「え、一部屋しか空いてないんですか?」
「はい、申し訳ございません。この天候で急遽ご予約された方がたくさんおりまして……」
ホテルのフロントマンが申し訳なさそうに答えるのを見て、私は隣に立つ三井くんにどうしよう、と助けを求めるみたいにチラ、と視線を送る。
「わかりました。それで構いません」
「!!」
予想外、とまではいかないものの、あまりにあっさりとそう宣う三井くんを私は驚いた顔でもう一度見る。動揺する私とは対照的に、三井くんはフロントマンからカードキーを受け取り、自分の荷物と私のボストンバッグをひょいと
持ち上げると、そのまま、すたすたとエレベーターの方へ歩いて行く。
「なにしてんだ、置いてくぞ」
不意に振り返った三井くんが、私を顎で促すのを見て、まるで他人事のように三井くんの後ろ姿をぼうっと見送っていた私は、慌てて後を追った。

会社の新しいプロジェクトの一環で、私と同期の三井くんは、とある離島を訪れた。現地調査と地元企業や自治体との交渉も何とか上手くいき、本来ならば今日東京に戻る予定だった。ところが、高波の影響で、唯一の連絡手段である連絡船が欠航になり、やむなくもう1日滞在を延ばすことになった。ダメ元で今日まで泊まっていた島唯一のホテルを訪れたところ、一部屋だけなら用意できるとの事だった。確かに今は非常事態で、背に腹は変えられない状況だ。でも、やっぱりいくらなんでも、妙齢の未婚の男女が同じ部屋で一夜を過ごすのは、さすがにやばい。でも、部屋が取れなければこの悪天候の中、野宿。さあ、どうしよう、と判断に困って三井くんに助け舟を求めたところ、当の三井くんは悩む間もなく、あっさり一つの部屋に泊まることを選び、今に至るわけ。

三井くんは、会社の同僚であり、また大学時代の知人でもある。知人と言っても、たまたま入ったゼミが一緒だっただけで、決して親しくはなかった。どちらかといえば交友関係が狭い私にくらべて、三井くんは男女共にとにかく交友関係が広かった。いわゆる人たらしと呼ばれる部類の人間なんだと思う。特に女の子からのモテ方は半端なくて、ゼミでも何人もの女の子から三井くんの名前をしょっちゅう聞いた。夏のゼミ合宿で三井くんが複数人から告られたことを、密かに私は知っている。それでも、三井くんは結局誰ともつき合わなかった。告白した子の中には、読モをしてる大学でも有名な可愛い子もいたので、三井くんには高校時代からつき合ってる彼女がいる、という噂から始まり、もう同棲している、とか、それどころか実はもう結婚してる、とまで一時大学中の噂になっていた。きっと、当時は大学の少なくない数の女子がヤキモキしたり、ショックを受けたりしていたに違いない。ゼミが一緒とはいえ、業務連絡と世間話に毛が生えた程度しか三井くんと接したことない私には全く関係のない世界の話だったけれど。
当然、特に何もなく私たちは大学を卒業した。私が三井くんと親しくなったのは、偶然同じ会社に入社してからだった。配属先でばったり会ったとき、それは驚いた。まさか、三井くんがいるとは思わなかったから。私みたいな普通のOLとは違って、三井くんは社会人バスケットの選手でもある。だから、いつも出社して仕事をしているわけではないけど、社で唯一の同じ大学の出身で顔見知りだったので、そこから自然と仲良くなった。会社でも相変わらず女子社員にモテまくっているけど、いざ親しくなってみると、大学のときに抱いていた彼の軽薄な印象とは違って、思っていたよりもずっとつき合いやすい人だった。あんなにイケメンなのに、実は口も悪いし、ガラも悪い。普通ならそれがマイナスに働くところなのに、三井くんに限って何故か裏表がないとか気取ってない、と逆に高評価になってしまう。実際誰に対しても、気さくで快活で、まるで太陽みたいな人だと思う。私には若干眩しすぎるけど、世の中の女の子がみんな三井くんを好きになっちゃうのはわかる気がする。だって、かく言う私もその一人になっていたから。大学時代には考えた事もなかったけれど、今の私は三井くんの事がすごく気になっている。すごく気になっているからこそ、今のこの状況は非常にまずいのだ。


「お。思ったより広いじゃん」
緊張で心臓がバクバクしている私とは対照的に、三井くんは少しワクワクしたような口調で言いながら、部屋の中にズカズカ入っていく。
そんな三井くんの後に続いて入った私の目の前に、セミダブルベッドが鎮座していて、さらに心臓の鼓動が早くなる。
「なぁ、みょうじお前先風呂入るか?」
「ッ……み、三井くん先でいいよ!」
脱いだスーツの上着を雑にベッドの上に放り投げ、煩わしそうにネクタイを緩めながら、三井くんが唐突にこちらを振り返る。やっと部屋に足を踏み入れたものの、いまだにどこに居ればいいかさえわからずに戸惑っている私とは大違いで、すっかり寛いでいる三井くんから、追い打ちをかけるようにとんでもない事を言われ、吃驚して声を裏返しながら私は何とか返事した。
「はぁ……」
浴室のドアが閉まる音がするやいなや、私は盛大なため息とともに、その場にへたりこんだ。
なんなの、あの人。この状況でお風呂とか、どんだけ図太いのよ……
心の中でそう呟いて、また小さくため息をつく。もしかしたら、意識してるのは私だけなのかもしれない。そう思ったら、一人勝手にどぎまぎしているのがバカバカしくなってきた。と同時に、胸の奥に感じる正体不明の鈍い痛みと虚しさに、思わず胸に手を当てる。三井くんにとって、私は恋愛対象外なんだという、薄々気づいていたけれど気づきたくなかった事実が、予想外に心に重くのしかかっていく。
「本当、バカみたい……」
不意に零れた言葉を皮切りに、鼻の奥がツンとして、視界が滲む。けれど、涙を流す間もなく、浴室の方から音がして、私は慌てて涙の跡をかき消そうとするように、ゴシゴシと手の甲で涙を拭った。


三井くんに続いてシャワーを浴び、色々気にするのがバカみたくなって、半ばやけくそな気持ちで、彼と同様に備え付けのホテルの浴衣に着替えて部屋に戻ると、ベッドの真ん中に寝っ転がってテレビを見ている、あまりに開けっぴろげな三井君の姿に、思わず絶句する。そればかりか、はだけた浴衣の隙間から惜しげもなく覗く逞しい胸板に目線が必然的にロックオンして、顔に勝手に熱が集まってしまうのが口惜しい。

「三井くんてさ、私の事、女だと思ってなくない?」
この期に及んで緊張感の欠片もない三井くんに、虚しいを通り越して、じわじわと理不尽な怒りが込み上げてくる。三井くんに非がない事は頭ではわかっている。わがままで独りよがりな八つ当たりだということも。それでも、このまま何事も無かったように振る舞うのは、三井くんを好きな自分があまりにも惨めで耐えられなかった。
「……」
私の言葉に対して三井くんから返事はなかった。私たちの間に、テレビから聞こえる音だけが流れる。私は沈黙より気まずい間に耐えられなくて、三井くんにくるりと背を向けて静かに唇を噛みしめる。
「はぁ……お前さ、この状況で意識しねぇ男なんていねーよ、バカヤロウ」
「えっ……?」
不意に背後で三井くんがぶっきらぼうに放った言葉に、私は思わず後ろを振り返る。振り返った先、三井くんはいつの間にかベッドに胡座をかいて座っていて、照れくさくて堪らないと言った様子で頭を掻きながら、私の方をじっと見つめていた。
「だからぁ、好きな女とこの状況で、緊張しないわけねぇだろ、って」
「す、好き……?!」
「やっぱ気づいてねーよな……お前の事ずっと好きだったんだよ、俺は」
「ちょ、ちょっと待って!あのさ、三井くんてつき合ってる彼女いるんじゃないの?」
「は?いねぇよ、そんなん。あー……っと、少なくとも、ここ数年はいたことねぇ」
「あ、あのさ、先に言っとくけど、私その場の勢いだけでワンナイトラブとか無理だから!」
「だからー、そう思われんのが嫌でよぉ、必死にその気がないフリしてたんじゃねぇかよ」
「ッ、……!」
何故か少し不貞腐れたような顔で言って、三井くんが小さく舌打ちする。私はまるで夢でも見ているかのような、目の前の現実に動揺を隠せない。
「で、お前は?ああいう事言うってことは、嫌われてはねぇよな?」
そう言いながら、よっこらせ、といつの間にかベッドから降りた三井くんが私の方に近づいてくる。どくん、と心臓が大きく跳ねる音がして、私は反射的に一歩後ずさる。
「ちょ、み、三井くんッ、ち、近いって……」
「へぇ。近ぇとなんか困ることでもあんのかよ?」
そんな私をまるで逃がさないと言わんばかりに、三井くんが私の肩を両手で掴んで、わざとらしく屈んで顔を覗き込む。そのあまりの距離の近さに、恥ずかしくていたたまれなくなった私は必死で顔を背けた。
「あ、あるよ、だって心臓が爆発しちゃいそう……」
「はぁ?俺だってそうだよ、バカ」
聞いてみろ、とばかりに三井くんが些か乱暴に私の頭ごと胸に引き寄せ、腕の中に閉じ込める。押し当てられた胸板越しに、私と同じくらい高鳴る三井くんの心臓の音が聞こえ、触れ合う肌から伝わってくる三井くんの体温や匂いに包まれ、胸がいっぱいになる。私は観念したように、小さく息を吐くと、そっと三井くんの背中に手を回した。

「なぁ、ちゃんと言葉で聞きてぇ」
腕の中に閉じ込めた私の頭の上に顎を載せたままで、三井くんが少し甘えたように呟く。
「……すき、私、三井くんのことが好き」
心臓の音にかき消されそうなほど、小さな声で私ははっきりとそう告げる。私がそう言った瞬間、仰ぎ見た先の三井くんの顔がみるみるうちに赤くなり、今まで見たことがないほど、とびきり甘い顔で笑った。
「あー、やべぇな……にやけちまう。俺もみょうじのこと好き。すげぇ好き」
まるで緩んだ顔を隠すようにして、三井くんが私の肩口に顔を埋めながら、低く囁く。三井くんの甘く魅惑的な声が皮膚を伝って耳に伝播する感覚に、背中がざわつく。
「なまえ」
身じろいだ私の頬を三井くんの大きな手が包み込むように触れ、見上げた先の薄茶色の瞳が泣きたくなるほど優しく私を見つめていた。ほどなく、その形の良い三井くんの目がゆっくりと私の目の前で伏せられ、私もまた静かに目を閉じた。


大人の夜は突然に 前編



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