あの日、三井くんと一緒に帰ったのは全くの偶然だった。
「みょうじ」
日直の仕事を終えて、人も疎らな昇降口で靴を履き替えていると背後からよく知った声で名前を呼ばれた。
「三井くん!珍しいね、今帰り?」
「おう。テスト前で部活ねぇしな」
体がなまってしかたねーわ、とひどく退屈そうに首に手を当てながら話す様子が、あまりにも三井くんぽくて、私は思わずふふ、と笑ってしまった。
「あ?なーに笑ってんだよ?」
「あ、えっと、ごめん。三井くんて本当にバスケ好きなんだなぁって微笑ましくなっちゃって」
「はぁ?微笑ましいって、お前は俺のかーちゃんかよ」
「いたっ」
呆れた顔の三井くんに頭を軽く小突かれる。
その、たった一瞬だけ触れた指の感触が私の胸を高鳴らせる。私は赤くなった顔を見られないように、わざと大げさに痛がってみせた。
「大げさ」
私の大根芝居を見て、はは、と真夏の太陽みたく笑う三井くんに、一瞬にして私の視線が釘付けになる。と同時に胸の奥で、きゅん、と小さく何かが弾ける音がした。
私と三井くんは、たわいのない話をしながら、学校から駅までの道を並んで歩いた。相変わらず、ズボンのポケットに手を突っ込んで歩く歩き方はヤンキー時代の名残りだろうけど、それでも、私に歩幅の違いを感じさせないように、さり気なく合わせてくれるところとか、本当にナチュラルに女の子を恋に落としていく人なんだなぁ、と思ったら、なぜか胸の奥がザワザワする。今隣を歩いているのは、間違いなく私なのに、いつか彼の隣を歩くであろう名もしれない誰かの事を考えて、勝手にモヤモヤしてしまう自分が情けない。そもそも、想いを告げる勇気もなくて、彼の隣に立つ資格さえない私が、そんなこと思うこと自体おこがましいのだけれど。
「ん?雨か?」
1人でぐるぐる余計なことばかり考えながら歩いていた私の隣で、不意に掌を上に向けながら、三井くんが独り言のように呟いた。気がつけば、さっきまで晴れ渡っていた空には黒雲が立ち込め、遥か先の方で遠雷が聞こえる。
「おわ、やべ、降ってきた、走るぞ!」
これは間違いなく雨が来る、そう思った瞬間、突然大粒の雨が勢いよく降り始めた。月並みな表現だけど、バケツをひっくり返したような雨だ。これはやばい、と思った瞬間、三井くんの大きな手が私の手首を掴み、そのまま走り出す。掴まれた手首に尋常ではない熱を感じながら、私は慌てて三井くんの後を追うように走り出した。
「参ったぜ。すげぇ雨だな」
私たちは雨宿りをしようと、はるか昔に店じまいした古びた雑貨屋の軒下に滑り込む。錆びたトタン屋根に激しく雨が当たる音が頭上でうるさく響く。幸い、降り出して直ぐにここを見つけたおかげで、私も三井くんもさほど濡れずにすんだ。それでも、髪の毛も腕もじっとりと湿っている。さっきまで掴まれていた手はいつの間にか解放されていて、失った熱に何故かほんの少しがっかりしている自分がいる。
「くそ、今日部活ねぇから、タオル持ってねーわ」
「私のでよければ使う?」
通学カバンをガサゴソ漁っている三井くんに、私はバッグから取り出したハンドタオルを差し出した。
「え、いいのかよ?つーか、みょうじも濡れてんだろ」
「私は大丈夫だから、先使っていいよ」
「大丈夫なわけあるか、バカ」
「わ、っ……」
三井くんが私の差し出したタオルを引っつかむと少し呆れたように呟いて、そのまま私の濡れた髪の毛を、雑に拭き始める。
「あーあ、びしょ濡れじゃねぇかよ。人のことばっか気にしてねーで、ちっとは自分の事心配しろい。風邪ひくぞ」
「ごめん……でも、三井くんだって同じくらい濡れてるじゃん」
「あ?オレは男だからいいんだよ」
「そんなの、男も女も関係ないよ!」
「おい、肩に雨が当たってんぞ。もっと中入れって」
「きゃ……ッ!」
あまりに理屈の通らないことを言われ、思わず顔を上げて言い返した私の肩を三井くんが些か強引に引き寄せた。予期せぬ事に、咄嗟にバランスを崩した私は、そのまま三井くんの胸に倒れ込んでしまった。
「ご、ごめッ……」
「いいから、このままじっとしとけ」
反射的に後ろに飛び退こうとした私の頭を、三井くんの手がぐい、とさらに自分の胸に押し当てる。私はあまりのことに、呼吸が止まりそうになる。目の前にある三井くんの逞しい胸とシャツから香る洗剤の匂い、それとは別の爽やかな夏の海みたいな三井くんのフレグランスの香り。五感をこれでもかと刺激せんとばかりに、あまりに一気に情報を浴びせられ、頭がくらくらしてくる。
さっきまであんなにうるさかった雨の音は、すっかり聞こえなくなっていた。
代わりに、三井くんのなのか、私のなのか、どちらか分からないけれど、心臓の鼓動が全身に伝播している。顔を突っ伏したシャツ1枚隔てたところにある三井くんの胸の音が、熱とともに頬に直に伝わってくる。私と同じくらい速くて、少しでも体を動かしたら、爆発してしまいそうな心臓の音。三井くんは黙ったまま、まだ、私の髪の毛をタオルで拭き続けている。それも、さっきまでの雑な手つきではなくて、優しく撫ぜるような手つきに、勝手に背中がゾクゾクしてしまう。
この雨がこのまま止まなければいいのに。
雨の湿った匂いと、いまさっき知ったばかりの三井くんの匂いに包まれながら、私は静かに目を閉じた。
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