊の行きそうな場所を何か知っているかもしれないと思った。財前が知らなくてもそのままテニス部の誰かに一緒に尋ねてもらえれば誰かしらは何かを知っているだろうし――と、そこまで考えて悠樹は慌てて頭を振った。
「……や、それじゃあかんやんか……何また甘えようとしてんねん俺……」
自分を変えたいと嘆くばかりでは駄目だ。小さなことでいいから、一つずつ行動を起こさないと意味がない。
悠樹は職員室内にいる教師に声を掛け、渡邊のことを尋ねてみることに決めた。些か緊張した面持ちで、職員室のドアを改めて見る。
「なあ」
「わっ!?」
すると不意に後ろから声を掛けられ、それと同時に肩に感じた手のひらの感触に驚いて声を上げた。
「わ、すまんすまん。そんなビックリすると思わんくて」
「あ……えっと、テニス部の……」
「そ!財前の先輩。覚えとる?」
「は、はい……」
おーよかったー!と人懐っこい笑顔を見せるのは、財前と同じ部活の先輩である、忍足謙也だった。悠樹と謙也は今まで二度、会話を交わしたことがある。その二度とも財前が間に入る形でまともらしい会話ではなかったが、悠樹の方も謙也の方もお互いの顔と名前を覚えていた。
「俺さっきもここ通ったんやけど、悠樹ずっとおるやんか。何かあったん?」
「ぇ、あ……その……」
目が、合わせられない。緊張して口の中がどんどん乾いていく。人と話すのはやっぱり苦手だ。何を、話せばいいんだっけ。一体何を、知りたかったんだっけ。
「えーよえーよ、ゆっくりで。二人だけでマトモに話すん初めてやし、緊張してまうよな」
そんな言葉と同時に、頭の上に手のひらの温もりを感じる。頭頂部に置かれた手は悠樹の髪の毛を戯れるように軽く掻き乱し、少しだけ悠樹の緊張をほぐした。
「あ、の……テニス部の……、先生が……」
「おお。オサムちゃんが?」
「えっと……先生、が……」
俺を呼んでるって聞いて、職員室まで来たんです。でもいなくて、探そうと思うんですけど何処にいるか心当たりありませんか。
伝えるべき事は分かっているのに、上手く言葉にならない。待ってくれているから早く伝えなきゃと思えば思うほど思考回路はこんがらがるようだった。
次は何て言葉を音にすればいいんだっけ、と焦る思考の中で考えていると、ふと頭に置かれていた手のひらが離れていくのを感じた。
なんとなく、遠のいていく手のひらにつられて顔を上げると、謙也の表情は悠樹の予想に反して驚いていた。そして自分達の横に立っている誰かを見て、不意をつかれたような声を上げる。
「財前やん!なんやねん、急に俺の腕掴んだりしてー」
「何してんすか」
「え?俺?飲み物切れたから購買に買いに行こかなーって思、」
「アンタんことはどうでもええんですわ。この手、今何してたか聞いとんねん」
「……そ、そんな怖い顔せんでもええやんかー!悠樹がなんや緊張してるみたいやったからリラックスさせよ思っただけやって!」
「…………へえ、そっすか」
掴んでいた謙也の手首を離し、悠樹の方を見る。いつもの幼馴染みの顔をしていたが、その表情の中に少しだけ苛立ちがあるような気がした。
「謙也さんになんか聞きたいことでもあったん?」
「そ、そう。渡邊先生がおる場所知らんかなって思って」
「なんやあの人、呼び出しといて職員室におらんかったんか」
財前がいるだけで、言いたかったことが全部簡単に言葉になる。さっきまで一人で焦っていたのが嘘のようだった。
「つーわけなんですけど、謙也さん知ってます?」
「めっちゃ知っとる!ほんまについさっき中庭で見かけた!」
「やって。分かってよかったやん悠樹」
「なんやー、オサムちゃんの場所知りたかったんやなー。気付かんくてごめんな!」
無意識なのか、謙也の手がまた悠樹の頭に伸びてくる。しかしその手は財前に手首を掴まれ、ピタリと動きを止めた。
「そういうの要らんねん」
「……や、やからー……怖いて!ちょっとしたスキンシップやん!」
「次やったらホンマにキレますんで」
「会話成立せえへんし!」
謙也は出しかけていた手を引っ込めると、ほなそろそろ戻るわ、と悠樹にまた人懐っこい笑みを見せる。悠樹は慌ててお礼を言って、ぺこりと頭を下げた。
「行き違いになったら俺んとこ来てや。最終手段で、放送室借りてオサムちゃんのこと呼んだる。俺は3年2組で飯食っとるから!」
最後にそう言って、謙也は教室へと戻っていく。その背中を見送り終え、悠樹ははたと気付いた。
「光、なんでここにおるん?教室で待っとるって」
「遅いから見に来た」
「そっか……。あ、あのさ、今日もまた助けてもらってしもて、ごめん」
「謝らんでええって」
結局また財前を頼って財前に助けてもらってしまった。財前はああ言うが、悠樹の心は晴れない。
一方で、財前の方もどこか鬱々とした顔をしていた。謙也が悠樹と話している姿を見つけた時から、ずっと苛立ち紛れの表情のままだ。
「なんで先に俺んとこ聞きに来おへんのや」
「や、やって、甘えたらあかん思ったから……。人見知りなこと嫌やって言うだけやなくて、変わるために何かしよ思って」
「それで、俺やなくて謙也さんに聞こう思ったんか」
コクリと頷く。財前は未だ納得しきっていない顔で言葉を続けた。
「なんで人見知り治したいん」
「……光に、迷惑かけるから……」
「は?俺がいつ悠樹の人見知りを迷惑や言うたんや。一回も言うたことないことで、勝手に話進めんな」
「そ、うやけど……」
「幼馴染みやったら分かると思うけど、俺は嫌なモンは嫌てハッキリ言うで。この意味分かるやろ」
悠樹は頷いた。小さい頃からずっと、財前のその何でも素直に言える性格に憧れているのだ。自分のことが迷惑だったら、とうに見放されていることは簡単に想像がつく。
「それとも悠樹は、話し相手が俺やったら不満なん」
「え!?な、なんでそういうことになるねん!」
「俺じゃ嫌やから人見知り治して別の友達作ろうしてんちゃうの」
「ちゃ、ちゃうよ!そんなん絶対ありえへん!光は幼馴染みで親友で、めっちゃ大事やし!光だけおったらええもん!」
ふっ、と財前が僅かに口角を上げて笑った。理由は分からないが財前が今とても満足していることが、幼馴染みの悠樹にはその表情から伝わってくる。
「それやったら人見知り治す必要ないやん」
「……え、え?」
「俺は悠樹の人見知りを迷惑に思ってへんし、悠樹は話し相手は俺だけでいい思ってる。どこに治す必要があんねん」
「必要は……あんま無さそう、やけど……」
「せやろ。ほんならもうその変な悩みで時間使うことないやん」
「う、うーん……?」
言いくるめられている気がする。今回に限った話ではないが、悠樹は財前の口車に乗せられることが多々あった。そういえば中学に上がる時も、四天宝寺ではなく別の私立への進学を考えていたはずが、気付けば財前と同じ四天宝寺に通うようにすっかり心変わりしていた。
今回もまた同じようなことになるのかなあ、と思案していると、不意に頭の上に手のひらを感じ、悠樹は顔を上げた。乗せられた手のひらはわしゃわしゃと髪の毛を掻き乱している。
「な、なにっ?」
「消毒」
「え!?俺、毎日ちゃんと風呂入っとるよ!」
「俺が消毒したいんは別の菌やから」
「い、意味わからんって〜」
財前の手のひらにされるがままになっているうちに、悠樹は人見知りで悩んでいたことをなんとなく忘れていった。財前の迷惑になってるかもしれない、という不安を本人から正面切って否定されたことが、恐らく悩みを小さくさせた一番の理由だった。
こうして最終的には人見知りで悩むこと自体無くなるのだが、そうやって財前の思惑通りに事態が進むのはまた別の話である。