古いアパートの窓枠に腰掛けて、私は網戸越しにぼんやりと、外を眺めていた。網戸を開けていても、外の風は生暖かく、もう、すっかり日は落ちているのに、肌が汗ばむ。日に焼けて青みの抜けた6畳間の隅っこで、年季物のおんぼろ扇風機がカタカタ音を立てながら、首を振っている。
普段はほとんど人通りのない、アバートの前の通りに、今夜は珍しく人の往来がある。どうやら、近くの神社でお祭りがあるらしく、手に水風船をぶら下げた、浴衣姿の女の子を見送りながら、私は小さく微笑んだ。
「いいなぁ」
自分でも全くの無意識に、口をついて出た言葉に、はっとする。そう口に出したところで、今夜もきっと、このぼろアパートの家主は帰ってきはしない。
私が鉄男に初めて出会ったのは、深夜の繁華街だった。着の身着のままに家を飛び出して、夜の街をフラフラ歩いているところ、鉄男にぶつかってしまったのだ。ごめんなさい、と謝りながら、不意に見上げた先に、ひどくガラの悪い男の顔が映って、私は本気で死を覚悟した。
「おめぇ、家出少女か?」
絶対殴られる、と思って酷く怯えた顔の私に、全く予想外の言葉が降って来て、私は思わず素っ頓狂な顔でまじまじと男の顔を見つめた。
恐る恐る、小さく頷いた私に、鉄男は早く家に帰れ、と言った。それに対して、私は黙って首を振る。そんなやり取りを何回かするうちに、ははは、と鉄男が豪快に笑って、根負けしたと言わんばかりに、「行くとこねーなら、俺ん家くるか?」と聞いた。知らない男の、しかも見るからに素行の悪そうな男の家にほいほいついて行くなんて自殺行為だ、と頭ではわかっていた。それでも、なぜかあの時の私は、自分でもよくわからないうちに、首を縦に振っていたのだ。別に乱暴されて、殺されようが構わないとも思っていたし、それとは別に、何となく、この人はそういう人じゃない、という根拠のない自信もあった。
かくして、私はこのぼろアパートの部屋に転がり込んだ。私の予感通り、鉄男は怖い見た目とは違い、普通にいい人だった。もちろん、善良な人間では無いけれど、ガラの悪い仲間とつるみ、ノーヘルでけたたましい音を立てるバイクを乗り回し、ケンカに明け暮れ、たまにしか家に帰って来なかったとしても、私にとっては、鉄男は恩人でいい人に変わりはなかった。
がちゃ、と古びたドアノブを回す音がして、ただいま、と鉄男が帰ってきた。
帰ってきた事自体も、もちろん、それ以上に夕方のこんな早い時間に鉄男が帰宅するなんて、もしかしたら、喧嘩で大怪我でもしたんじゃないかと、心配で私は思わず鉄男に駆け寄った。
「どうしたの?」
「別にどーもしねぇよ」
「だって、こんな時間」
「自分ちに早く帰って悪ぃのかよ」
「そーじゃないけど、」
言いかけた私の目の前に、鉄男がいわゆる花火セットのパッケージを無言で差し出した。
「うわぁ……」
シュー、シューと音を立てて、手持ち花火の先端から流れ落ちる無数の星に、私は思わず感嘆の声を上げた。アパートの近くの小さな公園の一角で私と鉄男は、ひっそりと花火をはじめた。花火セットに入っていた小さなロウソクに、鉄男のチープなオイルライターで火をつける。しゃがみこんで花火に夢中な私を、鉄男はタバコを咥えながら、ベンチに腰掛けて見ていた。
「ねぇ、これは鉄男も一緒にやろうよ」
「いい、めんどくせぇ」
「やだ。線香花火一人でやるなんて、寂しいじゃん」
あくまで、わがままを押し通す私に鉄男は面倒くさそうに、ベンチから立ち上がると私の隣にしゃがんだ。なんだかんだつき合ってくれる当たり、やっぱり鉄男は優しいと、私は密かに胸を高鳴らせる。
2人で静かに紅色の尖った先端に火をつけ、パチパチと可愛い音を立てて爆ぜる花火を黙って見つめる。
「そういえば、あのロン毛の人、最近来ないね」
「ああ……あいつは、もう来ねぇよ多分」
「え、どっかに引越ししたの?」
「まぁ、そんなとこだな」
沈黙が何となく居心地悪くなった私が、そう切り出すと、鉄男はどこか寂しそうな、でも、嬉しそうな顔をして遠くを見つめた。
ロン毛の男の人は、確か三井という人で、ちょっと前まで、よく鉄男の家に来ていた。ああ見えて仲間をめったに自分の家に呼ばない鉄男にしては、珍しいことだったし、家にきては鉄男に馴れ馴れしくする三井の態度と、それを悪く思っていない鉄男の顔。それがなんとなく面白くなくて、私は三井が好きじゃなかった。もちろん、単なるヤキモチだ。
「あ……」
そんなことを考えているうちに、最後真っ赤になった小さな太陽みたいな火の玉が、しゅ、と地面に落下してあっけなく消えた。
「終わっちまったな」
そう言って、ははは、といつものカラッとした声で鉄男が笑う。その顔がなぜか、私には酷く寂しそうに見えて、私は鉄男の首に勢いよく抱きついた。
「私はどこにもいかないからね」
鉄男にというよりは、まるで自分に言い聞かせるように、私は小さな声で呟く。そんな私の頭を、泣いた子供をあやすみたいに、鉄男は黙って撫でた。夏の夜風にかすかに残る硝煙の匂いと鉄男のタバコの匂いだけが、私たちを包んでいた。
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